講義の後もサークル活動やらなんやかんやあって、遅めに帰宅した。一階の土間まで醤油と野菜の煮える良い匂いがしてきて、誘われるように知玄(とものり)は階段を上がり、「ただいま戻りました」と茶の間の入り口に立った瞬間、手から教科書の束がバサリと落ちた。 「お帰りー。今日は遅かったじゃない」 「どうもお邪魔してます」 　母の向かい側、知玄の指定席にいた茜が、炬燵から脚を抜いてこちらを向き、深々と頭を下げた。 　聞いてない！　いや、あとでうちに来るとは茜本人の口から聞いていたが、こんなにガッツリと入り込んで来るなんて。 「ほらほら、遠慮しねぇでどんどん食え。肉も野菜も沢山あっから」 「ありがとうございます、いただきますっ」 　兄が甲斐甲斐しく茜の世話を焼いている。せっかく久しぶりのすき焼きなのに、ショックで全然嬉しくない。知玄は母と兄の間にちんまりと座り、味の分からない肉を咀嚼(そしゃく)した。 　父までもが相好を崩しているし、兄がそれに舌打ちをすることもない。母はいつもの調子だし、まるでごく普通の幸せ四人家族だ。状況が呑み込めない知玄を除いて。 「丸々今週いっぱいですか？」 「そ。小説のネタに、うちの仕事を取材したいんだとよ。で、うちは始業時間が早いから、いっそ泊まり込んだら？　ってことになって」 「なんだぁー。そういうことですか」 　知玄はいつものように、兄のベッドにもぐり込んでいる。茜の目があるので、知玄は自分の部屋で寝ようと考えていたが、 「うちの子達変わってるんだよ。この歳になってもまだ、一人で寝られないの」 　母によって、兄弟で毎晩同じベッドに寝ていることを茜にバラされた。実は知玄は幼い頃からビビりで、中学まで両親の部屋で寝ていた。最近知玄が兄の部屋に入り込んでいるのは、その延長のようなもの、と母には思われているらしい。 「なんだよ」 　兄は知玄の頭を撫でた。知玄は兄に少し近付いて言った。 「キスくらいなら、してもいいですよね」 「おぉ」 　音を立てないよう慎重に、兄の唇に口付ける。探るように舌を這わせ、背中に腕を回すと、やはり物足りなくなってしまう。見透かすように、兄の手は知玄の背中をトントン叩いた。 「やらないぞ」 「わかってます」 　抱き合い、脚を絡め合って目を閉じる。茜がうちに来たことを両親は大層喜んでいたのは、兄の元カノなぎさを失って空いた穴を埋めるようなものなのかと考える。なぎさが近々結婚するというニュースに、両親は兄以上にショックを受けていた。まさか、あわよくば茜ちゃんをなぎさちゃんの後釜に……？ 　薄目を開けると兄もまだ起きていて、目が合えば、兄は目を細めて微笑んだ。兄にとっては今は弟が一番。そう思わせる笑顔だ。 　だが翌朝、兄の運転する四トンのミキサー車の助手席で茜が手を振るのを見上げると、知玄は笑顔で手を振り返しながらも、妬けて不安で胸が苦しくなってしまう。