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●弟の知らない兄のこと。
納屋の二階の入り口は、天井をくり貫いただけの穴に見えた。知玄 は地上から天井へと垂直に伸びる木製の梯子の根元から、穴を恐る恐る見上げた。梯の下から三段目に手をかけてみると、少し体重をかけただけで軋んだ。
「大丈夫だって。大人でも昇れるんだから、俺らだって昇れらぁ」
ぶかぶかのトレーナーの袖を捲り上げる、兄の背中が大きく見えた。当時、知玄はまだ四歳かそこらだった。兄との歳の差は約一歳半だが、他人には二、三歳は離れていそうだとよく言われた。
日焼けして、よく磨いた椅子の脚みたいに滑らかで細長い脚が、知玄の目の前を上がって行く。あの時、何がなんでも兄を止めていればよかったと、知玄は思う。梯子を昇った先は誓二 さんの塒 だった。
昼食の後、兄と母が病院へ行ってしまうと、誓二さんが「ちょっと話をしよう」と言うので、知玄は誓二さんを自室に案内した。本だらけで足の踏み場もない部屋で、誓二さんはベッドに腰掛けて語った。Ωやαのこと。その生態や歴史、現在置かれた境遇について。それから、知玄の知らない兄の話。
誓二さんは兄が連れ帰ったおチビちゃんの顔を見ると、祖父と一緒に帰っていった。
知玄は一人になった部屋で、結局誓二さんは何を言いたかったのかと考えた。誓二さんの話が解りづらかった訳ではない。むしろ筋道が立っていて分かりやすかった。だが、オチがないというか、物語を通して何を訴えたいのかわからない、そんな感じだった。
知玄は壁を埋め尽くす本棚を見上げた。これを見て誓二さんは「さすが兄弟。お前も本読みなんだな」と感嘆した。兄が本を読むなんて。この、本でごっちゃになった知玄の部屋に兄が足を踏み入れる時、いつも兄は「うわっ」と言う。知玄の知る兄は、漫画しか読まない。兄の最近のお気に入りはONE PIECE。
知玄は本棚の一番下の段から天体図鑑を引き抜いた。ページの間に写真を隠してある。兄の高校時代の写真だ。知玄は全然知らなくて、誓二さんはよく知っている、兄の姿を写した一枚。兄なら絶対この本に興味を持たないと思ったので、ここに隠した訳だが、むしろ“兄の隠し場所”としては、うってつけだったかもしれない。兄は科学の本が好きだと誓二さんは言った。知玄の部屋に科学の本といえば、天文の本くらいしかない。
写真の中の兄は、今と違って細くて華奢で髪が長くて、可憐な少女のようだ。誓二さんによれば、当時の兄は発情期 が重くて、三日三晩寝込むほどだったという。もしかするとその頃は、一時的に見た目も男好きのする容姿に変化していたのかなと、知玄は想像した。
日の当たるベッドで、発情期の熱と交尾に疲れた背を向け、枕元に広げた科学雑誌を無心に読んでいる兄の後ろ姿が、いやに鮮明に脳裏に描かれる。
『単に生き物好き』
だから、兄は誰にも内緒で腹の中に子を育むことを、それなり楽しんでいただろうと、誓二さんは言った。
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