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1章 第7話

 結局、空気の重さからカレーうどんを中々食べられずにいた俺をあの空間から救い出しくれたのは、予想外にも狩野だった。 「ねー、真澄くん、一年生だよねえ? 何組? 俺のセフレにしてあげるよぉ」  そう言って目の前で笑うのは会計の百合である。誰が下半身男のセフレなんかに、なんて口が裂けても言えないな。  ははは、と乾いた笑いを浮かべながら遠慮しますといいつつ、水を口に含む。  すると、隣に座っていた狩野が机をばんっと叩いて立ち上がり、俺たちの間に割って入った。 「やめろよ! 俺の真澄に勝手にセフレとか言ってんなよな! いい加減にしろ! 行くぞ、真澄!」  突っ込みどころが多い。なんだ俺の真澄って。俺はいつからお前のものになった。今までもこれからも、この先一生お前の物になる予定はないぞ、狩野よ。お前の発言のせいで副会長の顔がすさまじく恐ろしいことになっているんだが、訂正してはくれまいか。  手を引かれて食堂を出ていく俺に百合がにこやかに、しかし意味ありげな笑みを浮かべながら声を掛けた。 「また明日ね。須賀真澄くん」  後ろを振り返ってみると、百合の吸い込まれるようなグレーの瞳と目が合った。ゾクリと背筋に冷たいものが走る。  ―俺、あいつの気を引くようなことしたか?  また明日、という言葉に嫌な予感を覚えながら俺は食堂を出て寮に戻った。  キャンキャンと騒ぐ狩野の言葉は頭に入らず、世良から来たメールに心配すんなとだけ返してその後は一日、本を読んで過ごしたが何をしても百合の目が頭から離れない。一日経った今でも寮から教室までの道のりを歩きながら胸の中を覆うもやもやとした気分は晴れない。  隣にいる頼人が、教室に行ったら会計がいたりしてねとか言っているがそんな恐ろしいことがあってたまるか。  青いネクタイのせいで学年はばれてはいるが、クラスは教えていない。大丈夫だろう。  ―なんて、そりゃ生徒会会計なんだから調べればわかるに決まっているよな。  クラスのドアを開けた俺の姿を視界に入れた瞬間、にこやかにこちらへ手を振る会計を見て俺は気絶しそうになった。俺の席に座っている会計の周りにはチワワと呼ばれる、所謂可愛い系男子の集団が群れを成している。  勘弁してくれ。と思いながら心配そうな顔をしている我妻と田島に挨拶がてら手を振って……後ろで悶えている頼人は後でお仕置きしよう。逃げ出したい気持ちを叱咤しながら席に向かった。 「あの、会計様が俺に何か御用ですか?」 「成瀬でいーよん!真澄くんとお話ししたくってさぁ、来ちゃった」  会計に声を掛けると、ぱちりとウインクされた。周りのチワワ達から歓声が上がった。手を口の前で組んで、ニコッと笑うご機嫌な会計に、これは大丈夫な奴か? と不安になる。  会計様、カッコいい……とか言っている奴がいるが正気か? あからさまにやばい奴だろ。 「話って、俺会計さ―」 「成瀬」 「……百合先輩と話す用事なんてないと思うんですが、何かしましたか?」  敢えて距離を置くために会計様と呼んだのに名前で呼べという圧力を感じて仕方なく呼びなおす。  少し不服そうではあるが、まあ満足したようで会計はうんうんと頷いて小首を傾げた。 「用事がなくっちゃ話しかけちゃいけない?」  ―ダメだろ。立場的に。  なんて口が裂けても言えない。言えないが言いたい。  周りのチワワの視線が俺に集まる。心なしかクラス中だけじゃなくクラスの外からも視線が突き刺さって痛い。分かってないはずがないんだろうが…わざとなのか? 俺はなんとも言えず、歯切れの悪い言葉を繰り返した。ニコニコと笑う会計がさらに爆弾を落とす。 「だって、セフレにはなってくれないんでしょお?」  じわりと背中に嫌な汗が伝う。  会計の顏は笑っている。が、この周囲を煽る行為を態とやっているということははっきりと感じ取れた。  そんなことをここで言ったら、自分の親衛隊が黙っていないなんてこと、わかり切っているわずなのに。  ―昨日断ったのが気に障ったのか?  俺が頭の中で会計に目をつけられた理由を考えていると、教室の入り口から聞きなれた声が聞こえた。 「おーおー、誰かと思えば百合じゃねえか。俺の生徒になんか用か?」 「あーB組って世良ちゃんのクラスだったの?」 「そーだよ。もう朝礼始まるからさっさと自分の教室戻れ、ほら。お前らも散った散った」  見ると世良が気だるげな様子で生徒をかき分け教室に入ってきていた。他のクラスの生徒たちを追い払うようにしっしと手を払う世良の方をちらりと盗み見ると、目が合っていつものように笑いかけられる。  少し安心してほっとしそうになったところで、百合の手が肩に置かれる。 「真澄くん。またね」  耳元で囁いて百合は後ろのドアから出て行った。  その後ろ姿を見ながら、百合の中で"また"があることにげんなりしながら俺は机にカバンを置いた。 *** 「いつから百合に目をつけられたんだお前は」 「知らねえよ…俺が聞きたいさ……」  朝礼が終わった後、世良から昼休みに国語準備室に呼び出された俺は、言われたとおりに準備室に来て開口一番、そう言われて頭を抱えた。実際、目をつけられたのは恐らく昨日だろうけど、あの出来事はきっと世良の耳にも入っていると思うので何も言わない。  百合がああいった行動を起こしてくれたおかげで、俺はきっと彼の親衛隊に目をつけられただろう。  それだけじゃない。  昨日の一件で生徒会の親衛隊や風紀委員のファンクラブにも目をつけられた。"制裁"という言葉が頭を過る。  非常に面倒なことになった。 「まさかこんなことになるなんて…教室で助けてくれなかったらぶっ倒れていたかも」 「ははっ、厄介なやつに好かれたもんだな。お前も」 「好かれたっていうか…うーん、好かれているわけじゃなさそうだけどな」  弁当を片してパックジュースのストローを咥える。りんごの味が口の中に広がってすっきりとした気持ちになる。  百合のセフレにならなかったから話をしに教室に来た。という行為が好意によるものだとしたら、それを教室で口にするのは俺を追い込む行為だとわかっていないことになる。  頭がいいと噂の彼がそんなことをわからない訳がないと思うので、あれは態とだと考えると、とても俺への好意だと思えない。 「百合は生徒会の中でも一番何考えてるかわかんねえ奴だからなー」  世良が携帯を弄りながら言うと同時、廊下の方からコツコツと足音が聞こえてくる。  昼休みに国語準備室に寄り付く人間なんてそうそう居ないはずなのにと俺と世良は揃って首を傾げた。  その足音は丁度準備室の前で止まり、コンコンとノック音がして扉が開かれた。 「こんにちはぁ。真澄くん受け取りに来ましたー」  現れた茶髪に俺はビクリと体を固くした。  どうしてここに、という疑問は何も言わずとも空気を察した百合が「真澄くんのクラスの親衛隊の子が教えてくれてねぇ」と勝手に答えてくれた。  隣の世良がにこやかにいう。 「悪いがまだ用事が済んでなくてなー」 「じゃあ、終わるまで待ってますねー。次の授業、真澄くんの免除書類取ってきてるんでー」  ぴらぴらと見せられた紙は、俺の名前が書かれた授業免除申請書だ。  鴻上学園は特殊な学園なので生徒がなんらかの理由で授業免除の申請書を出してそれが生徒会または風紀と、教師に受理されればその生徒は授業を免除される。とはいえ、ある程度の出席日数や、学力等は必要だが。  世良がお手上げだ。と肩を竦めて見せた。一教師としての立場ではこの辺が限界だろう。世良に軽くお辞儀して俺はパックジュースをゴミ箱に放る。  弁当箱を持って何か用があるらしい百合に向き直り、行きましょうとだけ言ってドアの方へ歩き出す。すっと細められた目が、一瞬世良の方を見てすぐ俺に向き直った。  連れて来られたのは自習室と書かれた空き教室だ。  鍵を開けて我が物顔で入っていく百合をじっと見るとニコッと笑って背中を押される。 「ここはねぇ、俺のヤリ部屋。心配しないで、手は出さないから」  ヤリ部屋と聞いて、俺はギクリと身を固くした。手は出さないとは言われたものの、警戒は怠らない。じっと百合を見る。  細く締まった筋肉、広い肩幅。百七十と少しある俺より高い、おそらく百八十ある身長の百合。その百合に襲われればごく平均的な体型の俺は負けるかもしれない。  セフレになるかと言ってきている男のヤリ部屋にその相手と二人きりで入るなんておかしいだろうと思うが、入らないという選択肢はもうないと言わんばかりに百合が俺の背中に右手を回して促す。  仕方なく一歩空き教室に足を踏み入れる。 「俺に話って、何ですか」  じわりと手汗を掻く。俺に回していた手を放して、部屋の扉を閉めた百合がさっさと教室の中へと入っていくその後ろ姿に声を掛ける。  振り返って俺を見た百合の歪んだ笑みに息を詰めた。くすくすと笑う百合が警戒心丸出しの俺の肩に手を置く。 「雅貴と仲良くしてるんだねぇ。妬けちゃうなぁ」  耳元でそう囁かれて俺は今朝すっかり寝坊して置いてきぼりにした狩野を思い出す。あいつが原因か、と理解したがこの現状を打開してくれる訳ではない。  百合のくすくす笑う声がやけに耳に残る。 「ねえ、真澄くんさー。オメガでしょ」  ふと、俺の視界一杯に吸い込まれそうなグレーの瞳が広がる。端正な顔が目の前でにっこりと笑みを結んで巨大な爆弾を落とした。  生徒名簿にはベータって書いてあったんだけどね、と付け足して百合は自分の口の前に人差し指を立てる。  俺の目に狂いはないよ、というこの男の言葉が死ぬほど恐ろしく感じた。 「まあ、学校側に本来の性別を提出していれば表向きはベータであってもいいとは言われてるけど、真澄くんって、ベータって感じ、しないんだよね」  咄嗟に笑みを浮かべる百合の体を押して距離を取る。  ベータという感じとはなんなのかとか、お前の目はおかしいんじゃないのかとか、言いたいこと、いうべきことは山ほどあるのに全くと言っていいほど口から何も出てこない。 なによりも今重要な俺の性別がなんの関係があるのか、その質問さえ、口からは一切出てこない。 「無防備だよね。真澄くんって…このアルファだらけの学園でそんな風に無防備だと、そのうち噛まれちゃうかもよ」  う、な、じ。と小さな声で唇が形作る。ギラリとした目に視線が釘付けにされる。  今噛まれたところで番にはならないが、この男に噛まれるかもしれないという恐怖心が俺を蝕み無意識に手が項を庇った。 「あは、そんなことしたら余計に自分がオメガだって肯定しているようなもんだよ!」 「~~っ!」  図星を付かれて何も言葉が出ず、思わず目を逸らす。目の前で笑う男の笑みがさらに深くなった。自分の行動が裏目に出たことに顔を顰めて項を庇っていた手を下す。  しばらくの間、俺たちに沈黙が訪れる。  百合はニコニコと笑みを浮かべたまま何も話さない。その笑顔が気味が悪くて俺は益々口を噤む。  そうした時間が数十分ほど過ぎてから、あ、と百合が思い出したように突然口を開いた。 「今度ある生徒会主催のイベント、真澄くんを一番に捕まえに行くから、覚悟してね」  にやりと笑う姿が様になっている。俺を一番に捕まえに来るって、新入生歓迎会、こと新歓のルールはまだ発表されていないが、その真意を測りかねる。  俺が知る毎年の新歓のルールでは捕まった人にペナルティはなかったと聞くし、どちらかというと生徒会が特定の生徒だけを一番に捕まえに行くのは、その時好きな相手への正式なアプローチ法だとかなんとか。親衛隊が邪魔しないように、他のアルファに邪魔されないように、周りへの牽制だとか、そういうの。もしくは、恋人という主張だとか、兎に角恋愛の意思表示だったはずだ。  世良のいう百合の考えはよくわからないという言葉を思い返して、確かにその通りだと心中頷いた。狩野のことが好きなんじゃないのか?  もしかしたら、今年の新歓のルールで一番に捕まった生徒がなにか罰ゲームがあるとか変わったのかもしれない。それなら嫌がらせだろう。どっちかというならその可能性が高そうだ。 「楽しみにしててね。真澄くん」 「は……はあ」  にこやかにいう百合に嫌がらせっぽいなあと思いながら返事をする。  丁度授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、百合が俺に背を向けて教室を出ていく。じゃあね、という軽い言葉を聞いてはっとする。俺も、慌ててすぐに空き教室を出た。 *** 「今朝の会計は何だったんだ?」  教室へ戻ると心配した様子の田島が我妻と、あと一人興奮気味の頼人を連れて声を掛けてきた。恐らく三人で話をしてたところに俺が戻ってきたといったところか。 「いや、わからない。きっと何でもないよ」  にこやかに答えれば田島が余計に心配そうな顔をする。本当に大丈夫だという意味も込めて肩を叩いてやれば頼人が横から割り込んで話しかけてくる。 「でも、今会計のとこの親衛隊がざわついているらしいから気を付けてね、ますみん」  会計の親衛隊が、ねえ。予想通りではあるがと腕を組むと教室のドアから大きな声で俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。狩野の声だなと理解した途端隠れたくなる俺とその横できょとんとする友人二人と、にやけが止まらない頼人。  俺はもう現実逃避がしたくてたまらないぞ、という目で頼人を見ると口の動きだけでありがとうと言われた。どうやら意思の疎通はできていないらしい。  バタバタと音を立てて駆け寄ってくる狩野に張り付けた笑みを浮かべて挨拶をする。  なんで朝起こしてくれなかったんだと怒って詰め寄られたので、不本意ではあるが謝っておいたら何故かあっさりと許された。  それよりも、と狩野が人差し指を俺に指す。 「五時間目成瀬に呼び出されたってなんだよ!!」  ―なんでその話をお前が知っているんだよ。  俺は気が遠くなりそうになるのを気合で堪え、張り付けた笑顔が引きつるのも気にせず答える。頼むからもう少し小さな声量で話をしてほしい。 「ちょっと話があるって呼び出されただけだよ。なんでもないから」  横で聞いていた頼人がエッチなこともなかったかーというのをしっかりと聞き取っておく。あとでお仕置きだぞ。  俺の返答を聞いた狩野が本当に何にもなかったのかと食い下がるのをチャイムが止めた。授業が始まるよと言えばぐっと言葉を飲み込んで狩野はなんもなかったらいいと自分の教室に戻っていった。  横で「王道くん……まさか」と頼人が呟く。意味はわからなかったが、なんとなく腹が立つので頬を抓っておいた。

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