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1章 第9話
***
時刻は、夜の九時を少し回ったところだった。俺のスマホが着信を知らせる。マナーモードでブブブと振動するそれが画面に表示したのは、希代頼人の文字。
「もしもし。頼人か」
『やっほーダーリン! さみしかった?』
「…………切るぞ」
『ウソウソ! ごめんごめん』
「ったく。で、新歓と会計の親衛隊の情報は手に入ったのか?
『もちろんだよー!』
楽しそうにいう希代に礼を言って情報の内容を聞く。今日の放課後、あまりに心配する我妻と田島にどう言えばいいか悩んでいると、頼人が「じゃあ、情報を集めてあげるから先手を打ってこーよ」というのでその案に乗ることにした。
頼人が集めた情報によると、会計の親衛隊はどうやら下っ端が不穏な動きをしてはいるが幹部以上が直接動くことはまだないらしい。まあ、そんなすぐ動かれても……という気もするがと言ったら頼人に甘いと叱られた。
幹部が直々に動くことはないとは言え、下っ端の人間の嫌がらせは多少なりともあるだろう。親衛隊の話はそれくらいにして問題は"新歓"なのだが、と、言うと頼人が少し息を荒げ始めた。
『あのね…真澄くん。落ち着いて聞いてね』
「あ?ああ…なんだよ」
『新歓なんだけど…内容は鬼ごっこで去年と変わりはなかったよ。ただね……―』
「―………んだよそれ」
頼人が話したそれは俺の頭を悩ませるものだった。
ルールを端的に言えば、一年と三年が逃げて二年と生徒会が追いかける鬼ごっこだ。ちなみに鬼は増えない。ここまでは去年と同じだ。
最初に、特殊カードか、ノーマルカードのどちらかが配られ、それを鬼に渡した時点で捕まった判定となる。制限時間内で、最後まで捕まらなかった生徒は生徒会からのご褒美と食堂の幻のデザート無料券が貰えるらしい。
そして、件の「一番最初に捕まえる」についてだが、生徒会に一番最初に捕まった生徒はその捕まえた生徒会役員からの命令を可能な範囲で一つ叶えなければならない。
額を押さえて天を仰ぐ。少し、というかかなりテンションが上がっている頼人も空気を読んでか、それ以上は何も言わない。
まさかな、とは思っていたが話を聞いてその可能性が出てきている。
―百合が俺を一番に……命令ってなんだよ? やっぱりもしかして好意を寄せられてるのか?
従来で言えば、生徒会役員が宣言をして、意思を持って一人の生徒を一番最初に捕まえに行くという行為が、即ち周りへの牽制だったりカップル宣言だったりする。つまりは、百合のあの発言は、遠回しな告白ともとれる。
一体どのタイミングだったのか。それは一切分からないが、数十パーセント残るただの嫌がらせというよりは非常に現実的な考えだ。
この広いようで狭い学園内。恋愛は人それぞれだし、自由だと思う。しかし自分に気持ちが向けられるとなると話は別だ。
ましてや、百合は、俺がオメガであると"知っている"。そう、知られているのだ。
例えば、寮の部屋で狩野がいて、俺がヒートを起こしたとする。抑制剤はベッドサイドに置いてあるし、自室には鍵が付いているので閉じこもることに成功さえすれば、問題はない。
だが、百合は別だ。教師や風紀委員、そして補佐以外の生徒会役員は教室や寮の談話室などを開けることができるようマスターキーの機能がカードにつけられている。緊急時に対応できるように、とのことらしいのだが、正直風紀委員長と教師だけでいいと思う。
会計である百合相手には閉じこもる作戦は使えない。つまり自室以外のどこかでエンカウントしてヒートを起こしたらアウトなのだ。
百合は、俺を番にしようと思ったらできる。
その事実に一瞬ゾクリとしたが、すぐに意識を切り替える。俺は自意識過剰ではないからな。
―まあ、でも抑制剤は手放さないし、百合も、もしかしたら好きというよりかは興味があるっていうか、動物園の猿を見ている気分なのかもしれない。手を出される危険はあるけど、自衛していれば大丈夫だろう。
楽観的な考えにシフトして、俺は頼人と少し話をしてから通話を切ってさっさと眠りについた。
***
時は少し経って早くも新歓当日。俺は鏡の前で支度を整えていた。
頼人から届いたおはようのラインに既読をつけてフッと笑う。可愛らしいスタンプがつけられた個別ラインとは別に俺、頼人、田島、我妻の四人のグループにも律義に違うスタンプを貼り付けている。
グループの方にはおはようとだけ返信して個人の方に頼人からプレゼントされたスタンプを貼り付けると、ものの二十秒程度でその頼人から個別ラインに「ますみんからスタンプが返ってくるなんて!」と返信が来ているのを確認して、俺は鏡を見る。
最終チェックをして大丈夫そうだと一つ頷き、洗面所を出ようとすると、いつからいたのか後ろに狩野が立っていた。
「あ、お、おはよう!」
「ああ、うん。おはよう」
「新歓!! 楽しみだな!!」
「あー…そう、だね」
元気に挨拶を投げかけてくれる狩野にやんわりと微笑んで答えると、新歓の二文字が飛び出してきたので曖昧に答える。歯切れの悪い俺に不思議そうな顔をしながらも、狩野は捕まらないように頑張ろうな、と元気よく笑った。
―俺を追ってくるの、会計だから。適当な二年の生徒に態と捕まることにするよ
心の中の言葉は言わず、とりあえず返事だけは同意で返して、今日は食事を用意できそうにないので食堂に行くかと決めると、狩野との共同スペースであるリビングのソファーに置いたカバンを持って玄関に向かう。後ろで狩野が俺も行くと慌てているので仕方なく待ってやることにした。
その間、頼人にラインを入れて食堂で待ち合わせることに決める。すぐに返事が返ってきたので恐らく支度は済んでいるのだろう。あと、単純にスマホ触ってないと気が済まないんだろうな。
「俺は狩野雅貴! 雅貴って呼んでくれ!」
「僕希代頼人。仲がいい人にはあだ名を付けるのが趣味なんだ! ますみんは須賀真澄だからますみんね。まさきっちは呼びにくいから、よろしく狩野っち」
「お! それが呼びやすいならそれでいいぞ!! よろしくな! 頼人!」
狩野と頼人の会話は、なんだかんだでこれが初である。というか、狩野が眼中にないかの如く、頼人には話しかけなかった。
それにしても頼人の野郎、絶対に名前で呼んで生徒会に目を付けられたくなかったから狩野っちにしただろ。そのためだけに俺はますみんで定着するのか? 前々からそう呼んではいたけど、いいとは言っていないぞ。大体、なんだよ、あだ名を付ける趣味って。初耳だ。
ニコニコと笑う頼人の笑みの胡散臭さに寒気がして俺はサンドイッチを半分残す。それを狩野と希代がもったいないと二人で分け始めたので黙ってスマホを弄りながらそのやり取りを聞いていた。
「おーはよぉ。真澄クン」
耳元に吐息が掛けられて俺は背筋がぞくぞくするのを覚えながら、咄嗟に耳を押さえて席を飛びのく。
ニコリと笑って立っていたのはこの何日間かで見慣れた百合成瀬だった。
「百合、先輩……」
「ちぇ、エッチな声って、でないもんなんだねぇ。親衛隊の子はこれでイチコロなんだけど」
百合が笑う。とらえどころのない笑みでふざけたことを言う百合に、思考がまるで追い付いていない。何がイチコロなんだとか、恐らくまともな、正常な脳であれば分かることを聞いてしまいたい。そんな気持ちになる。
ふいに百合が右手をそっと伸ばして、俺の頬を撫でた。
すりすりと撫でて満足したのか、ぱっと笑顔の花を咲かせると言葉の爆弾をひとつ落とす。
「今日の鬼ごっこ、捕まる覚悟してきたよね? 俺、本気だよ」
満面の笑みが瞬きの間に不敵な笑みに代わっている。
ころころと変わる表情だ。なんてぼんやりと現実逃避していたら、百合の顏が思った以上に近くなって、気付いた時には頬にキスをされていた。俺の全身がびしりと石になったように固まる。
「あ、それと、親衛隊にはちょっかいださせないから安心してね」
唇が離れて耳元でそう囁かれてハッとする。じっと顔を見つめると百合は微笑んだ。親衛隊ってことはこの間の件か?やはりわかっててやってたんだなこの男と俺が一人で考え込んでいると百合がもう行かなきゃと言った。
「じゃあ、また新歓でね……必ず捕まえるよ、真澄くん」
ばいばい、と軽く手を振って百合が去っていく。
嵐が去った俺には周囲からの痛いほどの視線と、希代と狩野の視線が突き刺さっていた。
「で、そのあと狩野っちに質問攻めされてたって感じ!」
少し遅くなったが、まだ若干余裕のある時間に教室に着くと、先に着いていた田島と我妻が食堂の噂を聞いたのか心配そうな顔で話しかけてきたので、頼人がノリノリで状況を説明する。
多少の脚色を混ぜようとするので、そうなりそうなときは拳骨を落として話を矯正してやると、まあそこそこまともな話が二人に伝えられた。
会計が……、という顔をしている二人をよそにカバンからスマホを出して画像フォルダからリストを引っ張り出す。二年生の安全そうな人で且つ、親衛隊に属していない人をピックアップしたものだ。
今日考えている必勝法には大事な点が二つ。まずひとつは逃走経路を確保すること。
これは百合に万が一見つかって、その時に近くに協力してくれそうな相手がいない場合に使う。
逃走経路は百合と自分との体格の差や足の速さ、運動能力を考えて最適なものを割り出している。ちなみにこれはフォックスに頼んだ。
それから、これもフォックスと頼人に頼ったが、先ほどのリストに載っている二年の生徒。彼らは百合とは無関係なので、捕まえてくださいと言えばきっと捕まえてくれるだろう。イベントに乗じていかがわしいことをするけしからん生徒もいるらしいが、そういう奴は省いているし、百合の味方、即ち親衛隊を含む、俺を百合に売りそうな奴も省いておいたのでこの中の生徒は安心できる。
彼らの誰かにさっさとカードを渡して早々に離脱する。もしその前に見つかったら、逃走経路を使って撒く。これが今回の必勝プランだ。
食堂のデザート券も捨てがたいが、それは来年に期待するとして、今年は早々にリタイアするとしよう。ちなみに、ギブアップ制度はないらしい。
予習はバッチリだ。あとは本番に挑むだけ。リストに落としていた視線を上げて、我妻を見ると彼はみるみるうちに熟れたトマトのように顔を赤くして俯いた。
―嗚呼、癒される。
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