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1章 第26話

***  ふと、急に意識が浮上する。目を開けてスマホで時間を確認すると日付が変わっていた。身体を起こして伸びをして、ゆっくりと息を吐く。そういえばシャワーを浴びるのを忘れていた。すぐに立ち上がって着替えを用意して脱衣所に向かう。流石に狩野ももう風呂から上がっているだろう。  ガチャリとドアを開けると丁度狩野の部屋のドアが開いた。驚いたような青い瞳と目が合う。 「あれ、真澄今から風呂か?」 「あ、ああ、ちょっとうたた寝をしちゃって……雅貴君はどうしたの?」 「俺はちょっとジュースでも買いに自販機に行こうかなって」  ニカッと笑う狩野にこの時間に? という疑問はあるが特に突っ込む必要も感じられない。そっかと微笑んで送り出してやれば行ってくると手を振って狩野はドアの向こうに消えていった。 ***  鴻上学園は金のかかった授業システムの割に一部を除いてテストは紙とペンで行う。まあ、頭のいい生徒たちのことだからテストくらい紙で行おうが機械で行おうが変わらないだろうが。  一人一人に宛がわれたノートパソコンはきちんと収納スペースに収められ、机の上にはもうすぐ終了時間になる数学のテスト用紙と鉛筆と消しゴムが置いてある。  解答用紙を見返してすべて空欄が埋まっていることを確認して俺はチャイムが鳴るのを待つ。欠伸が出そうになるのを我慢しているとふと教壇に椅子を置いて座っていた佐藤と一瞬目があう。佐藤がにこりと微笑むと同時、チャイムが終了の合図を鳴らした。 「はい、じゃあそこまで。後ろから集めてくださいね」  立ち上がって佐藤がそういうとクラス中から固い空気が消えて途端騒がしくなる。テストの出来を話す生徒たちを見ながら俺は席を立ち自分の列の答案用紙を回収していく。今日はこれで終わりなので佐藤と入れ替わりで世良が入ってくるだろう。  一日目は化学と歴史と数学の三教科だけだ。テストは一週間続く。  答案用紙を整えて教室を出ていく佐藤と入れ替わりで世良が気怠そうに欠伸をしながら入ってきて、いくつか話をした後今日のテストは終了となった。 「須賀くん数学のここなんだけど」 「ん?ああ、ここか。これはひっかけだろうな」  解散ムードになって人がはけた教室で筆記具をしまいながら欠伸を噛み殺していると相変わらず視線は合わせられないままの我妻が近づいてきて数学の問題用紙を出して首を傾げた。その問題は少し意地の悪い、所謂ひっかけ問題というもので、我妻は回答に自信がないのか肩を落とした。 「はあ、合っているかな……」 「俺も合ってるかは分からない」  しょんぼりした様子の我妻に大した言葉もかけられず俺が困っているとポケットにしまったスマホが振動する。その長さから察するに恐らく着信か。ブレザーのポケットから取り出すと画面に表示された文字に顔を歪める。 「ますみんどったの?」  頼人が不思議そうに首を傾げながら歩み寄ってくる。いつの間にか我妻の隣に立っていた田島も俺の顔をじっと見ていた。  人の居なくなった教室にはもう俺たち四人しか居なくて、早く帰りたいだろう三人に申し訳ない気持ちを少し抱きながら俺は電話を取った。 「もしもし」 『やっほー真澄くん今教室?』 「……そうですけど」 『メール。見てないでしょ。一緒にご飯どうって送ったんだけど返事なかったからさ。この後食堂行くつもりだったでしょ?』  どう? と聞く声に確かにその通りではあるので返事に困る。流石に百合と食堂に行くのはまずい気がする。ましてや今日はテスト終わりで生徒の大半が食堂にいるというのに。俺が返事を濁していると百合がクスクスと笑った。 『心配しなくても生徒会室でデリバリー出来るしそのつもりだよ。俺と二人きりが嫌ならお友達も連れてきていいからさ。決まりね!』  一方的に言うだけ言って百合は電話を切ってしまった。結局俺の意志は関係ないということか。ため息を吐いてスマホの画面を見つめる。 「百合先輩?」  頼人が首を傾げる。俺が不機嫌な顔をしているからか我妻と田島も不安げにこちらをじっと見ていた。  頷いて肯定して電話の内容を伝えると我妻が戸惑った様子で生徒会室に行くことに抵抗感を表して見せた。まあ、気持ちはよくわかる。 「昼食を取るのはいいが俺たちみたいな一般生徒が入ってもいいもんなのか?」 「さあ? 会計がいいって言っているんだからいいんじゃないか?」  田島の疑問に帰り支度を整えながら答える。前回生徒会室に呼ばれたときは会長や副会長が咎めていたが結局言い負かされていたので力関係的に百合を止められる人間はあの中ではいないのだろう。 「生徒会室、行くの? ますみん」  頼人が珍しくムッとした表情で不服そうに言った。いつもなら萌えイベント来たー! と叫ぶところだと思うのだが、一体どうしたというのか。勉強のし過ぎで壊れたか?唇と尖らせる頼人に仕方ないだろと小さくため息を吐く。 「行かないと部屋まで来そうだし、そうなったら面倒臭いだろ」 「確かにそうだけど……」 「頼人も来てくれるなら大丈夫だよ。なーんもないって」  まだ納得いかない様子の頼人の背中を軽く叩いて笑いかける。半ば自分に言い聞かせている感じがしないでもないが、不安なのだから仕方ない。  嫌な予感がすると小声で言う頼人に再度笑って見せれば、軽くため息を吐いて頼人はやれやれと肩を竦めた。 ***  生徒会室に行くには専用のカードキーが必要になるという。校舎から繋がる渡り廊下にも厳重な扉があって、一階にも同じく扉がある。役員棟と呼ばれているらしいそこには確か風紀委員の幹部だけが入れる風紀室もあるらしいが正直自分の生活に関わることもないだろうと思っていたのであんまり詳しくは知らない。  扉の横にあるインターフォンを押すと守衛室に繋がり、アポイントを取っているならそのままロックが解除され、中にある機械で自分の持っているカードキーに一時的に用事のある階層に行くための必要な権限が足されるらしいのだけれど、今回はそもそもインターフォンを鳴らす必要性はない。  何故なら百合がわざわざ出迎えに降りてきているのだから。 「やほー真澄くん! テストどうだった? ま、とりあえず上がってよ。後ろのお友達も、どうぞぉ」 「どうも」  ニコッと笑って手を振る百合に軽く挨拶のつもりで頭を下げる。へらへらと笑う百合は一歩引いた位置に立つ三人をちらりと見て再度微笑んだかと思うと俺の背中に手を回して歩き出した。ぐいぐいと背中を押されながら俺も歩き出すと後ろの三人もゆっくりとそれに続く。 「真澄くんはご飯何食べたい? なんでも注文してよ、俺が支払うからさ。あ、もちろんお友達の分も俺持ちでいいよ。誘ったのは俺だからね、遠慮しないで」 「はあ……」  ニコニコとご機嫌な様子で話す百合に小さく頷く。何を食べたいと聞かれても特に思い浮かばないしな。  ちらりと頼人を見ると目が合ってこてんと首を傾げられた。さっきまでの不満げな表情はどこに行ったのか、いつも通りの表情に少しほっとする。なんとなく不安になっていた気持ちがマシになった気がした。  生徒会室の中は空っぽだ。電話で百合が二人きりがどうのって言った時から薄々感じていたけれど今部屋には百合と、俺たち四人だけだ。  我妻が後ろで小さく息を吐く。生徒会室と聞いて会長や副会長という人物に会う可能性を考えて緊張していたのだろう。 「今ふくかいちょーたちは狩野クンのとこに行ってていないから、ゆっくりしていって。これ、メニューね」 「雅貴君のところにですか」 「ふくかいちょーが狩野クンにお熱だからね。部屋に行くのは俺が止めてるけど、もしかしたらそのうち生徒会でお部屋訪問しちゃうかもね」  なんだそれは。冗談じゃない。  鼻歌でも歌いだしそうなくらいご機嫌な百合がお茶を淹れるからと俺たちをソファーに案内した後給湯室に入っていく背中を見ながら、内心悲鳴を上げる。  百合だけならまだマシだ。上手くやり過ごせば問題ないし、親衛隊だって過激派とはいえ百合自身が制御しているので危害も早々加えられない。  問題は副会長たちだ。百合の口ぶりから察するに副会長は狩野に好意を抱いている。狩野側の気持ちは分からないが、目の前で彼を口説きだしたりしようものなら俺はいたたまれない気持ちになるだろう。寮部屋でまで生徒会の面子と顔を合わせるかもしれないというストレスに加えてそんなものが追加されたら俺はもう寝込む気がする。  それに、万が一生徒会の面子が寮部屋に入ってくるところを他の生徒に見られようものなら、いくら彼らの目当てが狩野だとはいえ、生徒会の人と同じ空間にいたというだけで俺まで危害を加えられるかもしれない。過激な親衛隊やチワワはそういうこともあるって前に聞いたしな。 「大丈夫? ますみん」 「ん?ああ……平気」  俯いて右手で顔を覆ってため息を吐くと頼人が心配そうに覗き込んできた。顔を上げると我妻も田島も同じような顔でこちらを見ている。  へらりと笑って手を振り大丈夫だと言っても三人の顔は明るくならない。俺の不安が伝わってしまっているのだろうか。 「本当に大丈夫だって。気にしなくていいから」 「でも」 「大丈夫だって。心配してくれてありがとな」  頼人の肩をぽんと軽く叩いて笑って見せると、頼人は、それ以上はもう何も言わなかった。我妻も田島も少し表情を和らげる。  百合が置いて行ったメニューを広げる。食堂からも頼めるのか、と感心していると給湯室のドアが開く気配がして顔を上げる。  紅茶を淹れたカップとお茶菓子をお盆に載せた百合がニッコリと微笑んでお待たせと言う。俺たちの前にそれを置くとカップをそれぞれの前に置いて俺の隣に腰を下ろした。 「真澄くん、お友達には結構砕けた話し方するよね」  指を組みニコニコと笑顔で突然そんなことを言う百合にいまいち理解が追い付かず首を捻る。何が言いたいんだと目で訴えればたれ目がちな目がすっと開いて俺を映した。 「俺にもそんな風に話してよ。そんな猫かぶりしないでさあ」 「猫かぶりだなんて、そんなことは」 「真澄くん、今内心めんどくさいって思ってるでしょ。まあ、いいけどね。何頼むか決まった?」  油断した。生徒会室でいつも通り頼人たちと話したからなのか、自分にも砕けた話し方をしろ、という百合に内心めんどくさいと思っていると、顔に出てしまっていたのか自分の考えを言い当てられた。  クスクスと笑う百合がメニューを指さすので首を振ってまだ決まっていないことを伝える。困ったことにこのメニューには値段が書いておらず、普通の一般家庭で育った俺はこういう時、奢ってもらう立場の人間が何を頼めばいいのか分からなくなっていた。 頼人たちをちらりと見ると、もう決まっているらしくテーブルに置いてある紙に注文したいものを書いて百合に渡している。 「真澄くん、おすすめはこの和牛ステーキセットだよ」  俺が悩んでいると横から百合が指をさす。デリバリーと言っているが、どちらかというとホテル等のルームサービスに近いらしく、利用したことがない俺はてっきり宅配のようなものを想像していた。  暫く唸っていた俺だが、本人が勧めてきたものだし、どうせ百合の支払いで食べるなら少しくらい高そうなものを食べたって罰は当たらないかと顔を上げた。 「じゃあ、それにします」 「そ! じゃあ注文しとくね」  スマホを取り出して専用のアプリを操作し始めた百合を見ながら紅茶に口を付ける。喉を通るまろやかな味に目元が緩む。 「美味しい? 真澄くん」 「そうですね」 「はは、つれないなー」  楽しそうに笑う百合から顔を逸らして俺は生徒会室の内装に目を向ける。以前来た時にはあまり見る余裕がなかったが、こんなに豪華である必要性はあるのだろうか。家具からペンやテーブルクロスに至るまで細かな細工がされている。  一介の生徒に与えるには豪華すぎる部屋に一部役員の物であろう私物も交じっていて、部屋の雰囲気はどこか生活感がある貴族の仕事部屋といった感じだ。  恐らく百合の机らしき場所は他の机に比べて書類が少ない。仕事が早いのか、元々少ないのか。会計なのだから前者か。私物も細かな箱類がいくつかあるだけで特に目立つものはない。 対照的なのは青井兄弟の机だろう。他の机に比べて散らかっているのが目立つ。会長を真ん中にコの字で置かれた机の配列で隣に迷惑をかけているのがそこの二つの席だけだ。隣の席は私物の内容的に副会長だろうか。ということは百合の隣が書記か。  俺がきょろきょろと周囲を見回していると、ふと、生徒会室の扉の向こうが騒がしくなった。聞こえてきた声的に狩野だろう。 「仕事はしないと駄目だもんな!」 「ええ、すみません。雅貴」  ガチャリとドアが開かれて狩野と副会長、その奥に会長と青井兄弟と書記、それと槙も見える。なんで槙もいるんだ。  狩野がニコニコと入室した瞬間、俺を視界に入れるとその瞳をキラキラと輝かせた。 「真澄ー!!」 「うっ」  犬のような態度で突撃してくる狩野を受け止めてその鳥の巣頭をポンポンと撫でる。昔近所で飼われていた大型犬のジョセフを思い出す。金色の毛で懐いた相手に飛びつく癖があった。そういえば、ジョセフもこんな風に懐いてくれていたな、と思い出に耽っていたが、ふと副会長と百合からの視線が突き刺さっていることに気が付いて、その手をそっと肩に移動させ狩野を自分から引き剥がす。  副会長がわなわなと震える指先で俺たちを指してその唇を開いた。 「そ、その……須賀君と雅貴はどういう関係ですか……?」 「あ、いや」 「真澄は俺の天使だぞ!!」  引き攣った顔の副会長に適切なフォローを入れようと口を開くが狩野の大きな声で遮られる。というか待ってくれ、なんだ天使って。誤解生むだろう。 「て、天使……?」 「そうだ! 将来は番になって、結婚したいくらいだ!!」  今にも泡を吹いて倒れそうなくらい動揺している副会長の震える声。情けなく響くそれは普段自信に満ち溢れた彼にしては珍しい。貴重なその姿をついまじまじと見る。  副会長の隣に立っていた書記が突然ふらついた副会長を支えているのは中々に見られない光景だろう。チワワが見たら発狂するぞ。あと後ろの頼人もぶるぶる震えてる。  そんな副会長に止めとばかりに満面の笑みで、狩野がふざけたことを言い放つ。生徒会がどこまで事情を把握しているかは知らないが一応ベータで通しているのだからそう軽々しく番だとか言わないでもらいたい。あと俺お前にオメガだってこと教えたことないような……。  副会長がついに青い顔で崩れ落ちたのを見ながら俺はため息を吐いた。狩野に一言、言ってやろうと口を開こうとするが、それを百合の冷たい声が遮る。

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