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1章 第27話
「ふざけたこと言わないでくれない?」
あまりに冷えきった声に部屋中の視線が百合の方へと向く。
笑顔が貼り付けられたその表情は、いつもと変わらない緩い笑みと何かが違う。威圧感まで感じさせるその目が、ちっとも笑っていないのだ。笑っている割に怒っていると感じさせるそれに、流石の狩野もたじろぐ。
一歩一歩狩野の元へと近づいて、百合が囁くように言う。
「真澄くんを好きになるのは勝手だけど、番になるだなんて許さない」
「……ーっな、真澄はお前のもんじゃねえだろ!」
「俺のだよ」
「~~~っ」
反論しようとした狩野だが、急に真顔になった百合に食い気味に返されて言葉に詰まる。剣呑な顔で狩野に百合が手を伸ばす。その手が何をしようとしているのか分からないが、なんだかとてもよくないことが起きそうな気がして咄嗟に百合の手を掴もうとした。
「そこまでだ。百合」
声を発したのは槙だ。
つかつかと歩み寄って二人の間に割って入る。距離を取らされた百合が小さく舌打ちをした。心なしか、風紀委員長というオレンジの腕章が輝いて見えた。
「なぁに? 槙センパイ。今雅貴クンとお話してんだけど」
「風紀委員として喧嘩になりそうな問題を仲裁するだけだ。それと」
じとりとした百合の目に平然とした様子で槙は返す。ちらりと俺の方を見てから、一つ咳ばらいをする。
「お前たち二人は先程から須賀を番にするだのなんだの言っているが、須賀はベータだぞ。結婚はおろか番になるなんて不可能だ。あと、本人の意思も少しは尊重してやらないと嫌われても知らないぞ」
今、心の中の俺が沸いた。槙には何度かメッセージで話したときうっかりオメガであることを話してしまっている。まあ、話さなくとも風紀委員長は生徒全員の本当の性別を知っていたらしいのだが、ともかく本当の性別を知る槙がわざわざフォローを入れてくれたことに俺は猛烈に感動した。
狩野は俺の感は当たるんだとか喚いているが百合は何かを考えているのか黙ったまま槙を睨むようにじっと見ている。
誰もなにも喋らないので空気が重い。会長たちの顔には混乱の色が含まれている。この分だと俺の性別は生徒会にも明かされてないらしい。百合にはバレているが。
「それもそうだね! そういうことにしとこうか。そっちの方が都合いいんだもんね」
暫くしてニコッといつも通りの笑みに戻った百合が俺の方を見て言った。
都合がいいとかそういうんじゃなくて、そういうことにしてもらわないと困るのだけれど。
ため息を吐きたい気持ちを抑えて苦笑いを浮かべる。
狩野はまだなにか騒いでいるが、一件落着といった雰囲気に安堵する。チラッと槙の方を見ると目が合った。サンキュと唇の動きで伝えれば槙も同じようにしてどういたしましてと返してきた。
ーー安心して身体から力を抜いたその時だった。
部屋の温度は常に最適な温度を保っているというのに妙に熱いと感じる。身体の芯から熱を持ち、異常なまでに喉が渇く。妙な息苦しさでその場に立っていられなくなり、ソファーの背もたれを鷲掴み、膝を付いた。
渇く。身体が熱い。視界がぼやける。うっすらと涙が浮かんでいるのか。頭が上手く働かない。
「真澄くん!」
声を上げたのは頼人だった。見上げた顔はどこか頬が赤い。
疼く。身体が、熱を欲している。これはヒートだ。逃げないと。ここにはアルファが沢山いる。
まとまらない思考で唯一導けた答えを俺は譫言のように繰り返す。周囲の様子がどうなんて、見る余裕はなかった。このままじゃまずい。
抑制剤を取ろうと視線をカバンの方に向けようとして百合と目が合う。その手がこちらに伸びたのが見えて、俺は駄目だと分かっていながら、無意識にその手を握り返そうとした。
「須賀君!しっかりするんだ、抑制剤を飲んで!」
はっきりとその澄んだ声が聞こえた瞬間、口の中に錠剤が放り込まれる。生理的な涙が滲む。そのまま慌ただしい音ともに生徒会室に数人の生徒が入ってきた。
何か話した後俺は誰かに横抱きにされて生徒会室から連れ出される。その腕に覚えがあった。うっすらと目を開けると端正な顔立ちの、見慣れた担任教師の顔が合って、俺は安心して意識を手放す。
***
「あ、目を覚ましたかい?」
瞼を開くと見慣れない雰囲気の特殊な装飾が施された広い室内にいた。
美しい顔の、一見女性にも見えるが鴻上の制服を着ているからには男なのだろう、姫カットの長い髪を可愛らしい髪留めでひとつに纏めた青年が優しい笑みで俺を見ている。
「風紀副委員長の山本だ。会うのは二度目だね。以前は人前だった手前形式的なやり取りになってしまったけど、君とは一度ちゃんと話がしたいと思っていたんだよ」
どことなく、昔近所に住んでいたお姉さんに似ている青年はそう口にすると好きなものは紅茶だったかなと茶葉の入った缶を手に取る。
身体を起こして、周囲をきょろきょろと見渡すと、ここが生徒会室でもなく保健室でもない場所だと分かる。
「ここは……?」
「風紀室。の、オメガ用特別室。大丈夫、君がここにいることもヒートを起こしたことも一部の関係者しか知らないよ」
「そうですか。山本先輩は、その、大丈夫……なんですか?」
「緑でいいよ。俺は後天性のオメガだからね、平気なんだ」
俺の前に白のカップが出される。薄切りにされたレモンが入った紅茶入りのそれを手に取り一口飲んで、息を吐いた。
風紀副委員長だというのにオメガ。後天性ということは、元々はベータとして生きていたということだろう。俺と似たようなものか。一体いつからそうだったのか。山本の顔を伺うようにして見ていると彼はくすりと笑った。
「俺がオメガに変わったのは高二の時だよ。それまではベータの家系に生まれた普通のベータとして生きてたから、驚いたさ。君のように迂闊ではなかったけれどね」
「……すみません」
「ああ、怒ったわけじゃないんだ。ただ、あの場は皆、君のヒートに当てられていたから、僕が所用で出向いていなければ大変なことになっていただろう。生徒会や風紀委員長が同意なしの一般生徒に手を出すなんてそんなことあってはいけないし……それにしても、世良先生は理性の塊のような男だね」
「え……?」
「あの場で正気を保てていたのは俺と、世良先生と、生徒会唯一のオメガの青井新。それと抑制剤を飲んでいた風紀の役員数名だけだよ」
山本が俺の隣に腰掛けるとベッドのスプリングが悲鳴を上げた。
長い黒髪がさらりと揺れる。山本の細長い指が俺の頬に触れて優しく撫でた。
「前回は何故かすぐ収まったようだけど、通常ヒートは一週間ほど続くから、これ書いてくれるかな」
山本がベッドのサイドテーブルに置いてある書類を指さす。手に取ると短期休暇申請書と書いてある。その書類のオメガ休暇欄にチェックが入っていた。
一週間、あの渇きと過ごすのかと思うと嫌な気分になる。ため息を吐いてペンを借りて書類にサインをした。
「ところで、テストってどうなるんですか?」
「真面目だね。君は。大丈夫だよ。別日に担任教師の監視のもと受けられるから。それと、これからはオメガ関係の書類は俺か世良先生に提出するようにね。隠しておきたいんだろう?」
「でも」
「大丈夫今回のことは緘口令が敷かれているからこの書類も体調不良のためで表向きは提出されたことになるよ」
ふと考えていた疑問を口にすると、とても簡潔に返答が返ってきた。この山本という男はどこか癖のある口調の割には話がしやすく感じる。
疑問も解消されて俺はもう一口レモンティーを口にする。程よい酸味が口に広がってすっきりとした味わいに心が落ち着く。
「須賀君。これ、俺の連絡先。必要になることもあるだろうから、なにかあったら気兼ねなく連絡してくるといい。それと、同室の狩野雅貴くんのことだけど」
「……部屋移動、ですか?」
「うーん、そうしたいのだけれど色々都合があってね。彼は君のヒートが収まるまで一旦我妻君と田島君の部屋に泊まってもらうことになっているよ。二人から了承も得ているからね。今後のヒート時の対応はどうするか協議中なのだけれど」
「その都合ってのに、俺が表向きベータってのが関わっていたりしますか?」
「鋭いね。一応、キミはベータで通っているから狩野君を急に他のベータの部屋に移動させると疑問に思う輩も現れるだろう。些細なことでも秘密がバレるようなことはあってはいけない。だからといってアルファの寮部屋に空きがあるわけではないし。すまないがもう少し我慢してくれたまえよ。今回のヒートを見て、あんまり同部屋にしておくべきではないと、俺たちも思っているのだから」
薬でヒートが一時的に収まっているとはいえ、危険なのは確かだ。この対応に感謝こそすれど反対なんてないだろう。わかりましたと頷けば山本はいい子だと俺の頭をくしゃりと撫でた。それと、と思い出したように呟いて、山本が柔和な笑みを浮かべる。
「もう一度言うが、緑でいい。俺はお気に入りの子は贔屓する主義なんだ。親しみを込めて緑先輩と呼んでくれ」
ニコリ、と笑う顔に俺の顔が引きつる。清楚で真面目そうな見た目に反してとんでもないことを言う男に俺は頷くしかできない。仮にも、風紀の副委員長がそれでいいのかという疑問はとうとう帰るまで尽きなかった。
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