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2章 第29話 side花見

「十分だけだぞ。様子がおかしいと判断したら、すぐに止めに入るから、忘れないように」  長い黒髪を項の辺りで一つに結んだ山本がもう一度強く念を押す。びしりと指を立てて、生徒を贔屓しがちな風紀の副委員長は笑った。  山本緑(やまもとみどり)は奇人変人と呼ばれる類の人間だ。似た者同士気が合うじゃないかと川谷(かわたに)に笑われた時は納得がいかないと思うくらいには。俺は、そんな山本にはいはいと返事を返して、その扉を開けた。  須賀(すが)君の寮室に足を踏み入れてすぐ、甘い匂いが鼻腔を擽る。ラット抑制剤を飲んできているのに頭がくらくらして、思考が鈍る。 今まで嗅いだ中で、一番強いフェロモンだ。これは、山本の話していた内容が真実味を増した。  二日前、須賀君がヒートを起こしたという話を聞いた。 生徒会室内は酷く、ヒートに当てられた人間が沢山いて、中には彼の友人であるベータの三人もいたらしい。中でも特に酷かったのは百合(ゆり)だ。  (まき)が抑制剤によって微かに残った理性で一番近くにいた狩野(かりの)くんを取り押さえ、薬を飲ませることに成功した一方で百合だけがヒートを起こしている須賀君に手を伸ばしていたと聞く。  間一髪で生徒会室に飛び込んだ世良(せら)さんが百合を止めた。その方法が拳だったというのは「誰にも内緒」らしいけど、そのまま踏み込んだ風紀の人間が三人がかりで暴れる百合を止めていたと聞く。  結局風紀委員が介入したその件は一切外部に漏らさないよう徹底的に情報管理され、生徒会役員は念のため昨日一日休みを取った。  原田(はらだ)(みなと)青井樹(あおいいつき)もヒートに当てられていたので当然の対処というべきか。百合に至っては今日も学校に登校していないらしい。  確かにこの匂いの強さじゃ正常ではいられない。俺だって十分間、扉越しという制約をつけてここに来られたのだ。直に嗅いでお預けを食らって平然としていられないだろう。  ましてや、須賀君に異様な執着を見せるあの百合がなにもしないなんておかしな話だ。  須賀くんのヒートに関しては風紀の中でも機密事項とされているけど、山本は俺にだけは情報を提供してきた。それに何の意味があるのかはあいつの考えを読むのは難しいので測りかねるけど、須賀君自身の許可も得ているとというのだから俺と彼が隠れて親しくしているというのを知っているのだろう。  俺が今鈴木(すずき)と裏で計画していることも知っていて敢えて俺だけに話したというのは何の意味を持つのか。 「須賀君、花見(はなみ)だよ。調子はどう?」  扉をノックすると気怠げな返事が返ってくる。軽い抑制剤を五分前に飲んでもらっているらしいが、その副作用で体調が悪いのか声が暗い。  抑制剤にも種類があり、どれも副作用がきつく効果があるかどうかも個人差がある。また、身体への負担も大きいため、成長期の間は常用しない方がいいと言われていることが多く、必要以上の服用は避けるようにと医師は言う。  今回はそんな抑制剤の中でも比較的軽いものを飲んでいるらしいが、それでも体調に悪影響は及ぼしているようだ。 「調子悪いでしょ。寝転んだままでいいよ。果物持ってきたから、あとで山本……剥けそうなら自分で剥いてくれるかな? ここのテーブルに置いておくから」 「……はい」  持ってきた果物を傍にあったローテーブルに置く。剥いておいてもいいのだが、いつ出て来られるかもわからないし、何よりあまりアルファの匂いを付けない方が彼のためだ。  扉越しに聞こえた弱々しい返事に小さく笑う。あまり自分の性に対して自覚のない様子の須賀君はこのもどかしい時をどうやり過ごしているのか。このフェロモンの強さじゃあ、相当辛いだろう。  それはそうと、世良さんは尋常じゃない精神力を持っている。  この強い香りの中で自分の理性を失わず、風紀室まで運ぶなんて俺にだってできる訳がない。いくらあの人が大人だとしても、例えあの人に事情があるとしても、この匂いの傍で平常心を保てるのは信じがたいことだ。  予め抑制剤を飲んでいるという可能性もあるが、恐らくアルファとして優秀であればあるほど、この匂いは酷く魅力的に感じられる筈だ。それを、槙や俺、ましてや百合よりもオスとして優秀である筈のあの人が感じられない筈がない。 「ねえ、須賀君」 「……はい」 「世良先生は好き?」 「え……? そりゃ、まあ……」  何が言いたいのか分からないと言いたげな声。それに僅かに混ざる世良さんへの好意。表情は見えないというのにその心を雄弁に物語るそれに、思わず笑みが零れた。  ほんの少しの悪戯心かもしれない。もしかしたら、彼なら世良という男の背負う悲しみを癒せるかもしれないという期待もあったかも。いろんな感情が俺にはあって、″あの人″のためにできるせめてを、選択しているだけにすぎないけれど、何かが変わればと願う。 「須賀君。須賀君はね分からないと思うけど、キミ、結構危ないんだよ」 「……? どういうことですか?」 「須賀君の匂いね、とってもいい匂いするんだ。本当に気を付けた方がいいよ。特に、あの百合には」 「それは、貴方にも気をつけろってことですか?」 「はは! そうなるね。今は大丈夫だけど。抑制剤飲んでない俺と会っても近づいちゃ駄目だよ」  くすくすと笑えば扉の向こうで深くため息を吐く音が聞こえた。  君が無条件で信頼していいアルファはきっとこの世でただ一人。恐らく、唯一と言っても過言ではない。でもその本質を知った時、君はどんな顔をするのかな。 「でもね、世良先生だけは信用していいよ」 「…………世良?」  思わずいつもの敬語が外れて、世良さんを呼び捨てる須賀君にくすくすと笑いが零れる。 「素に戻りかけてるよ。そう、世良先生」 「……」 「世良先生はきっと、君の項を噛まない。なにがあっても、絶対に。だから信頼してもいいと思うよ」 「それは勘ですか?」 「実績あるからね。勘だけじゃないと言っておこうかな」 「……わかりました」  口角を上げて明るい口調で言えば扉越しにでも伝わったのか須賀君が息を吐いた。丁度そのくらいに山本が玄関のドアを開けて顔を出す。 「時間だぞ」 「はいはい。じゃあね、須賀君。またライン送って」  扉に向けてひらひらと手を振って部屋を出る。扉を出てすぐのところに立っていた山本が、持っていた果物を持っていないことに気が付いて首を傾げる。 「おや、果物はお見舞いの品だったのか? 剥いていたようには思えないのだが。ああ、後で俺が剥いておいてあげようか?」 「それだけは止めて上げたら? 須賀君の部屋が流血事件で話題に上るよ」 「失敬な奴だな、君は」  はは、と声に出して笑う。失敬だという割には微塵も気にした様子のない山本はふっと口角を上げて微笑み、スマートフォンを取り出す。慣れた動作で恐らく風紀のメッセージのやり取りをしているのだろう。  須賀君の部屋の前に風紀が立っている理由はちゃんと用意してあるらしい。が、山本は詳しく説明するのが面倒なので自身が見張りの時は基本的に上手いことやって煙に巻いているとか。本当に上手いことやれているのかは疑問だが。 「そろそろ俺も交代の時間なんだ。どうだ、お茶でもしないか? 奢るぞ」 「食堂ので頼むよ?」 「はは、致し方あるまい。少し待っててくれ」  年齢の割に大人っぽい笑い方をする男はその容姿のせいか、一見すると女性に見えなくもない。まあ、山本の場合はそれを狙ってわざとやっているのだろうけど。  二人で他愛無い話をしながら交代の風紀委員を待つ。暫くして現れたベータの頼りなさげな青年は俺たちを見て引き気味に「須賀君が可哀想だ……」と言った。  恐らくその言葉の意味は暫く俺たちが居たことが話題になるからだろう。 *** 「やあ、遅くなったね」 「お見舞いと風紀の仕事なら仕方ないでしょ。座りなよ」  食堂のテラス席に到着すると先客が居た。その面子に驚いて俺は山本を見る。気にした様子もなく席に着く山本に、先客の一人、川谷八尋(かわたにやひろ)が自身の前にあるパフェの飾りだったのだろうスティック状のチョコを咥えながらスマートフォンのゲームから視線を外さないで「どうだった?」と問う。 「ああ、辛そうだね。だけどまあ、大丈夫じゃないかな。というか分かっているのに聞く意味あるかい?」 「まーね。現場の声って大事だろう? 花見も座ったら?」  一旦部屋に帰って着替えたのだろう、紫のパーカーのフードを被り、膝を抱え込むようにして椅子に座る変人と名高い男は、恐らく三年の中で一番頭がいい。それを隠している理由は知らないがきっと手に持った機械が織りなすゲームと同じ感覚なんだろう。 言われたとおりに空いている席に腰を下ろす。  先客は全部で四人居た。一人は俺と同じクラスで友人でもある北里叶(きたざとかなえ)だ。ミルクティー色の髪の毛に深い紫の瞳。奇抜な容姿の割に性格は少し気弱。だが、武闘派な一面があり、強いと言われている鴻上学園の柔道部で副部長をしている。ちぐはぐな人物だ。  あとの二人は川谷と言えばで名前が上げられるほどいつも一緒に居る志波勇矢(しばゆうや)と、その二人と並んで美人三人衆とかいうセンスの欠片もない変なあだ名を付けられている鈴木紘(すずきひろ)だ。  この面子を見るからにただお茶をするだけじゃないと何となくわかってしまった。 「花見ってさ、勘が鋭いって言われないかい?」 「よく言われる」 「だろうね。顔に出してくれて助かるよ」  俺がそういう空気なんだろうという態度を取ったのを敏感に感じとった川谷がクスクス笑う。ため息を吐いて本題を促すと志波が困ったように笑った。 「すまないが肝心の子が来ていないんだ。もう少し待ってくれるかな」  肝心の子というワードに首を捻る。  北里も困ったように首を傾げている様子から彼も知らされていないらしい。  確かに、テラス席の中で一番広い席を陣取っているとは思ったし、一人分の席が余っているとは考えたが、他に誰が来る予定なんだ。  顔には出さないでここに呼ばれそうな人物を考えていると、川谷がスマートフォンに向けていた視線を上げた。 「来たようだよ。……いらっしゃい。さ、お話ししようか」  ニッコリと、川谷が笑う。  これからのこと、須賀君の事。必要な話し合いを始める合図。  

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