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2章 第30話 Side我妻

「うあ――ッ!! 暇だ!! 部屋に帰りたい!!」  じたばたと暴れるモンスターのような彼を困った顔で眺める。テストが終わってすぐ、頼人(よりと)君も伊久(いく)君も用事があると言って先に帰ってしまったので、一人で狩野君を迎えにSクラスまで行った。その帰り際にどれだけ彼が須賀君を好いているのかを懇々と聞かされ、寮部屋に帰ってからはもうずっと、この調子なので僕はほとほと困り果てている。  彼を放って洗濯でもしようか。でも、話し相手が居ないと可哀想かな。  狩野君が言う通り、須賀君はとても素敵な人だ。オメガであることは些細な事だし、それで彼を見る目が変わるかと言えばノーだ。狩野君や百合先輩は最初から気付いていたんだろうけど僕は始めベータだと偽る彼の嘘を真実と思って疑わなかった。ベータでもオメガでもアルファでも、性別がなんであっても、須賀君は須賀君なのだ。  彼の口から本当のことを聞いてもその考えは変わらなかったけど、そりゃ少しは驚いた。  今回のような事故がなければ僕たちにすら隠し通せたそれをわざわざ三人だけには教えてくれた優しさを思い出して小さく笑みが零れる。 「? 何笑ってんだ?」 「な、なんでもない!」  つい顔に出ていたそれを慌てて引っ込める。顔を真っ赤にした僕を不思議なものを見るような目で見た狩野君はヘンなの。と言って天井を見つめて黙ってしまった。  パタパタと熱くなった顔を手で仰ぎながら水でも飲もうと冷蔵庫の方へと足を向けると玄関のドアが開く。 「ただいま」 「あ、おかえりなさい。伊久君」 「おかえりー」  部屋に入ってきたのは伊久君だった。用事が早く済んだらしく、靴を脱いで自室に入って行く後姿に声を掛ける。  その表情は見えなかったけれど、纏う空気がなんだか硬い。怒っているとかそういうのではないのだろうけど、何か緊張しているような、そんな空気。  伊久君が入って行った部屋をじっと見つめる。いつもなら着替えてすぐに出てくるはずの彼がどれだけ待っても出てくることがない。 「なにか、あったのかな……?」 「さあ? あったんじゃね?」  適当な返事をしてゴロリと寝返りを打った狩野君はまた唸り声を上げてじたばたし始める。  須賀君のヒートをきっかけに、何かが起きようとしている。そんな気がする。身の回りで起こりつつある変化に鈍感な自分でもうっすらと分かる。誰だって、あの姿を目にしたら変わってしまう。  思い返して、ドキリとする。脳髄を直接刺激するような、はたまた理性を叩き壊すような、甘い匂い。  見慣れてきたはずなのに嫌に目に焼き付いて離れない白い肌。その柔らかな肢体を押し倒して乱したいと思ってしまうような強いフェロモン。  細くて、綺麗で、噛みつきたくなる、細い項。 「我妻? どうした? 考え事か?」  声を掛けられて、思考の海に飛んでいた意識がハッと浮上する。顔を上げると不安げな伊久君が僕を覗き込んでいた。  なんでもないと笑って見せれば、小さく息を吐いて大きな手で頭を軽く撫でられる。優しい笑みが少し困りがちに見えるのは僕が誤魔化したからだろうか。 「昼食、遅くなったけど、食べようか?」  伊久君に尋ねると彼は困り眉を引っ込めてにこりと笑った。その背後で俺も食べると元気な声が上がる。  キッチンに入って冷蔵庫を確認し、サーモンのクリームパスタに決めて調理を始めると、リビングからため息が聞こえる。顔を上げると狩野君の隣に腰掛けた伊久君が苦虫を噛み潰したような顔で考え込んでいた。  その様子に不服そうな狩野君が声を上げるが、伊久君は余程考え込んでいるらしく、返事をする様子はなかった。 ***  昼食をとり終えて食後のお茶を用意していると、ピンポンとインターフォンが鳴る。  伊久君は洗い物をしてくれているので、自分が出ようと茶筒を置いたが、狩野君が「俺が出る」と玄関に向かってくれたので、彼に任せた。  明るい声が聞こえて暫くすると頼人君と、その後ろに撫子色の髪と、ミルクティー色の髪が見えた。  撫子色の髪をしたその人は学園の有名人。知らない人はいないだろう。人気もあって謎に包まれてて、話したことはないけど緩い雰囲気が人に警戒心というものを忘れさせる。花見愁先輩。  隣の方はご友人だろうか。頼人君と仲がいいなんて知らなかった。 「やあ、いっくん。ゆーたん。おまたせ! すぐそこで花見先輩たちとばったり会ってさ。折角だから勉強教えてほしいって頼み込んだんだよ。めちゃくちゃラッキーだよね」  ニコッと笑う頼人君が花見先輩とミルクティー色の髪の先輩らしき人にウインクする。  優しく微笑んだ花見先輩は自己紹介しておいた方がいいかなと首を傾げる。 「俺は花見愁。狩野君と希代君とはこの間一緒にお買い物したね。我妻君と田島君とは会うのはこれが初めてかな。こっちが北里叶。俺のクラスメイトで友人ね」 「北里です。よろしく」  紹介されたミルクティー色の髪の眼鏡の人は少し照れた様子で頭を下げる。深々と挨拶を返して三人をリビングに案内して、狩野君が散らかしたリビングを軽く片すと、お茶を用意しにキッチンへ戻る。  洗い物を終わらせた伊久君がお盆と湯呑を人数分出してくれたので用意したお茶をお盆に乗せる。冷蔵庫を開けてこっそり買っておいたワンホールのケーキを取り出して、包丁で切り分けると、お茶を運ぶ伊久君の後ろについて、リビングに出る。  こちらを見て花見先輩がにこりと笑った。 「なにか手伝うことある?」 「いえ、大丈夫です」  立ち上がろうとする動作に恐れ多くて断りを入れる。伊久君もうんうんと頷いて、お盆をテーブルに置いた。 「そっか。勉強なんだけど、希代君と田島君は叶に教わるといいね。教え方上手だし、優しいから。川谷や志波よりは幾分かいいと思うよ。ただ、あんまり怒らせない方がいいとだけ助言しておくね」 「なんで怒らせるとまずいんですか?」 「柔道部の副部長だよ。叶は」  ヒエッと声が漏れたのは僕だ。聞いた伊久君は驚いた顔で北里先輩を凝視している。  そんな怒りっぽくないから大丈夫と笑う花見先輩と困ったように笑う北里先輩に人は見かけによらないと強く思う。だって、どう見ても落ち着いた文学系の人って感じの雰囲気をしているのだ。タイプ的に言えば須賀君のような感じだと思う。 「ちゃんと勉強してくれれば怒ったりしないから、大丈夫だよ」  にこりと笑う少し困り笑いの北里先輩に頼人君が元気よく返事をする。一番不安なのは、頼人君だと思うのだけれど……。  

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