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2章 第31話
「やっと解放された」
グレーのカーテンを開いて朝日を拝みながら、大きく伸びをする。長い一週間だった。何度も何度も、自分はこんなに性欲旺盛だったかと疑問に思うほどに下半身の熱を抜いては、そうじゃない、求めるものはそれじゃないと訴える身体のもどかしさに情けなくて涙が出た。
花見が自分を訪ねた時も、ベータの風紀委員が荷物を届けに部屋に上がった時も、ドア越しのその存在にこの身の熱を鎮めてほしいと何度も願った。花見の時なんて、抑制剤を飲んでいたにも関わらず、だ。彼が帰った後、その残り香を嗅ぐだけでまた身体が疼いた。
頭の中がそれ一色で、勃起したそれから出る白い液体が透明になるまで何度も扱く。それは普段の自分からしたらありえないことだ。
誰かに抱かれたいと思う瞬間も少なからずあった。それが、オメガの本能だというものなのかもしれない。
だけれど、三日目に山本が差し入れた淫具だけは使わなかった。どれだけ身体がもどかしいと訴えても、その一線だけは超えられなかった。そう望む瞬間があっても、男としての矜持が許せなかったからだ。
そうして、なんとも苦しい一週間を過ごして漸く、解放された日の朝だ。
支度を終えて時間を持て余していると、インターホンが鳴ったので玄関に向かう。予めメッセージが来ていたので相手は山本だろうと無警戒にドアを開ける。
ドアの向こうに立っていた人物の顔を見て、ヒュッと喉がなった。
「百合……」
「邪魔するね」
ほとんど無表情と言ってもいいくらい、冷めた笑顔。勝手に部屋に上がり込む百合に何も言えずにその背中を追ってリビングに向かう。
いつもの何を考えているのか分かりにくいニコニコした笑顔じゃなくて、凍り付くような表情の百合が、どさりと前かがみにソファーに腰掛ける。
座らないの? と問いかけられて俺は戸惑いながら隣に腰を下ろした。
「真澄くんさ、花見とどういう関係?」
「どうって……別に……」
「ふぅん。見舞いに来てもらうのを許すくらいの仲?」
俺が座ると同時に話を切り出した百合が俺の答えにそう切り返す。俺が返事をしないでいると、彼は長く息を吐いた。
じゃあさ、と続ける百合の灰色の瞳が俺を射抜く。
「世良ちゃんとは、どういう関係?」
その瞳に危険な空気を感じて俺は息を飲む。別に俺と世良が百合の疑うような特別な、深い関係というわけではないとだけ否定すればいいだけの話だ。書類上は親子かもしれないが、そんなことはわざわざ言わなくったっていい。ここでは教師と生徒。それ以上でも以下でもない。
だがどうしてか、言葉に詰まった。
「…………べ、つに……先生と生徒ってだけですけど」
「それは嘘」
何とかそう言葉を紡ぐと、あっさりと否定された。百合の灰色の瞳が、見透かすように俺を見つめる。その瞳に映る俺は酷く驚いた顔をしていた。
「世良ちゃんも、真澄くんも、教師と生徒という割には距離感が近いし、特別扱いされてる実感ない? 実際、世良ちゃんに俺が殴られたのが立派な証拠でしょ」
「それは、ヒートを起こしてた生徒を守るためなら仕方ないと思いますし、特別扱いなのは、俺が先生の受け持つクラスの生徒で、文芸部に所属してるから、じゃないですか」
「希代君だっけ? 担当クラスで文芸部。同じ条件だけど扱い違うよね」
「世良先生だって人間ですから好みの問題ってやつじゃないですか? それに、頼人はベータだし……」
首を傾げる百合がニッコリと笑顔を浮かべる。
俺に言われたってわからない。そう目で訴えると百合はなるほどねとなにやら考え込んだ後、ぼそりと一言呟くように言った。
「……そういうことにしたいなら、してあげてもいいや」
にたりと蛇のように笑って百合が姿勢を変える。
グイっと肩を強く押されてソファーに押し倒されて、驚きに目を見開くと、百合のたれ目がちな目がすっと細まった。
「真澄くんが、キスさせてくれるなら、その言葉信じてあげる」
鼻先が触れ合いそうな程近い距離まで顔を近づけて、百合が囁くように言う。
吐息がかかる距離で、整った顔がにたにたと笑っている。
別に百合に信じてもらう必要なんてない。そう思う自分と、世良との間柄を詮索されたくないと思う自分がいる。
百合は仮にも生徒会だ。親衛隊だって大規模だし、その気になれば簡単に調べてしまうかもしれない。もしこいつにばらされて全校生徒に俺と世良の関係が露呈してしまえば、今までの苦労も、折角の決まり事もすべて台無しである。
唇のひとつやふたつでそれが守られるのならマシなのだろうか。そうは思うが、だがどうして俺がそんなことをという気持ちが膨らんでどうにも返事を決めきれない。
正直、本心を言えば今すぐにでもこいつの股間を蹴り上げてやりたい。俺にあるのはするかしないかの二択なのだろうけど。
黙りこくっている俺に百合の影が重なる。ふにっと唇を親指で撫でられて鳥肌が立った。
「時間切れだね」
柔らかな微笑みを浮かべて百合がそう囁く。
噛みつくように唇を奪われて反射で俺にのしかかる百合の肩を掴んだ。無遠慮に舌を差し込んでくる男にイラついてその肩に爪を立てるが服を隔てているからか効果はない。むしろ反抗的な態度がお気に召したらしく、より深く、絡めとるようなキスに変わり息が上がる。
こちらに一切気を遣う気のないそれに頭がくらくらし始めていた時、シャツの隙間を細長い指が侵入し、臍の辺りを撫でられる。いやらしい手つきのそれに俺はハッとして百合の肩を強く叩いた。
「ぷはっ、どこ触ってんだくそ変態野郎ッ!!」
口内を荒らしていた舌が満足そうに離れていき、お互いの唇から透明の糸が伝うのをぐいっと拭って百合を押しのけ身体を起こして悪態を吐いた。
今まで余計な気を引かないように平々凡々な一般的な生徒の面を被っていたというのにすべてを台無しにするほど、反射的に口から零れた言葉に百合はとても嬉しそうに笑う。
そんなことよりも唇を汚されたことが不快だ。ゴシゴシと自らのそこを服の袖で乱雑に拭う。別にこれが初めてというわけでもないがこんな思い出が残るのは不愉快だ。
「嫌だな真澄くん傷つくじゃん」
へらへらと笑う百合は言葉に反して傷ついている様子はない。むしろその逆だ。なんとも嬉しそうに唇を親指でなぞって、その感触を確かめている。気色悪い。
「お前なんか嫌いだ。さっさと帰れ」
「あはは、可愛いのー!」
けらけらと笑う百合から距離を取る。と同時にピンポンとインターホンが鳴った。今度こそ、山本だろう。
「好きだよ。真澄くん」
ソファーから腰を上げて玄関に向かう俺の背中に向かって百合の声がかかる。振り返ってみれば、いつもとは違う優しい笑みでこちらを見ていた。ちゃんと面と向かって好きと言われたのは、これが初めてかもしれない。
その気持ちに答えるつもりはこれっぽっちもないけど。
あっそ。と吐き捨てて玄関に向かって歩き出す俺の後ろで、またクスクスと笑う声がはっきりと聞こえた。
ドアの向こうに居たのは案の定山本だった。俺の後ろで誰が来たのと笑う百合を見ておや? と首を傾げる。
キスをされたことは伏せたまま、百合が突然部屋に押しかけてきたことを話すと、山本は興味深そうにそうだったのかと頷いた後、鞄から透明のクリアファイルに入った書類を取り出した。
「これが、須賀君のテスト変更日時。確認しておくけど、須賀君は今日まで原因不明の病気だったことになっているから、そういうことでよろしく頼むよ。結構重い症状で人に移る可能性があったから隔離していたってことにしたから」
「……それ、どういう病気ですか?」
「んー? フフッ知りたいかい?」
大げさすぎる理由にドン引きしながら問うと、妖艶な笑みを浮かべて山本は言った。その笑みに答えがわからなくて首を傾けていると、後ろに居た百合が突然俺を抱き寄せる。
「余計なことは言わなくていいよ。山本センパイ」
「ハハッ君にとっては余計だったね。勘がいいのは好きだよ」
二人が何の話をしているのかは分からないがとにかく百合から離れたくて胸を叩く。しかし、より力を籠められるだけで意味はなかった。どうやら解放する気はないらしい。
はあ、とため息を吐いて仕方なくポケットからスマートフォンを取り出す。
時刻はもうじき八時になる頃だ。いくら体調不良設定とはいえ、テスト明けの月曜日にいきなり遅刻は避けたい。
「学校、間に合わなくなるんだが」
「あれ? もうそんな時間? 仕方ないねー」
「離せって意味なんだけど」
もう敬語とか気を遣うのも馬鹿らしい相手にそういうとケラケラと笑って名残惜しそうに解放された。唇を尖らせて不満そうにしている男を放って自室に鞄を取りに行く。
本来今回のようなケースだと風紀室で色々と話をしたり書類を書いたりしなければならないらしいのだけれど、今日山本が迎えに来ることでその手間は省略されるらしい。そんな物でいいのだろうか。
「お待たせしました」
「じゃあ、行こうか」
鞄を肩に掛けた俺を見て山本がにこりと笑う。それに笑みを返して靴を履こうとして、ふと百合が鞄を持っていないことに気が付く。登校時間だというのにも関わらず、何故か通学鞄を持たない百合は俺の不思議そうな顔に気が付いてどうしたのと笑う。
行儀が悪いとは思いながら、指をさして鞄を持っていない理由を聞くと、ああと百合は愉快そうに笑った。
「水城ちゃん……ああ、ウチの親衛隊の子ね。彼に預けてきたんだよね、真澄くんとこ寄ってくって話したら持ってってくれるって言ってたからさー」
「水城……ああ、この間の……大事なもんとか入ってねえの?」
「カードキーとかスマホは持ち歩いてるし、鞄の中大したもの入ってないから大丈夫じゃない? 彼、俺の熱狂的なファンだけど、物を盗んだりするような子じゃないし」
カラカラと笑う百合。以前見た水城という生徒のことを思い出して、彼は確かにそうだろうと納得する。だからといって人に自分の鞄を預ける心境は理解できないが。
玄関の扉を開けて廊下に出た山本に続いて俺も一歩外へ出る。時間が遅いこともあってか周囲に人の気配はなく、至って静かだ。
「早く行かないと遅刻してしまうね」
「そうですね。急ぎましょうか」
歩き出した山本と百合の少し後ろを歩く。何となくこの二人の隣に立つのは気が引けた。ましてや、間に立つなんて猶更である。
道中、山本が話題の提供をしてくれたので会話に困ることもなく、いつもの校舎にたどり着く。三年生で役職を持つだけあってか、会話の引き出しも豊富で、癖のある口調の割に話しやすい。
風紀副委員長という肩書は伊達じゃないんだな、なんてことを思いながら、階段を上ろうとしたら、風紀の腕章を付けた見知らぬ生徒に呼び止められた。名前を呼ばれた山本がその生徒といくつか言葉を交わした後、申し訳なさそうな顔でこちらを見る。
「すまないね、須賀君。どうやら問題が起きたようだ。何かあったらいつでも連絡してくれ。ああ、勿論。百合君になにかされたらすぐに連絡しておくれ。生徒会なんて関係なく罰してあげようじゃないか」
「さっさと行けばあ? 問題が起きたんでしょ? 山本センパイ」
俺の右手をぎゅっと握って真剣な眼差しでそう告げる風紀の男に、百合は不機嫌そうな声を上げた。自分を睨む男に臆することなく山本はにっこりと笑ってその長い髪をさらりと揺らして「じゃあね」と手を振りながら去っていった。
「ねえ、真澄くん」
自教室へと向かう階段を上る途中。他愛無い話をしていたところで急にピタリと百合が足を止めた。
声を掛けられた俺は少し上の段数に立っていたから振り返って見下ろすようにして百合を見る。俯いたその表情はよく見えない。
「あの時のアルファは、皆……あの槙センパイですら、君を番にしたいって思ったはずだよ。オメガである君にはわからないかもしれないけどさ。それくらい強いフェロモンだったんだよ。……それなのに、後から来たからとはいえ、ラットを起こさなかった世良ちゃんって、ほんと……異常だと思わない?」
ゆっくりと顔を上げる百合の顔は表情が削ぎ落ちていた。
暗い灰色の瞳が俺を映す。目を見開いて百合を凝視する俺に当の男はうっすらと笑みを浮かべて言った。
「俺達が普通なんだよ? だからオメガ専用チョーカーとか、抑制剤があるんだから。世良ちゃんが普通だなんて思っちゃだめだよ、ね?」
「……」
「わかってくれたらいーの。早く行かないともうすぐ予鈴なっちゃうよ」
スマホを出して時間を見せる百合に俺は慌てて階段を上った。後ろをついてくる様子はないので恐らく二年の教室に向かったのだろう。俺は足早に教室に向かう。
異常。そういわれて否定する言葉が思いつかなかった。
この世界の常識を俺は本やネットの知識でしか知らない。誰よりも浅いその知識の中でも、世良のような人間は圧倒的少数派だろう。
オメガのヒートに居合わせたアルファがどうなるかなんて知らないからわからないが、抗えない本能を抑え込むというだけで強靭な精神力を有していると聞いたことはある。そもそもそんなことが一般的に可能な事なのかは、俺は知らない。ただ世良ができていたので、わりと誰にでもできるものなのかと軽く思っていた節はあった。
同じアルファの百合が異常というのなら、世良こそが異例の存在なのだろう。
そう、そういえば花見も似たようなことをヒートの間に話していなかったか? 記憶がうっすらとしているのであまり覚えてないが……。
ごちゃごちゃと暫く考え込んでいたが、教室の前に着くと同時に予鈴が鳴ったのでぶんぶんと頭を振って思考を振り払った。
とりあえず、今回は問題なかったんだからもうそれでいいと考える。
後で花見にもう一度しっかり話を聞けばいい話だ。
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