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2章 第33話

*** 「学ラン着るのって久しぶりなんじゃないか?」  コーヒーを片手に世良が笑った。その屈託のない笑みに俺はぶすりと頬を膨らませる。  会議から二日経って、ある程度落ち着いただろうって頃を見計らって、また世良に国語準備室に呼び出された。用件は、表向き体育祭の件と部活の事だ。B組で高校から入学したのは俺くらいだからこそ使えた言い訳だろう。言い訳探しにも苦労するぜと言った世良の言葉につい笑い声が零れてしまったのは、先程の話だ。 「まあ、そうだな……こっちに来た時は高校の夏服だったし、着るの自体は一年くらいになるんじゃねえかな。体感的には」  世良には入学前に俺が中学の時学ランだったって話をしていた。ブレザーになるのが嬉しいって話を覚えていてくれたのだろう。  学ランと言う名前を聞くとぼんやりと思い出す故郷。昔仲の良かった先生は今もまだ元気にしているだろうか。 「懐かしくなるんじゃねえの? 帰りてーとか思っちまうかもな」 「はは、そりゃ、帰れるなら帰りたいとは思うことあるけど、こっちでも友達とかできたし、お前だっているから愛着ないわけじゃないしさ。それに、帰ろうと思って帰れるわけじゃねえじゃん?」 「それはそうだ。悪い、余計なこと言ったわ」 「いいよ。気にすんな」  座っていた椅子から立ち上がって世良の隣に立つ。窓の桟に肘をついて外を見ると、運動部が部活動を元気に行っている姿が見て取れた。  くすりと笑って身体を起こそうとすると、不意に突風が吹いて机に置いてあった紙を攫った。反射神経はわりと優れていると自負している俺は、咄嗟にそれを掴む。が、大きく開いた窓の外に身体が飛び出して、体勢がぐらっと崩れた。  あ、落ちる。と思って目を瞑った俺を、真澄! と大きな低い声が叫ぶように呼んだ。  二の腕を掴まれて室内に引き戻された俺は、世良の胸に身体を預けるように倒れ込む。がっしりとした体躯がそれを受け止めて、肩を抱いた。  どっどっど、と胸が早鐘を打つ。危なかったからか、汗がぶわっと噴き出て、言葉を失う俺に、世良が顔を覗き込んでケガはないか? と聞いた。  漸く落ち着いた俺は、それでも五月蠅いくらいの音を立てる心臓を無視して、力なく返事をすると、世良は安心したように頭を撫でた。ぽんぽんと優しくされるのがなんだかむず痒くて、俺は俯く。顔から火が出そうな気持ちになったが、その理由がさっぱりわからなくて、頭の中で疑問符を浮かべる。  世良は窓を閉めて、俺が拾った紙を机に置くと、いつものように何か飲むか? と問うた。小さく頷く俺にくすくすと笑って、ミルクティーを用意する男の顔を、直視できない。  以前にも、こんなことがあった。あの時は、なんだか世良がかっこよく見えて、それでスマホで写真を撮った。確か、去年の冬だ。  ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、俯く。  形のいい整った横顔をちらりと盗み見る。ご機嫌に鼻歌を歌う男の耳たぶで、きらりと赤いピアスが光った。  思えば、世良という男は、その辺の人間が放っておかないほどにいい男だ。教師をするだけあって頭もいいし、余裕もある。困っていると必ず助けてくれるし、勉強の教え方だって上手い。オメガのフェロモンに屈しないし、顔だって良い。経済力もある。  超優良物件という文字が頭に浮かんで、俺はそれを振り払う。それじゃあまるで俺が世良のことが好きになっているみたいじゃないか。  それにしたって、どうして世良はこんなに俺に良くしてくれるんだろう。拾ったからという責任だけでここまでしてくれるものだろうか。  養子にしたり、学校通わせてくれたり、危険人物から守ってくれたり、それこそ、見返りがないと釣り合わない。不思議に思って、俺は項垂れながら呟く。 「何考えてるか分かんねえ」  くすくすと笑うフォックスの声が、画面越しに響いて、俺は目を開けた。  寮部屋に帰った俺はぼんやりとしながら変装を解いて、フォックスに電話を掛けた。間違えてテレビ通話にしてしまったが、気にしなくていいという彼に甘えて、そのままにする。フォックスの短い黒髪が風に揺れて、ざあざあと機械越しに風の音がした。もう六月になる。そろそろ夏に向けて台風が近づいてくるだろう。 『この季節は嫌になるねぇ。風がきつくていけないや』 「秋が好きなんだったか?」 『ふふ、そうだよ。いい季節だよね、秋って』 「そうだな」 『まるでーー』  ごうごうと風の音がきつくて聞こえなかったその声を聞き返すと、「何のこと?」と問い返されてしまった。俺の聞き間違いかと思い、何でもないと答える。 『で、世良さんが何考えてるかわかんないって悩んでいるのかい?』  フォックスは見透かしたようにその名前を上げた。一言も口に出していないのに、鋭い奴だ。  肯定すればくすくすと笑って、確かにねえと彼も考え始めたようで、二人して、世良という男が何を考えているかということの一点をただ想像する。 『まあ、須賀君だけは知らない方がいいかもね』 「なんで?」 『ナイショ。いずれ分かるでしょ』 「なんだよそれ」  簡単なため息を吐いたフォックスは、悪戯たっぷりにそういうと、俺との通話を切ってしまった。途切れた通話音を聞きながら、俺はため息を吐く。  俺だけが知らない方がいい理由。世良が俺に優しくしてくれるその理由を知らないままの方がいいというその理由。考えても分からないのなら、本人に直接聞いてしまえばいいと、俺は世良の携帯電話の番号を呼び出した。  掛けようとする手が、一瞬止まる。本当に掛けてしまっていいのかという疑問が心の縁から湧き上がる。  知らない方がいいこともあるってことを、俺は痛いほど知っているし、これがそうかもしれないと思うところもある。だけれど。人間のあくなき探究心は、しりたいという欲望は、その通話ボタンを押すことを強いた。  三回コール音が鳴って、世良の落ち着いた声が響く。耳に残るその声に、俺は、よお、と話しかけた。 『どうしたんだ? なにかあったか?』 「いや、その……聞きたいことがあってさ」 『聞きたいこと?』  世良は不思議そうに声を上げた。俺は意を決して口を開く。 「なんで、こんなに良くしてくれるのか、やっぱちゃんと聞いときたいなって。こんな色々助けてもらうのに、見返りナシって、やっぱその、善人過ぎるっていうか……俺で返せるものあったっけっておもって」 「…………ああ、そういうことか」  合点が行ったように世良は声を漏らした。しばらく悩んで、すっきりしたような声で言う。 『ほっとけないから』 「……は?」 『ほっとけないから面倒見てる。だから、なんも返してもらうつもりなんてねえよ。それじゃ変か?』  変か? だと? おかしいに決まっているだろ。ほっとけないからという理由だけで面倒見る奴があるか。以前にも似たような質問をした気がするが、あれからちっとも変っていないのか。どれだけ善人なんだこの男は。  ほっとけない、で、異世界から来たと言う妄言を吐くような人間を囲うようなことができるなんて一体どうなっているんだ。 「絶対ヘンだ」 『そうか? はは、そっかそっか』  俺がムッと答えると、世良はいつものようにからからと笑った。そのあと適当な話をして、通話を切る。  収穫は世良がただ、いい奴だった、それだけだ。フォックスの言う、俺だけは知らない方がいいという理由は結局のところ分からない。あれはどういう意味だったんだろうか。考えても、アイツの言葉の意味を理解することができることなんて早々ないので、俺は思考を切り替えてご飯を作ることにした。 「ただいま~~!!」 「い˝っ」  ドタドタと走る音がする。ソファーに寝そべる俺の腰に勢いよくダイブした狩野は、嬉しそうな顔でキラキラと目を光らせた。 「やっと帰ってこれたぜ~!」  すりすりと俺の身体に頬擦りする狩野の首根っこを掴んで引き剥がす。力が強く中々剥がれない男に俺は無駄な体力を消費した。ため息を吐いてもじゃもじゃ頭を撫でる。 「おかえり」  優しく笑って言うと、狩野はますます嬉しそうな顔になって、ただいまと笑った。飯を作るか、と時計を見ようとすると、すぐ傍で狩野がかつらや靴下を脱いで、その辺にぽいぽいっと放り投げる。狩野ってこういう悪い癖があるよな。 「散らかさない」  指をさして、言うとしゅんとして、ごめんと謝った狩野は立ち上がってかつらと靴下を拾い上げる。そのまま自室へと入って行ったので、俺はクスクスと笑ってキッチンへと向かった。 (……待てよ? 共有スペースであれなら、自室はどうなっているんだ?)  ふと考えて、俺はぞっとする。汚部屋というのは苦手だ。すぐにその考えを振り払って、忘れることにした。

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