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2章 第34話
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「そういえば真澄はなんの競技に出るんだ?」
とんかつを食べながら、狩野がふと思い出したように問う。ああ、と声に出して出場種目を口に出すと、狩野が嬉しそうに笑った。
「真澄も応援合戦に出るんだな!」
「雅貴くんも出るの?」
「おう! 立候補したぜ!」
にかっと笑う狩野に苦笑を漏らして、そうなんだと頷くと、俺は一切れとんかつを箸で摘まんだ。それを口に運んでもぐもぐと咀嚼する。
話を聞く限り、狩野の出場種目はリレーと騎馬戦、応援合戦と障害物競走に借り物競争、学年対抗綱引きらしい。それだけ出ても問題ない体力とは恐れ入る。俺なんて四つでギブだギブ。
ちなみに、この学園に組体操はない。三年の全体競技として旗を持ち統一された行動、ダンスで魅せるパフォーマンスがある。毎年指揮をするのは会長で旗を持つのが風紀委員長と決まっているらしく、トリを飾るだけあっていつも以上に三年生はピリピリとしていた。一人でもずれたなら失敗なのだ。それは気が張るだろう。
「このポテトサラダ美味しいな!」
狩野が嬉しそうに笑う。頷いて、ポテトサラダを一口食べた。程よい味付けのそれは、母に仕込まれた料理のひとつだ。だが、どうしても母の味には一歩届かない。何故だか分からないけど、でも、子供っていつだってそんな物だろう。
恋しいな、と息を吐くと狩野が不思議そうな顔をした。この世界で、世良以外の誰が、俺のいうことを信じてくれると言うのだろう。自分でさえ、これが長い夢なのではないかとか、すべて自分の妄想なんじゃないかとか考えてしまう時があるくらいだ。
母の、料理が恋しくなる。だけど、どれだけ願ったって、元の世界に帰れたとしても、もう、両親は生きていないのだ。
「……ごちそうさま」
「まだ沢山残ってるぞ? おい、真澄?」
急に食欲が失せて、俺は食器も片さず部屋に入る。個室の中でベッドにダイブして、静かに泣いた。母も、美味しいと笑う自分をあんなふうに嬉しいと思いながら見ていたのだろうか。疲れて帰った父の柔らかな笑顔。母さんの料理は今日も美味しいな、なんて笑う日々も、もう、二人が戻ることもない。
忙しい学園生活、異世界に飛ばされたという現実に忘れかけていた悲しみが蘇ってくる。墓参りにすらもう、いけないかもしれない。それが何より辛い。
結局、どう足掻いたって、俺はもう一人なんだ。
料理が上手くなったのは、母さんの一言からだった。
「ねえ、真澄。お料理してみない?」と言われて首を傾げたのを覚えている。今のご時世、男の子がお料理しても変じゃないし、一人暮らしとか、いつかあなたが家を出ることがあったなら、少なくとも覚えていて損はないわ。なんて柔らかく笑う母に、じゃあと頷いた。
献立を考えるところから始まって、作れるものが増えると母は嬉しそうにしていた。最初の頃は卵焼きも焦がしたし、コロッケとかとんかつも、上げるタイミングがさっぱりわからなかったけど、おいしそうに食べてくれる二人を見て、やる気は下がらずめきめきと上達していった。
「母さん……」
記憶の中の母は陽だまりのような人だ。ころころと笑う、美しい人。いつか貴方の恋人に美味しいケーキと紅茶と、それからディナーを用意してあげたいわ。なんて言っていたけど、ついぞ叶えることはできなかったな。
ため息を吐く。後で食器を片付けないと。狩野は、ものぐさだから。後で、後で……。
涙がシーツを濡らす。防音の部屋でよかった。泣くなんて恥ずかしいこと、誰にも見られたくないから。
少しの間無音の空間に俺の鼻をすする音がしていたが、そこにスマホのバイブ音が混じった。誰からだ? とスマホを取り出して画面を確認すると、表示されていたのは世良孝明だった。
「……もしもし」
「…………泣いてるのか?」
「ばか、過去形だよ」
ぐすっと鼻をすすりながら応答ボタンを押して答えると、世良が固い声で問いかけてきた。理由を簡単に説明すると、なるほどなと大きく息を吐いて少し無言になる。
「別にもう平気だからそんな気にしなくてもいい」
なんだか気まずくなって小さな声でそう言うと、世良はなにかを考えるように唸った。
「飯なあ……そりゃ思い出すよな」
「いや、だから」
「でも、お母さんの優しさを忘れなくて済むから、まだいいんじゃねえの? 一生物を残してくれたお母さんに感謝しねえとな」
「……一生物……」
「そうだろ? お前の料理にも、思い出にも、ちゃんと残ってる。ひとりじゃねえよ」
優しい声で世良は言った。ただの慰めだけどな、なんて小さく笑って。
「ま、それはそれとして、泣きたいときは泣けばいい。お前の歳で大切な人を失うのは、あまりにも寂しいし、悲しいだろ。話なら、いくらでも聞いてやるから。せんせーに任せなさい」
少しおどけて見せた世良の声が小さくなる。いや、世良の声が小さくなったんじゃなくて、スマホを持つ手が少し下がったんだ。ぼろぼろと零れる涙を服の袖で擦って、しゃくりあげる。
泣き出した俺に世良は何も言わず、落ち着くのを待ってくれている。その優しさが余計に心に響くってことを、世良は知っているのか。
「父さんと母さんが死んだ日、俺は嘘を吐いて家に残ったんだ」
「うん」
「たまには俺のこと忘れて楽しんでほしいって」
「うん」
「だけど、あの日、一緒に出掛けていれば、もしかしたら、俺も……なんて、時々考えて」
「……うん」
「…………夢の中で、あの日の着信音を何度も何度も、聞くんだ」
悪夢の中で、何度も、何度も……。ただ聞かされる音。いっそあの時なんて考えて、その考えを振り払う朝。思い出して、涙があふれる。
「……思うに、真澄くん」
ふいに、世良が切り出した。その口調はどこか軽い。
「その着信音、こっちのと同じか?」
「……お前なあ、人が真面目な話を」
「呆れた? でも、もしかしたら次夢に見るときは、俺の言葉が頭に響いて苦しくなくなるかもよ、今みたいに」
なんて。と世良は笑う。何を言っているんだと聞きたい気持ちもあったが、確かに、今の一瞬で涙が引っ込んだ。
「辛い思い出なんて一生引きずるのは仕方ないんだよ。乗り越えるなんて到底無理。だからさ、少しでも軽くなるように努力するしかない。お前も、俺も、生きているんだから」
だろ? と同意を求める言葉にハッとする。どこか、世良の言葉は俺じゃない誰かに向けられているような気がした。それは、自分自身なのか、はたまた誰か別の人間なのか。わからないけど。
「あーあ、本題話せる雰囲気じゃねえな」
「そういうのは、通話切ってから言うもんだぞ」
「はは、そうだな」
大きく息を吐いた世良がそんなことを言うので、思わず笑みが零れた。指摘すると世良もくすくすと笑う。
「本題って?」
「いや、どうでもいいことなんだけどな、ピアスのお礼にお前の好きな紅茶メーカーの新商品の詰め合わせ注文したから受け取れよって」
「ほんとに今じゃないな」
「だろ?」
はは、と笑い声を漏らすと、世良は「また明日な」と通話の終わりを告げる。また明日と答えて赤い終話ボタンを押すと、先ほどとは打って変わって心が落ち着いている。
起き上がって顔を洗おうと自室から出ようとドアを押すと、ゴンと鈍い音と共に狩野の短い悲鳴が響いた。扉の先で顔をくっつけて耳を立てていたのだろう少年は、あははと笑って「おれ、風呂入ってくる!」とその場から逃げ出した。
いや、耳立てても聞こえないだろ。壁もドアも厚いんだから。
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