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【第1章】第1話

「そこから、出とうはないか?」 赤い格子の外に佇むソレは、確かにそう、私に問い掛けたのであった。 此処、『にへどの』と名付けられた集落は、昔々の花街の名残を色濃く残す町である。 東の都から制された春を売り買いする文化も、この町では生き続けていた。 仮の名を、七珍と言う。 山神を祀り、生贄を毎年差し出していた時代の事。 山中で一人取り残された子らを、一人、また一人と、攫い集めた男が開いた町である事など、もう誰一人として覚えては居ないのだが、その名残だけが一つ。 高層ビルが立ち並ぶ東京とは離れ、山々に囲まれたこの地で、一人歩きしているのである。 そして、どこで噂を聞きつけたか、現世の衣服に身を包んだ男達が毎夜毎夜訪れる。 そのお蔭で、七珍は成り立っているのだが、一日位誰も来ぬ日があっても良いのではないかと、花魁の青藤は思っていた。 まだ夜も明けきっておらぬ、七つ半頃だろうか。 手引き茶屋の者達も、いよいよ寝入り始めた所だろうな。 髪結が綺麗に結った髪を解き、硬い枕に首を預けながら目を細める。 脳裏には、くっきりと、あの格子の外に佇むモノが発した言葉が残っている。 「また、同じ夢を…、」 新造から一人前の女郎、いや男娼?になり、手引き茶屋にも幾分慣れ始めた頃だった。 行き交う男等の向こう、時折途切れる列の隙間から垣間見たは、白い狐。 行儀の良いその狐は、「青藤や、そこから、出とうはないか?」と問い掛けたのだ。 その時は、姉さんの煙管の煙に形を変えてでも、格子の外に出たい程だったのだから、素直に頷いておけばどんなに良かったろう。 しかし無様な私は、唯一点に狐を見詰める事しか出来ぬ小心者であった。 十九になったばかりの師走の夜の出来事は未だ忘れられず、花魁となった今でも夢にまで形を変えて、この私を誑かしに来る。 「青藤、そりゃあアンタ、狐に化かされてんのさ」 そうやって馬鹿にされるのがオチだと、一切口は割らなかったが、こう何度も言い寄られては、私にもまだ希望とやらがあるのかと錯覚してしまうじゃないか。 姿をお見せよ、狐。 「外か・・・、私には程遠いな」 心内を呟いた所で、希望とやらは私の前には姿を現しもしない。 無理もないか。 白粉や紅の下、男とも女とも見分けが付かぬこの顔は、最早此処の気に晒され、酷い気色であろう。 以前はあんなにも焦がれた外の世も、今となっては一生拝む事も出来ぬと諦めておる。 廃れた御心には、目も宛がうたくは無いか、狐よ。 ふ、と洩らした自嘲は、あの時と同じ師走の空気を纏った部屋に消えた。 私諸共、吐息等しくこの部屋に溶け込めたら、如何に良いか。 消えた吐息を追う様に、天に向かって伸ばした手の白さと言ったら、男だと言う事を忘れてしまいそうであった。 節くれ立った腕に細い指、薄桃色とは程遠い白い爪に、生気があるとは到底思えない。 まるで、死人じゃないか。 青藤と言う名の死人の体を借りている、私は一体誰であろう。 生きているとも、死んでいるとも、区別出来ぬ。 私は一体誰であろう。 狐が姿を現さぬ原因も、これであろうな。 何度目かの自嘲が零れる。 随分と衰弱した体に、長い間腕を上げる力すら残っていなかったか、ばたりと音を立てて布団の上へ落下したのが少し痺れている。 近頃は、客と会う機会を減らしたが、それでも以前の様な若気は戻らぬ様だ。 少し、眠らねば。 “迎えに参ったぞ、青藤……──。”  「また夢か、」 “迎えに参ったのだ。” 「五月蝿いぞ。夢であろう」 “夢ではない。” 「確たる証拠を見せよ、狐」 “証拠とな。” 「証拠だ、私は誑かされぬぞ」 “暫く会わぬ内に、偉く捻くれたものだな。” 「話を逸らすか、流石狐ともあろうお方よの。術が違うわ」 “もう良い。夢か否かは我の目で確かめよ。” 目を伏せた刹那、暗闇の中で凛と響く声に眉を顰める。 自分の声が真に口から出ているのか分からなかった。 途絶えた声に、何か言わねばと焦る気持ちばかりが募っていく。 しかし、何か告げる前に、青藤は妙な浮遊感を覚えるのであった。

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