3 / 30

第2話

さて、青藤が次に気が付いた時には、すっかり日も昇り切っていた。 浅い所を彷徨う意識に、柔らかな陽の光と温もりを感じる。 今日は世話役の妹分達も中々起こしに来ぬな。 こんなにもゆっくりとした朝は何時振りか。 重い瞼を開くと、見慣れぬ天井が目に入る。 はて、私は何時足抜けしたのだ。 何とは無しに思案したは良いが、足抜けした事がバレてしまえば、花魁と言う身分にはもう二度と戻れぬだろう。 まだ上手くは回らぬ頭ながらに、花街での仕来たりとそれを破ってしまった場合の女郎の行く末を思い浮かべて、はっとする。 慌てて片肘をついて半身を起そうと試みるも、それは不発に終わった。 肘をついた所までは上手く行ったのだが、どうにも体を起こせぬ。 遂には支えにしていた肘まで崩れ落ちる始末である。 「怠けよって…っ!」 「そう焦るな。お前さんは疲れておる、その上こちらの世界は初めてであろう?初めから上手くはゆかぬもの、焦るな焦るな」 思わず吐いた悪態に、思いがけず制しの声が掛かる。 制しの声と言えど、咎める様な口調ではなく、おっとりとしたもので、「焦るな」との言葉通り声の主には焦りの色すら見当たらない。 しかし、この声、全く見当のつかぬもの。数多の客の中にも、こうも通る声の主は居ったか。いや、居らぬ。 ならば誰だ?番人か?いや待てよ、番人ならば、私を悠々と布団に寝かせておくものか。 何より男か女か、区別出来ぬ。 自由が利く限り目のみを動かし、人影を探す。 「もう少しお休みよ、きっとまだ無理だわよう」 「そうだろうそうだろう、まだ無理だろう」 一向に人影は見付からないのだが、青藤を差し置き声は響く。 最低でも二人は青藤の近くに潜んでいる様だった。 言い知れぬ不安と恐怖に、身に力が入る。 なのにどうだ、女郎に恋慕した男達の様な勢いも、番人の様な威圧感も、感じられない。 寧ろ、安堵を覚える様な心地好い雰囲気すら漂う。 おどろおどろしい声で、気味の悪い脅しでも掛けてくれれば、この様に妙な気持ちにもならぬのに。 動かぬ体に、見慣れぬ天、名も顔も知らぬ者の声。 恐怖に慄くには充分過ぎる状況の中に放られながら、青藤は恐怖ではなく困惑を覚えた。 その困惑すらも見透かしたかの様に、突然目元をひんやりとした手が覆う。 まるで、休めと、眠れと、促すかの如く。 「……そなた等は一体、」 「それは追々、後々、今はお前さんの体を落ち着かせる事が第一、第一」 再び訪れた暗闇の中に、ふふふ、と柔らかく笑う声が響いた。 「お山の狐が攫うて来たは、可愛い可愛い小娘か」 「いやいや違うよ、若造だ」 「なんと、若造だったとな!どれどれ、しかとお顔を見せとくれ」 「駄目じゃ駄目じゃ、青藤殿はお疲れなのじゃぞ、さあさあ散れ散れ!」 遠くに賑やかな会話が聞こえたが、暫くの後に、静寂が訪れた。 促されて閉じた瞼は、先程よりもずっと重い。 誰ぞの言う通り疲れておるのか。 ふっと一息吐いた直後、穏やかな眠気が訪れたのを、拒む事なく青藤は再び眠りに落ちた。 ・ ・ ・ 夢も見ぬ様な深い眠りから、ようよう覚めれば部屋は月明かりが差すだけの暗がり。 どうやら、一日丸ごと眠りこけたらしい。 根拠など何処にも無いが、体に自由が戻っていると確信し、朝と同じ方法で半身を起こす。 今度は易々と起きるに成功した。 「うむ、」 何も自身を褒めたい訳ではない。 何度目を覚まそうと変わらぬ景色に意を決したのだ。 体の調子も良い、何より私には足抜けをした時分の記憶が無い、今ならば誰に因縁をつけられようと、言い負かす自信がある。 何せ、私は“七珍一の男娼花魁と呼ぶに相応しき”と言われていたのだ。 布団を捲り、いざ立ち上がらんとした時、着物が普段とは違ったものだと気付く。 一度も着た事のないような、藤色の着物だ。 一見、女が着るが妥当な色に思えるが、微弱な光を頼りに見る限り作りは男物。 布地を確かめ、上等な質だと知る。 「身請けされたか…?」 贅沢な待遇に、瞬時にして足抜けの線が消え、少々の余裕が生まれた。 立ち上がる足に妙な力を入れ込みもせず、立ち上がり部屋を見渡す。 「客間だな」 簡素な造りながらに、壁には掛け軸が掛かっており、その前には白い花が一輪だけ挿されていた。 何処の金持ちの屋敷だ、と思案しながら襖を開ける。 埃臭さもないのは廊下も同じ事、隈なく手入れされている。 部屋よりも暗かったが、顔を出してみた所、右手奥の部屋から明かりが洩れていた。 まだ、起きている者が居るらしい。 布団から抜け出して、そう時間は経ってはいないのに、足先が冷えていた。 そろりそろり、明かりの洩れている部屋に歩み寄り、襖に耳をつける。 暫く中の様子を伺うも、物音一つない。 火を灯した儘、眠ってしまったのだろう。 (女人の部屋なら、申し訳ないが、) ぞろりと引いた襖の僅かな隙間に目を宛がう。 布団は見える。しかし、肝心な膨らみがない。 その代わり、文机に向かう男の背中があった。 「青藤か、お前が覗きとは似合わぬな」 あ、と声を出すよりも先に声を掛けられ、飛び上がりそうになるのを堪えて僅かに開けただけであった襖を、人一人分が通るだけ開く。 中に入るのは気怖じし、廊下にぽつりと佇むザマだ。 これが、身請けた主人か、後姿にも見覚えはないと言うのに。 「入らぬのか?」 「……、」 振り返った主人の顔に、やはり見覚えなど無かった。 芸者にすれば一晩にして、金子を両手に抱えられぬ程稼げるであろう顔だ。 もし、一度でも顔を合わせた事があるならば、忘れる筈もなかろう。 だが、その声には聞き覚えがある。 幾年か前に、馬鹿らしい質問を投げ掛けた挙句、凡そ毎晩夢に現れたあれの声に似ている。 いや、あれの声なのだ。 「もう、眠れぬか?今の刻、人は寝入っておる筈」 淡々と紡がれる言葉に、青藤はうんともすんとも返事はしなかった。 唯、今目の前に胡坐を掻く者こそが、あの恨めしい狐なのだと安易に察するや否や、挨拶の一つも無しに部屋に踏み込む。 そして、真一文字に口を結んだ儘、鋭い眼光に狐を捉えながら腰を下ろし、手を差し出して大真面目な声色で一言言い放ったのだった。 「お手」 長らくの沈黙。 かち合った視線は双方逸らさぬし、表情も変えぬ。 時が止まったかの様に錯覚しそうになる所を、蝋燭に灯された火がゆらゆらと揺れる様が、時は流動し続けている事を示す。 「我の正体は狐。お前も知ったものとばかり思っていたが、まさか犬とでも思うたか?」 根負けした狐が、青藤の手の上に、己の手を重ねて漸く、双方の間に確りと時が流れ出した。 くっくっく、と遂に笑い出した狐を余所に、あくまで青藤は大真面目な顔を止めぬ。 奇妙奇妙、奇妙な出来事が始まる事を、青藤はぼんやりと考えていたのだ。 不安はあれど、恐怖はあれど、私は暫し此処に留まらなければならぬだろう。 ならば此奴を手懐けてしまおうか。 人も犬も狐ですらも、飼い慣らせば同じ事。 ならば、此奴を手懐けてしまおうか・・・───。 それとも隙を見て奇々怪々な此世から・・・───。 そう、ぼんやりと。

ともだちにシェアしよう!