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第3話

「どれ、髪を結うてやろう」 おかわり、とまでは言わなかった青藤と狐の手が重なっていた時もまた長い事。 先に口を開いたのは、狐の方であった。 青藤は返事もせぬ。 あちらでも、此方に来てからも、まともに狐に利いた口は「お手」の一言、それだけ。 「ほれ、早う」 青藤の手から手を離し、狐は肩を掴んで、背を向ける様に促した。 渋々とも言える動作で、青藤は背を向け横座りする。 先程、入って来た襖は開いた儘だ、奥に見える暗闇に少しだけ怖い物を感じる。 「先ず、私の名は、恩坩めぐると言う。恩恵の恩と言う字に、坩堝るつぼの坩だ」 お前の髪は美しいな、と狐、いや恩坩は笑う。 その手には、竹の櫛が握られており、長い黒髪を梳いている。 「お前の名は、青藤で合うとるな?七宝屋の幻の花魁、青藤だったか」 「ほんに小さき頃から、お前の事は良く知っておるよ」 「真に男かと見紛う顔、一度見たら忘れるは難儀な事故」 「ああ、今朝方は妖共がお前の部屋に行った様だが」 「今は、人の世へと脅かしに出ておってね、屋敷の中には私とお前の二人しか居らんのだよ」 一方的に恩坩は話し掛ける話し掛ける、しみじみとした口調で言葉は絶えないと言った様子だ。 だからと言って、手の動きが鈍くなるでも、止まるでもなく、何時の間にやら髪は一つに結われていた。 終わったよ、と言わんばかりに恩坩は青藤の両肩に手を置く。 するとどうだ、先程まで話を聞いておるのか聞いておらぬのか、さっぱり見当も付かなかった青藤が振り向き、恩坩と向き合う形を取った。 「狐、お前は私を誑かした挙句、奇奇怪怪な世へと導いたのか?」 「そうかもしれぬな」 真摯な眼差しの先、恩坩は未だ笑みを携えた顔で適当を言う。 青藤は、ばつが悪い顔で溜息を吐いた。 横座りを止め、恩坩と同じく胡坐を掻く。廊では一度もこの様な座り方をした事は無い。 堅苦しくなく、非常に座り良い格好だと思った。 「青藤や」 また黙り込む青藤に、恩坩が名を呼ぶ。 青藤は随分と扱い難い頑固で無口な性格、先程は言葉を絶やさなかった恩坩もその場を繋ぐ為に口を開いていただけで普段は余り喋らぬ性格、互いに気軽に談笑出来る性格ではないらしい。 顔を合わせた短い時間の中で、恩坩はそれを悟った。 同時に、“今”の青藤は何事にも動じる事なく、落ち着き払って今からの話を聞いてくれるであろうと、考えたのである。 「返事をしたくないのなら、それでも良い。唯、お前は此処に長らく住む事になる、於いては、知っておいて欲しい事がある、私は少し、隠し事は苦手でな」 そう前置きをして、恩坩は長い話を始めた。 あれは師走にも関わらず昼も夜もずっと、雲一つない晴れた日だった。 月明かりが綺麗でね、私は人里へ散歩がてら久々のお巡りをしたんだよ。 七珍の町は、今も昔も、変わらずで人が沢山行き交って居た。 私は都の男に身形を変えて、七珍の町を歩いた。 良薬だ、治療だ、と町医者が走り、昔の様に人らが倒れる前に命を救う様になってからは、余り覗かなかったんだが。 一つ一つ、格子の中を覗き歩いたよ。 そこで青藤、お前を見つけたのさ。 初々しい顔で、手引きをしていた。 それが、妙に胸に残ってしまった。 それでも、その日は外から眺めるだけに留めて、此処へ戻ったんだ。 明くる日も、また明くる日も、様子を伺いに出掛けたよ。 言葉は交わせぬし、体も重ねぬが、見るだけに留めるなら、誰にも咎められぬからね。 ある日の事、私は悪戯に狐の姿で七珍に出向いた。 何、意味など無いよ。少し化けるのをサボったんだ。 今じゃ、私を始めとする妖怪の姿を観る者も少なかろう、居らぬだろうと、気を抜いておった。 しかしどうだ、お前は、私が距離を置いて覗く位置から目を離さぬじゃないか。 そこで問うてみたのだよ。 「そこから、出とうはないか?」 とね。 そしたらお前は、言葉こそ返しはしなかったが、目を見開いた。 私の事が見えたのだね、そうだね? それが、嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。 その日は、胸を躍らせて帰ったさ。 それからも、時々都の男の姿で様子を伺いには行ったけれど。 何時しかお前は、手引きには出なくなった。 瓦版、今は新聞か、それでお前が花魁になった事を知ったよ。 お前さんと会えぬ日が長く続いた。 何時しか、私の中でお前の事が記憶から消え掛かっていた。 それを、二月前に、ひょんな事から、お前さんが床に臥した事が知れてね。 これはと思って、 「お前の魂を食うたのさ、」 終始、青藤は恩坩から視線を逸らしていた。 何を話し始めるのかと思えば、昔の事。青藤の夢に狐が現れ始めた頃の、狐側の話。 興味が無かった。 溜めに溜めて、最後の一言が紡がれても、青藤は視線すら揺らさなかった。 本に、興味が無かった。 「青藤や、」 狐が此方の様子を伺っている。 「青藤」 執拗に、此方の様子を伺っている。 「何を泣くか、」 気付いた時には遅かった。 頬に一筋の涙が伝っていた。 何も泣くつもりはなかった、何故に泣くのだ、何が悲しいのだ。 「そうか、私は死んだか。そうかそうか。死んだのか」 「……」 「それで、この体、何故に青藤の身形の儘、此処に在り続ける?」 青藤が動揺しているものだとばかり思い、心配した所。 多少の震えを持っても、しゃんとした声で問われた事の内容に、恩坩は黙り込む。 冷ややかに、憎らしげに、此方を横目に見遣る双眸に悪心を見たのだ。 「今後一切、私を青藤と呼ぶ事を禁ずる。此処の皆に伝えておけ、妖よ」 言い放つなり、青藤は腰を上げ、光の届かぬ暗い廊下へと姿を消した。 残された狐の大妖怪恩坩は、大きく裂けた口を頬まで伸ばし、青藤を通した襖をじっと見詰め怒りを含んだ笑みを浮かべたのであった。

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