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第4話
恩坩に捨て台詞を吐いた青藤は、早々と予め通されていた部屋へと戻った。
正面の障子の先は明るんでいる、夜明けが近いらしい。
嗚呼、息が苦しい。
平然を装ってみたは良いが、青藤自身、抜け殻ではない。
人並みの悲しみも苦しみも辛みも感じはするのだ、唯それを表には出さぬだけ。
突如吐露された事情に胃の腑から酸っぱいものが込み上がって来る。
抜け出した儘の形を留める布団に、突っ伏す勢いでうつ伏せに倒れ込むと、どくどくと心の臓が落ち着かぬ。気持ちが悪い。
「威勢が良いね、兄さん」
「……っ」
何処からともなく、響く声。
誰も居らぬのではなかったのか、悪態を吐こうにも口を開けば直ぐにでも胃液が飛び出そうで、口は開けぬ。
苦しげな息だけが言葉変わりに、薄く開いた口唇の隙間から洩れていった。
「御巡りが怒るなんて、珍しい事もあるものねぇ。何時振りの事だかねぇ」
「…な、にをっ」
「嫌あよ、私に八つ当たりは止してよう」
「……きさ、ま、」
「あぁ、あぁ、兄さんまで怒りなさんなよう。私は、兄さんを好いているんだ、ちょいとばかり御話させておくれよう、」
「……、」
自らの声言葉とは思えぬ言葉遣いに内心驚きつつ、形無き物を脅すべく低く唸る。
私も列記とした男だったのだな。
息苦しさに寝返りを打ち、仰向けに障子を見やると、白んだ外に朝を見た。
何処も朝は等しく訪れる、七珍にも七宝屋にも、此処にも。
結局、私とやらは、袋の鼠。
何処に居ろうと、何をして居ろうと、何時も見えぬ柵に囲まれ一時も息苦しさから開放されず、死ぬ事も許されず。
「何てザマだろうね、」
ほっと大きく息を吐けば、幾分気分は落ち着いた。
思わず呟いて、適当に視線を流した先に、女の影を捉える。
先程戻ってくる際に通った襖の端、仄かに明るくなってきた部屋の隅に女の影が見える。
「……入らぬのか、」
何処かで聞いた台詞だ。
姿を見付ければ安堵出来、声を掛けてみる。
「…入れぬのよう。私は、影女だからねえ、入れぬのよう、出れもせんのよう」
揺らいだ影の切なげな声は、此方まで心苦しくなりそうな程。
入って来れぬのか。可哀想にな。
出れもせぬのか、私と同じだ。
だからそう、悲しむでないよ。
「そなた、名は何と言う」
「私は、影女のお佐代。お兄さん、あんたは何と呼べば良いのかしらねえ。さっき、私は聞いてしまったのよう、青藤じゃあいけないんでしょう?」
「私に名など無いよ、屍だもの。何なら、戒名でも付けとくれ」
「お兄さんは、真、不思議な人なのう?あんたは御巡りに魂は食われたとて、生きているじゃあないのう」
「こんな世で、生きた心地などせぬがねえ?」
何も罪はないお佐代に向けた嫌味に、沈黙が流れる。
声の調子から、一眠り前に眠る様促す声を掛けたのは、このお佐代と言う者であろう。
柔らかな口振りは、姉さん女郎を思わせる。
青藤は、何処と無く仲良くなれそうな気でいた。
「お佐代」
「なあに?」
「噺は出来るかい?」
「噺?どんな噺がお好きなのう?」
「そうさね、幼児に聞かす御伽草子が良い」
「御意に」
部屋の隅で、女の影は揺れた。
先程とは違い、切なげでは無い。
久々に語らう者を見付けたのか、話す事が酷く嬉しそうである。
青藤の頼みに、静かに返事を寄越すと、こほん、と咳払いをした後で静かに話を始めた。
「中比の事にや有りけん、鳥羽の辺に高柳の宰相と申す人坐せしが、……──」
「側に付き添ひ給えば、残りの子共は少し暇ある心地して、此処彼処に打休む程なり、…──」
玉水物語の一区切りまで話し上げて、お佐代は部屋の内を伺う。
先程まで、「その先はその先は」「姫君は玉水の正体にはお気づきではないのか」と子供の様に捲し立てていた青藤の声が一つ減り、また一つ減り。
遂には、無くなってしまったのだ。
かたりとも言わぬ静かな部屋の内で、青藤が寝息を立てるのを聞いた。
「また、明日にも続きは御話して差し上げなきゃねえ」
ふふ、と影を揺らすお佐代は、矢張り楽しげである。
徐に顔を上げると、朝日が屋敷の近くにまでやって来ていた。
もう時期、外へ出て行って仕舞った妖達も帰る頃。
余り朝が得意ではないお佐代は、音も無く立ち上がると襖から姿を消し、まだ暗い廊下の壁を滑り去っていった。
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