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第5話
程無くして、屋敷を大きく揺らしながら小妖怪達が帰宅した。
童子、鳴家、天舐め、天下り、物隠し、壁座頭。
お巡りの屋敷に住み着く物達は、帰り着いて直ぐ在るべき場所へと戻って行く。
誰も歩かぬ廊下が時折軋む音を鳴らし、縁側では鞠をつく音が響き出した。
次いで、玄関から大きな足音を立て、ずかずかと入り込む者に、勝手口から入り込む者。
狐の子らである。
やれ今日は大漁だ、と民家から盗んだ品々を掲げて屋敷内を走り回り大騒動だ。
「こら、待てえい!山分けの約束じゃろう!」
「待たぬ待たぬー、これはわしの儲けじゃー!」
「今日はな、簪を貰うて来たんじゃ!」
「あたいは、解き櫛!」
軒下に下げた柿を一つ頂戴した者もあれば、屋内に忍び込み櫛道具を頂戴した者もある。
一時の間に、屋敷は一層賑やかさを増す。
「全く、あやつ等は子供だのう」
「お前もまだ子供だよ」
「御巡り殿には敵わんわ。夕餉は一刻後で良いかの?出来たら呼びに伺うつもりじゃが」
「うむ、今日の夕餉は部屋にて取りたく思う」
「畏まった」
最後に屋敷に入った親方分の狐の子に、部屋から顔を出した恩坩が笑う。
両手に下げられた吊るし籠の中は、右に野菜、左に魚と、暫くの食料と見受ける。
上手く盗んだものだと感心しながら、恩坩は自室へ顔を引っ込めた。
「さあさあ、お前達は早う帰れ!巣穴でお袋さんが、子は未だかと心配しておるぞー!」
「やいやい!親分!明日の朝は遊ぶ約束じゃのう?忘れてはおらぬな?」
「うむうむ、忘れちゃおらんぞ!ほら、早う帰った帰った!」
厨に籠を放り、廊下をばたばたと走り回る子狐を追い掛け回せば、その数は次第に減り、何時の間にか屋敷に子狐の姿は、親方分の他無くなった。
随分昔に行商人から拝借した蝙蝠半纏の袖を肩近くまで捲り上げ、子狐は夕餉の仕度を始める。
外は既に早朝の時分だが、此処は妖の世。
夜に起き、早朝から昼前の間に眠るが常の妖にとっては、夜が朝餉、朝が夕餉となる。
伴って、朝は「お休み」、夜は「お早う」だ。
「今日は、鱈の煮付けじゃからの。青藤殿も気に召されると良いんじゃが」
籠の中から魚を二尾引き出し、腹を包丁で裂きながら、子狐は独りごちる。
そして、引きずり出した臓腑を摘むと、それを口に放り舌鼓を打ったのであった。
「今時は、こんな山奥に居っても、美味い魚がたんと食える、幸せじゃ幸せじゃ」
一方、その頃の青藤はと言うと。
お佐代の御伽草子を聞きながら、実の所、寝た振りをしていたのだった。
部屋の隅に、女の影が無くなるのを確かめると、布団を跳ね除け起き上がる。
所々着物に寄った皺を、軽く叩いて伸ばすと柔らかな光を受ける障子を見遣った。
音を立てぬ様に、細心の注意を払って障子を開ける。
運良く雨戸が左右に大きく開かれていたので、難なく外を拝める事が出来た。
木製の窓枠を一跨ぎに、冷たい土を踏む。
裸足だが、この際構わん。
両足を外に揃え、両手を大きく伸ばして朝の空気を胸一杯に取り込むと、意を決した様に駆ける、駆ける。
北風に負けず劣らず全力で庭先を駆け抜け、山道を駆け下りる。
だが、元は花魁、外を多く走った事もない、裸足となれば足裏に砂利が刺さり痛い。
足を止め肩で息をしながら、背後を振り返ったが屋敷は未だ近くに感じられる。
急げ、急げ。
逃げる機会は今が最初で最後かもしれぬ。
骨と皮だけ、ガラに似た足で尚駆ける。
駆けて駆けて、漸く立ち止まると、もう屋敷の屋根の端すら見えなかった。
胸を撫で下ろし、今度は歩く。立ち止まる事は許されぬのだ。
その後は一度も後ろを振り向く事なく、青藤は歩き続けた。
「七尾の所の、人だよ」
「あらまあ本当」
時折耳を掠める木々の葉が擦れ合う音の中に、言葉を聞くが、打て合ってはいけない。
ぐっ、と奥歯を噛み締め土を踏み続ける。
足裏の薄い皮は擦れて破れ、血が滲み出し、僅かに地を汚した。
その事に青藤が気付いたのは、足裏が痺れ始めた頃だった。
それでも歩き続けると、足を踏み出す先に、茶黒に汚れた土がある。
始めこそ、気の所為だと思ったのだが、進む毎に汚れは濃くなる一方。
首を傾げながらも歩を進め、青藤は、はたと足を止めた。
これは、私の血では無いか。
真偽を確かめるべく、親指の先で道の端に“○”を描き試しにまた進む。
数十歩歩んだ所で、道の端に先刻己で描いた“○”を見つけた。
またもあの憎き狐に化かされた!
「畜生ッ!」
拳を握り締め、進行方向を変える。
藪の中、道なき道を進む他無い。
「畜生畜生畜生ッ!」
「畜生畜生畜生ッ!」
青藤が吐いた言葉と同じ事を、葉が真似て辺りに響かせた。
青藤は諦めぬ。
兎に角、妖怪ばかりのこの世から、抜け出したかった。
密に言えば、どの世にも属さず、死んでしまいたかった。
一度死んだにしても、青藤の身形で在り続ける事を、青藤は嫌っていたのだ。
「青藤殿ーっ!」
「青藤殿ーっ!」
「客人の兄さんよう!聞こえておるなら返事をおくれえ!」
「客人の兄さんよう!」
屋敷中に響き渡る、子狐と影女の声に恩坩は眉間に皺を寄せる。
遂に脱走したらしい。
一晩の内に仲を深めたのだろう、何時もはこの時刻姿を現さぬ影女までもが青藤を探している様だ。
それでも、屋敷中に潜む妖は静かなものである。
さては、あれに憑く物を既に知ったか。
物書きをしていた最中、握っていた筆を硯に沈めて、どたどたと走り回る子狐が姿を現すのを待つ。
「御巡り殿っ!青藤殿が居らぬのじゃ!」
故意に逃がした訳ではなかろうに、パァンと襖を開けて直ぐ、子狐は体をわなわなと震わせながら涙声で訴える。
「知っておる」
「御巡り殿、すまぬ、すまぬ!」
「牢を作るのを怠った私が悪い、そうだろう?狐坊」
穏やかな口調の後、ゆっくりと振り返った恩坩の形相に、子狐は腰を抜かした。
狐の口の如く大きく裂けた口端の中が赤い、人の様で狐の面、狐の様で人の面。
細められた目は笑みを思わせるが、御巡り殿は激怒している。
察するも、がたがたと震えが止まぬ体を抱えて、子狐は恩坩から目を離せなかった。
終いには、小便を垂らす痴態を、大妖怪の前に晒して泣き出す始末。
其処らの狐と比べれば、既に“子狐”ではないのだが、恩坩を前に齢千年にも満たぬ狐如きは未だ子狐程度の身分。
唯々情けなさに頭を垂れ、俯いて唇を噛むのがやっとの事。
常日頃温厚な恩坩が激怒している。
それ即ち妖の世での死、つまりは“無”にされてしまうのではなかろうか、と考えるばかりで身が竦む。
嗚呼、何故青藤殿は・・・──。
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