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第6話

徐々に体力は削られ、忙しなく足を動かしているにも関わらず体温は下がっていく。 人の世は師走である、妖の世でもまた師走である。 着物一つで屋敷を飛び出した青藤の頬を、北風は撫で滑る。 但し、妖の世では、木々は季節に囚われず各々の好きな時に芽吹き、葉をつけ、花を咲かせ、散る。 青藤の目には、もうずっと、青々とした木々が見え続けている。 茶色の枝だけと言った裸の木々は、余り無いのだ。 その所為か、寒々とした風景を目にせぬ分、しぶとく根気は在り続けた。 世の果てまで、行こう。 内では、そんな場など無い事も、ベロを噛み切れば命を絶つは容易い事も、分かってはいるのだが。 青藤と言う名は好かぬ、この顔も体も好かぬ、狐も好かぬ、世も好かぬ、何も好いてはおらぬ。 故に、逃げていたかった、何処までも逃げていたかった。 死すより先に、この体から御霊を抜かねばならなかったのだ。 身と心を一つに交えた“青藤”の儘では、成仏ならぬ。 遠く遠く駆けて駆けて、駆けて行けば、何時か身と心が離れ、私は別の者に転生出来るのだと、疑わなかった。 七珍一の男娼花魁と呼ぶに相応しき、とな。 七宝屋の幻の花魁、とな。 (馬鹿馬鹿しきをしゃあしゃあとっ) 心の臓が張り裂けんばかりに、心の内で叫んだ。 素直さの微塵も無い言葉を只管に、心の内に叫び続けた。 そして、最後の力を振り絞り、青藤は藪の中を駆け抜けた。 ザザッ、と風が吹き抜ける。 藪の外へ出た。 その事実に、青藤はへたり込む。 限界はとうに超えていた。 嗚呼、世の果て。 目前には、藤の花が満開に開いていた。 薄紫の花を幾つも幾つも房状に付け、青々しい蔓を垂らしていた。 良く見れば、野生の藤ではない。 藤棚に蔓を巻き付け巻き付け、青藤を歓迎するかの様に葉を多く伸ばし、手招きするかの様に、花の房が揺れている。 余力は僅か、四つん這いにその藤棚へと青藤は向かう。 手の爪にも、足の爪にも、土が入り込み、着物は笹に削がれ、露出した肌には無数の切り傷があった。 髪は乱れ、折角結って貰った髪も滅茶苦茶、扱けた頬と窪んだ目元に、一昔前の花魁の姿は無かった。 満身創痍の体で、青藤は藤棚に寄る。 やっとの思いで柱の一つに辿り着いて、それに背を預けながら藤を見上げると、木漏れ日がきらきら光って美しい。 導かれる様に、薄汚れた手を上に伸ばせば、一つの蔦が下りて来た。 「そなたは、私を……──、この、私を、青藤とは、呼ぶまいなぁ…、そなたとは、違い、汚らしいものねえ、?」 「私は…薄汚れた、物乞いの、人に…見えるだろう…?」 「単なる、人に、見える、だろう、?」 「私は、単なる、人で、ありたかったの、よ」 花魁でも、男娼でも、青藤でも、無く。 それ以前に、 「単なる、人で、ありたかったの、よ、」 枯渇した喉からは、歌が上手いと褒められた頃の声は出ずに、老人の如き声が出た。 誰にも吐き出せず、二十年余りの歳を生きた青藤の本音を、藤の花は聞いた。 青藤の手に巻き付いた蔓が、まるで意志を持つ者と等しき動きで、青藤の頬に伸びる。 それを横目に捉えていた青藤は、蔓が幾つにも分かれた後で蕾となり、花が咲くのを一瞬にして見た。 「そうか、私を、人と…、見てくれたのだな、」 青藤の表情が柔らかに崩れ、口元に微笑が浮かぶ。 心の底から嬉しいと感じた故に、今まで誰にも見せた事の無い様な恍惚の表情が浮かぶ。 それも、藤の花は見ていた。 (淋しゅうて淋しゅうて、仕方が無かったのだね、) (嗚呼、だから、……──、鬼に憑かれてしもうたのだね、) (狐の尾を持ちながらに、鬼になろうとは、仕方の無い人の子よの、) 「人の子、」 七尾の金色の狐が、藤の棚に行き着いた時、藤の花は枯れ果て、支えの柱に茶色い蔓を這わせていただけだった。 その下に、人の子を見付け、声を掛ける。 人の子は、死んだ様に目を伏せ、酷い血色で柱に寄り掛かっていたが、声を掛けると薄く目を開け、狐を見遣る。 「嗚呼…、狐や。会いとうて、会いとうて、…仕方無かったの、だぞ…?」 薄い唇から洩れた細い音に、狐は元より細い目を更に細くし、人の子へと近付く。 すっかり衰弱し切ってはいるものの、憑き物が落ちた顔。 狐は、枯れた藤を見上げる。 何時か、立てた柱に藤を植え付け、己の妖力を注ぎ込んで育て上げた大藤が、見るも無残に枯れている。 決して枯れぬ様にと、力を与え続けていた大藤が、枯れている。 その下に、己が美しいと思うた人の子が倒れている。 この藤を植える切欠となった人の子が、息浅く倒れている。 先程まで、天邪鬼にでもなろうとしていた人の子が、人の子らしい顔で、私に手練手管を弄している。 「狐や、?」 「、うむ」 「私は、人に…──、単なる人に、なれた、かえ、?」 「お前は元より……、人の子で在ったじゃないか、」 人の子が、一つ瞬きをする間に、金色の狐は人の身形へと化けた。 その顔を、その姿を、人の子は知っていた。 あの怪しき屋敷の主人。 何時か何時か、自身を「人」として見てくれるのではないかと、迎えに来てくれるのではないかと、攫ってくれるのではないかと。 凡そ毎晩夢で逢瀬を交わした狐の化けた姿だ。 人の子は、藤に手を伸ばした時と同じく、男に手を伸ばした。 男は、何も言わず手を引くと、人の子を胸の中に納める。 「話は凡て、この大藤より聞き受けた。帰るぞ、人の子」 「……狐や、狐。私はもう、良いのよ、」 かくり、と首を傾け目を閉じた人の子を、男は背に負い、屋敷へと向かう道を歩み進めたのだった。

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