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第8話

此方にやって来てから、布団に世話になりっ放しだと富士は思う。 今もまた、こうして布団に入って居る。 また、此方では飯を一切食うておらぬが、不思議な事に全く腹が空かぬ。腹の虫さえ鳴かぬ。 元より大飯食らいではないにしろ、少しばかり気には掛かる。 恩坩の胸に額を押付ける形で、眠る事なく、富士は考えていた。 物書きがしたいのだ、と言う恩坩を引き止め布団に誘い込んだは良いが、富士より先に眠ったのは恩坩の方であった。 夜更けだもの、と富士は納得しながら、「寒いから、一緒に寝てくれ」と時折布団に入って来た葵と言う禿を思い出す。 その葵を真似て、恩坩を呼んだとも言えよう。 底冷えする日には、必ずと言っても良い程葵は布団に入り込み、富士のたんぽとなってくれた。 子供の体温は、寒い晩もほかほかと温く、何時しか富士もたんぽ人無しでは淋しく感じる様になっていたらしい。 普段の己と然して変わらぬ恩坩の熱も、無いよりは良い。 次第に体温を常に戻した体を起こし、富士は床より抜け出した。 今回は、逃げ出すじゃない、屋敷を一巡りしてみようと考えたのだ。 すっかり寝付いた恩坩は富士が床から離れても、起きはせずに静かに寝ている。 「無防備なものよ」 それだけ言い残して、富士は部屋を後にする。 さて、踏み出した暗い廊下の床に、足が触れる前から軋む音がする。 足を置いても軋まぬが、足を上げて床に触れる直ぐ前で、必ず軋む。 「床軋ませか?」 「鳴家だい」 不意に足元から聞こえた、小さき声に、視線を落とすと小人が飛び跳ねている。 それが飛び跳ねるのに合わせて床が軋む。 「兄貴ぃ、巡りは兄貴の部屋で寝ちまったのか?」 「もう鬼は外れたから、遊んでも良いぞと巡りが言うておったぞー」 「本に鬼は外れたかー?」 暗過ぎて見えぬが、男小人の様だ。 一匹、一人、数え方は解らぬが、一つ目に付くと、わらわらと集まって足元を擽る。 「鬼も恩坩も、私の部屋で寝ておるよ。どれ、家鳴と言うたか?この屋敷を案内してはくれぬかな」 御意、御意、と声を上げて鳴家達は屋敷を案内する事を承知した。 「あすこが、狐坊の部屋」 「そちらは、巡りの部屋」 「ここいらは、影女が逃げ込む暗がり」 「縁側は、双児の童子の遊び場で」 「天の裏が、おいら達の寝床だよ」 「天下りと天舐めも、おいら達と一緒に寝るんだ」 「あの壁にゃ、壁座頭が憑いているから危ないぞ」 「ありゃ?狐坊が朝餉の支度をしておるー」 富士が相槌を打つより先に、どれこれと鳴家達は屋敷の中を走り回った。 やっと立ち止まってくれたのは、厨の前で、小気味良い香りをさせている。 「随分と助かったよ、鳴家」 「兄貴ぃ、礼はなしか?おいら達、人の世の甘味が食いたいよ」 「甘味とな。私も食いたいがね、此方には身一つで来てしまって、持ち合わせがなくってさ」 「砂糖の一欠けでも良いんだ、甘い物が食いたい」 「食いたい食いたい!」 「礼もなしとは、富士はケチだ!」 「屋敷中に吹いて回るぞ!」 「そう言うな、私は本に持ち合わせがないのよ、」 「ほれ、鳴家共」 すっかり鳴家達に集られ、困っていた富士の足元に切り分けられた羊羹が皿で置かれた。 鳴家達は、早々と羊羹の一つ一つを、大体三人で頭の上に担ぎ上げ、えも言われぬ早さで廊下を駆けて行った。 「あおふ、…富士殿、体の加減は良くなったのか…?」 厨の光に照らされて、微かに見える『廊下を走る羊羹』を目で追っていた富士に声が掛かる。 厨の入り口に、耳と尻尾を生やした小僧が立っていた。 控えめに尋ねて来られ、思わず笑ってしまう。 「羊羹、有難う。困っていた所、助かったよ。私の事は、青藤でもよいのだけれど。動ける程には良いかな、今は恩坩が部屋で床に着いておってね」 「構わぬ構わぬ。…青藤と呼ぶのは駄目なのじゃ、富士と呼べと御巡り殿の仰せじゃから…むむ、御巡り殿が、富士殿の部屋で?」 「良いよ、青藤で。…その、皆、巡りだの御巡りだのと呼んでおるのが、恩坩の事なのか?」 「……ならば、青藤殿で良いのじゃな?本当じゃな?」 「よいよ」 「ふむ。恩坩の名より先に、皆、巡りと呼び始めたからのう。恩坩とは呼ばぬのじゃ」 「なるほどな」 会話に一段落着くと、鳴家達から狐坊と呼ばれていた小僧は、小皿に乗った羊羹を富士にも渡し、鍋の様子を伺いに行った。 富士は、爪楊枝に羊羹を取り口に放りながら、厨に繋がる座敷の端に腰を掛ける。 せかせかと忙しなく動き回る後姿に揺れる尻尾が可愛らしい。 「狐坊と言うのは、名なのか?」 「狐の坊や、と御巡り殿が呼ぶから、そうなったのじゃ」 「名ではないのか」 「誰も等しく、わしを呼ぶ時に、そう呼べば…それは名じゃないのか?」 「さあ、どうだろう」 富士を振り返る事なく、慌しさに追われて狐坊は返す。 鳴家も、狐坊も、恩坩よりは何倍も喋り易い質である。 何より、此方が喋らずとも、勝手に喋るのだから扱い易い。 狐坊と掛け合い、ゆっくりと味わいながら食した羊羹が、富士の胃の腑に落ち着いた頃、狐坊は屋敷中の妖達の朝餉を作り終えた。 「恩坩と私の分は、私が部屋へ」 「…頼んでも良いのか?御巡り殿に叱られはせんかのう、」 「私が叱らせぬよ。大勢分を一人で賄う坊やを、誰に叱らせようか」 ご馳走様、と皿を返した代わりに、富士は二人分の食膳を受け取った。 天の裏に帰ったであろう鳴家達の居らぬ廊下は、静かである。 案内人の居らぬ暗がりを、両手を塞がれ歩くのは、慣れぬ富士に不便を覚えさせたが、一つの部屋を横切る時に襖が開いて立ち止まる。 誰が出てくるや、と其方を向くが、誰も出てくる気配はない。 中を覗けば、恩坩らしき頭が出た布団が見える。 「おっと、此処か」 富士が部屋を出て、戻るまでは一刻程掛かったが、恩坩は変わらず寝ている様子だ。 文机の上へ膳を置き、床に放ってある湯飲と急須を拾い上げる。 閉めた覚えの無い襖は、きちり閉められていた。 「恩坩。襖は勝手に開き閉じするものだったかな」 顔まで布団を被り空寝をする人物に問い掛ける。 此処での勝手を全て知るには足りぬが、襖の件は恩坩の配慮と踏んだのだ。 勿論、寝ていたのでは術は使えまい。 何しろ、先程は、自らの手で襖を開けて部屋を出たのだから。 「恩坩」 四つ這いで近寄り、布団を捲れば瞳と打つかる。 「それ見ろ、起きている」 「一人じゃ起き上がれぬ」 「馬鹿を言うな」 む、とした口で子かと疑う様な言葉を発する様に、笑って手を差し出すと、それに捕まり、漸く恩坩は布団を抜け出した。 「膳を持ってきた」 「狐坊に運ばせると言うただろう」 「寝ていたじゃないか」 「起きておったよ」 「私が戻った時にはな」 何故か臍を曲げた恩坩を横に、富士は狐坊が作った鱈の粥を一口啜り、頬を緩めた。 意外にも、飯を前にすればすんなりと口に運べる。 「狐坊の作る粥は美味いな」 機嫌を取ろうとしたのだが、それどころか恩坩の腕に捕まった。 気付かぬ内に背後に回った恩坩に抱き竦められたのだ。 「飯が食えぬ」 碗を手にして、抗議するが聞き受けられず、逆に腕の力を強められ、富士は溜息を吐いた。 「今度は逃げはせんかったろう」 「何か一言言うて行けば良かったじゃないか」 「だから、お前は寝ておっただろうとさっき言うたじゃないか」 箸を置いて、恩坩の皿からいなりを掴み、後ろ手に渡すと、ぱくりと食うのが解った。 どうやら、この屋敷の主人。 本は甘えたであるらしい。 甘く煮た油揚げの匂いが、富士の鼻を擽った。

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