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第9話

「調子が良いなら、今宵は皆と共に、人の世へと下れば良い」 たかが、三つのいなりを平らげただけで、恩坩は腹一杯になり、富士も碗に八分の粥で満足した。 今度は恩坩が膳を持ち、適当な事を残して部屋を出たのが、つい先程。 人の世、か。七つ半頃に眠りについて以来だ。 あれから、此方で三度目の夜を迎えた。 友引とは重ならなかっただろうか、通夜は終わったのだろうか。 人の世で、私の体はどうなったのだろうか。消えてしまったんだろうか。 考えても、悩んでも、答えは一つも出なかった。 「富士の兄さん?」 後ろに引っ繰り返り、満腹の腹を摩りながら、人の世へ行くか行きまいか、怠惰な形で考えていた所だった。 影女のお佐代だ。 食事を終えたのだろう。 しくしくと啜り泣いていたが、もう私がこの世からも消え去った事を撤回する者は現れたのだろうか。 「お佐代かい」 「ふ、富士の兄さん…っ」 「もう泣くのはお止しよ」 「御巡りも、狐坊も、双葉も、鳴家も、みんなみんな意地悪だわよう。私に法螺を吹いたのよう…」 「ううむ、…懲らしめてお遣りなさいな」 「私は、人にも妖にも手は上げぬからねえ、それで、みんな法螺を吹いて苦しめたのう…」 「お前の頭を撫でられぬが、歯痒いな」 立場の弱い者を苛め遊ぶは、人も妖も同じか。 影に近付き、その影の頭を撫でても、手の平には和紙の感触があるだけ。 それでも、影女は嬉しそうに「有難う」と言った。 「今日は、此の前の続きを御話しなきゃ、と思うて来たのよう?」 「ああ、話を聞きたいのは山々なのだがねぇ。恩坩が人の世へ下りてはどうだと、」 「人の世?脅かしに行くのう?」 「脅かし?まさか。私は高みの見物をするつもりで居るよ」 「やあね、兄さん。折角行くんだったら、私の代わりに、人を脅かして来て頂戴なあ」 「…人を脅かす術を知らぬのだよ」 少しばかり、心配のし過ぎかと疑う程、見る見る内にお佐代は元気を取り戻す。 増して、富士に人を脅かせと無理難題を叩き付ける有様だ。 他の妖は別として、お佐代はこの屋敷より出れぬらしいから、人を脅かす事に飢えているのかもしれぬ。 そう思えば、富士は、何だか放っては置けぬ影女の頼みを受ける事にした。 「術は無くたって、兄さんには、肩書きがあるじゃないのう」 「肩書き、?」 「ちょいと、用意するから、此処でお待ちねえ?」 此方の世では、富士の意に反して、勝手に物事は進んで行く。 望む事も望まぬ事でも、勝手に決められ進んで行くのだ。 今度もまた、勝手に話が決まり、お佐代は何やら準備をすると言い出すから、焦る。 「お佐代、ちょいとお待ちよ!」 目の前で消散した影に、富士は項を掻き毟った。 何を準備すると言うのか、さっぱりだ。 「兄さん、此れを」 「…ん?」 「嗚呼、お待ちなあ。私が帰ってから襖は開けて頂戴よう」 お佐代の前に、新たな影が現れる。 不思議に思い、引き手に手を掛けたが、駄目だと言われて動きを止めた。 直後、影はまたも消散した。 忙しないな、と苦笑いを浮かべつつ、襖を開けると、足元に着物と櫛、化粧箱などの一式が置かれていた。 その横には、三ツ歯の下駄まで律儀に置かれている。 「人の世で、花魁道中をして参れ、と」 富士の口から、かつてない程の溜息が洩れる。 が、富士は、一式を拾い上げると、先ずは化粧を施し、着替えに掛かった。 暗がりの中では不便だと思った矢先、窓から迷い火が入り込み、蝋燭台に灯りをくれたので、視界は開けた。 火の中で、胡坐を掻く武士姿の者も、目を伏せてくれ、どうやら覗きをするつもりではないらしい。 一人で着付けるのは、難儀な事だったが、以前は禿だった身。 着付けはそつなくこなせる。 少しばかり緩い着付けではあるものの、まぁ見れぬ物ではないだろうと、富士は妥協する。 問題は髪だ。 流石に、一人で髪は結えぬし、鏡もないから、櫛を挿す位置が良く解らぬ。 着付けだけは済ませ、垂らした髪に手櫛を入れながら、どうしたものかと考え込むと、今度は窓の外に一人の老婆が現れた。 無言で此方を睨んでいる様に見えたが、枠を越えて部屋へと入り、櫛を引っ掴んだ所を見ると、手伝いをしに来てくれたと見える。 すると、何処で学んだか、島田髷をちゃっちゃと済ませる。 背後から窓へと飛び出す姿は、老婆ではなく狸であったのだが、富士は忘れず外に向かって礼を言った。 一通りの支度が整ってしまった富士。 廊下に出ると、双子の童子に打つかった。 「青藤花魁じゃ!」 「青藤花魁じゃ!」 「…此処ではもう、その名では呼ばぬのではなかったのか、」 「今日だけは特別なのじゃ!な!双葉!」 「な!双葉!それ、花魁!参るぞー!」 どうやら、互いに互いを双葉と呼び合うらしい双子は、息もぴったり。 富士の手から下駄を奪い取り、両手を握って、早く早くと表口に焦らす。 三ツ歯の下駄を足に、外へ出ると、其処には数多の妖怪が集っていた。 「青藤花魁のお出ましじゃ!それ、皆の衆!並べーっ!」 呆気に取られる間も与えず、ぐいぐいと童子は前方へ歩を進める様に引っ張る。 数多の妖怪達を取り仕切るは、狐坊の声だ。 一斉に、富士の前にも後ろにも、妖怪が並び出す。 そして、それ等が、皆。 ぴしりと一列に並んだ時だった。 「せーの!」 狐坊の一層大きな声の後の、一瞬きの内に、前後の妖怪達は人の姿へと化けた。 金棒引、禿、傘持ち、肩持ち、新造。 時折、耳や尻尾が飛び出た者も見受けられたが、富士は微笑ましいと思う。 振り返り列の最後を見遣れば、祭囃子まで控えている。 皆々、楽しんで道中をするつもりらしい。 「いざ、青藤花魁殿の花魁道中と百鬼夜行を兼ねての夜じゃ!楽しんで参るぞ!」 耳が痛む程に騒がしい中、富士率いる妖怪一行の花魁道中は、早くも御巡り家から幕を開いたのであった。

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