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第19話

夕方。まだ完全なる闇に支配される前の、薄明かりがある時頃。 普段は縁側で過ごしている筈の双葉達が、廊下を走り回る騒がしさに青藤は目を覚ます。 廊下を覗くと、二匹の猫が双葉に追い掛けられていた。 はて猫など居ただろうか、と考えた先、思い付いたのは先日より屋敷に居座り続ける猫又の姿。 今宵は猫の形なのだなと軽く捉え、まだもう暫く横になろうと襖を閉めようとした所に、狐坊が部屋から出てくるのが見えた。 今から皆の朝餉を用意するのだろう。 「狐坊」 「青藤殿?もう良いのか?」 「そこそこね。薬のお蔭だろう、ありがとうね」 ずんと重石を乗せた様な鈍い頭痛や、眩暈はあるのだが、昨晩程ではない。 心配を掛けまいと笑みを見せるが、ふと狐坊を見詰めて青藤は首を傾げた。 「なあ、狐坊や。あの薬、一体何が含まれていたのだろう?」 「…な、内緒じゃと言うただろう!」 狐坊の肩が大きく跳ね、尻より生えた尻尾がぐるりと振られたのを見逃しはしない。 明らかに後ろめたい事があるのだと言わんばかりに、狐坊は顔を逸らして、目の前を横切ろうとする。 その様子に、思わず青藤は、喉奥を鳴らした。 そそくさと部屋の前を過ぎ、離れに早足で向かう後姿を軽い歩調で追い、背後から尻尾をむぎゅと掴む。 「な、何をするんじゃっ!!」 「ふさふさ」 身丈も青藤よりは随分と小さく、尾も恩坩のよりも小振り。 前々から可愛らしい狐坊の尾を触れてみたかった。 むぎゅむぎゅ、と何度も握る。 まだ幼いとは言えど、青藤より遥かに年は食っているのだが、狐の妖としては未熟な狐坊の尾は柔らかく、気持ちが良い。 遂には、屈み込んで頬擦りをしながら、目を細める程だ。 「は、ははは離すんじゃっ、!」 「一つ二つ、私の質問に答えてくれるのならば」 強弱をつけて握れば、手の中でぴくぴくと動く尻尾で青藤は遊んでいた。 対して狐坊はと言えば、余り他者の手には触らせぬ尻尾をたっぷりと触られ、顔を真っ赤にする。 その様子を、青藤は楽しんでいるのだ。 「あの薬。あれは、何が入っておったのだろうね」 「っ、て、天狗に教わった薬と…っ」 「何に効く薬だろうか」 「か、かか風邪じゃよ!」 「風邪か。神というのは、そう頻繁に風邪を引くのか?」 「……あ、あお、青藤殿はつ、疲れておったし、…ひ、疲労に効くのと、精力がつくのを、少々混ぜただけ、」 「ふむ。…自白剤などは、入っておらんだったろうね」 「は、入っておらぬ!」 「そう、ならよいのよ」 「…わしは、こ、こい、恋煩いに効く薬など、知らぬっ!」 昨晩、恩坩に甘えたのは、薬の所為ではなく熱の所為であったのだと納得すると手を離してやった。 だが、最後に告がれた事に、狐坊の尾を離してやった儘の形で、その場に固まってしまう。 狐坊は、廊下を駆けて離れへと行ってしまった。 「そ、そうか、恋煩いの薬は無いか、」 熱の所為でも無かったのだ。 謂わば本望、青藤が望んでいた事。 気より先に口体が動いたらしい。 知らず知らずの内に、恋とやらに侵されていたのか。 目を背け、気の迷いだと押し殺していた各々こそが、恋であったのか。 頻度の増えた瞬きの回数など気に留めず、青藤は深く考えた。 私と恩坩の部屋として使用している場に、猫又が入り込むのは嫌で。 私の知らぬ恩坩を知り、好きだと素直に言う猫又が目障りと感じた。 猫又が、恩坩の胸で寝るのは許し難かった。 それは何故か。 それは、私が恩坩を好いているから。 私が、素直に好いているとは言えぬから。 恩坩の胸は、私の居場所だと思うていたから。 ずっと答えを出せずにいた事の真髄にやっと辿り着いた様に思った。 恩坩に言われても、解せなかった事の真髄に、己の心と確と向き合って漸く、巡り会えた気がした。 廊下の隅に動く事が出来ずに蹲る青藤の横を、対の者達が駆けて行く。 やっと立ち上がると、先程より眩暈が増している様であった。 床を抜け出し、随分の間床に蹲っていた故、少し体が冷えたのだ。 恋だの好きだのと考え、眩暈と頭痛を抱えながら部屋へ戻れば、横向きに寝転がった儘、恩坩が読み物をしている。 敷布団は勿論、掛け布団に毛布まで下に敷いて、何処と無く不機嫌そうだ。 「行儀が悪い」 「……、」 青藤に一瞥を向けただけで、恩坩は答えず読み物に目を通し続ける。 不思議に思うも、隣に足を伸ばして座った。 何時もは下に敷く事はない毛布の感触に、落ち着かない。 「恩坩?聞こえぬのか?」 「…私にも、ふさふさの尾はある」 能く能く見てみれば、恩坩の尻から九つの尾が見えているではないか。 青藤が狐坊の尾を弄んだのを、聞いていたのだろう。 ゆらゆらと先端を揺らしながら、矢張り恩坩は不機嫌そうだ。 「尾を出す部分だけ、着物が切れているのだろうか…」 「…この着物にも術が掛けてあるのだ」 「ほう」 「…私にも、ふさふさな尾が生えておるのだぞ」 「だから何と言うのよ」 狐坊と同じく恩坩も弄んでやろうと言う目論見の下、青藤は笑いを堪えて、白を切る。 すると、恩坩は読み物を閉じて枕へと突っ伏してしまった。 触ってくれ触ってくれと、主張しながら九尾が忙しなく動いている。 それでも、青藤は素知らぬ振りで焦らし続け、ばたばたと音を立てながらそれぞれに布団を叩く尾を眺める。 狐坊のものより、八つ多く毛並みも上等、一本一本も太く美しい。 いよいよ我慢出来ず、丁度九つ全てが宙に振られたのを見計らうと、蝶でも捕まえる様な動きで青藤は尾を両手で掴んだ。 しかし、流石に両手では掴み切れぬ質量である。 直ぐに手の中をすり抜けられてしまったが、手の平に残る感触はと言うと、離したくないと思わせる程。 また、先程と同じく宙に振られた時、今度はがっちりと両腕で抱くと、頬を尾が擽った。 「ふさふさか?」 「ふさふさ」 「そうか」 「両腕一杯のふさふさ」 「…そ、そうか」 戸惑い気味の声が聞こえたが、ふさふさの尾を両腕に抱き続ける。 頬と言わず顔全体を撫で回す、優しい温度を持った尾が心地良かった。 存分に尾を楽しんでも尚、矢張り離したくはないと思うが、それは長くは叶わなかった。 ぱっ、と恩坩が尾を仕舞いこんでしまったのだ。 不服げな面持ちで、突っ伏す恩坩の横に寝転ぶ。 腹の辺りに回った腕に、ん?と横を見遣っても、恩坩の顔は見えない。 徐々に顔まで上った手が、頬を撫でるのを青藤は受け入れた。 「なぁ、青藤」 「ん」 「風邪は治ったか?」 「まだ少し怠い。それに、風邪が治っても、私には持病があるらしいからね」 青藤は、天を向いた。 もぞりと寝返りを打ち、此方を向いたであろう恩坩の視線を感じる。 「恋煩いか」 「そう言うのだと、狐坊が教えてくれたよ」 「それは治らぬやもしれぬな」 「我慢せずとも。……よいよ」 嗚呼、もう我慢ならないのだろうから。 尾の代わりに頬を撫でる手に、手を重ねる。 途端、天を見ていた筈の視界に、恩坩の顔が大きく入って来た。 覆い被さり、真っ直ぐに此方を見詰める視線が、本気を物語っている。 「一つ。一つだけ、聞かせて欲しいのだけれど」 「何だ」 「私は男だよ、お前はそれでもよいのか」 「お前が青藤であるならば、それで良い」 この前とは逆の立場、下となった身に、男娼として扱われていた頃の事が過ぎる。 青藤を抱いた。 それだけで、価値を持った頃の事だ。 あの花魁を抱いたのだ、と言う者の中で、青藤は人以下の存在だった。 唯の装飾品。 富豪と呼ばれる者が、更なる自慢話の種に金を多く積んで掻き抱いていた。 そこには、愛など無かったし、一度二度の目合いに情も無かった。 思わず顔を背ける。 嫌な事を思い出したものだ。 「何時の世もお前は、花魁でも人でも神でもなく、単なる青藤と言う名の儚き存在、──…、私にとってはな」 耳朶に触れた唇から零れた酷く低い声に、青藤は震えて目を伏せた。

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