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【番外】狐坊の休日
夜が来た。いや、正しくは夕方である。
今日この日に予定を立てていた青藤は、狐坊が起きるより先に飛び起きた。
隣では起きる事が不得意な恩坩が身じろぎをしていた。
枕元に置いていた紐で髪を一つに括り、まだ覚醒し切れない頭で部屋を出る。
こんな早くに何処に行くかと言うと、離れである。
普段は狐坊の縄張りとも言える厨で、袖を捲り上げる。
“今日は、狐坊に休みを与えよう”
別に、狐坊は嫌々働いている訳でもなし、自ら率先してこの屋敷で給仕をしているのだが。
昨晩、ふと青藤は思いついた。
この事に関しては、佐代と双葉と鳴家だけが知っている。
本人の狐坊、恩坩、壁座頭や天下りなどは知らない。
内密の計画である。
内密の計画である事、実行後、狐坊が驚く事。
その二点を思うと、青藤はうきうきとした。
しかし、未だ嘗て、飯の仕度をした事はない。
やる気だけは十二分にあるのだが、何からどう始めて良いのか分からず困惑する。
「米を研ぐのよう」
「米…?あ、あぁ」
姿は見えないが、佐代の声である。
鍋を片手にどうしようかどうしようかとおろおろしていた青藤に助け舟を出したのだ。
しかし、米を研ごうにも、肝心な米が見当たらない。
収納を開けてみるが、中から飛び出して来たのは、もう使われていないであろう鍋やらお玉やら、そんな物ばかりであった。
「おいら達は知っているぞー、米は釜戸の横だあ!」
次に助け舟を出したのは、鳴家だった。
鳴家は甘味が好きだ。
多分、事ある毎に狐坊にたかりに来ては、色んな物を貰っている。
故に、米の在り所も知っている様だ。
言う通り、釜戸の横には黒い壷があった。
蓋を開けると、確かに米がある。
その上、中には一合升まであった。
これで、米が炊ける。
そう思った時だ。
「これ、青藤!その生米を今から炊くつもりで居るのか?」
「ならぬならぬ!一晩水に浸けた米があるじゃろ!」
「……生米は炊いてはならぬのか?」
「ならぬ事はないが、わらわ達は美味い飯がよい」
「ええい!わらわ達が米を炊くから、青藤は別を作れい!」
腰に手を当て、威張り姿の双葉だ。
飯位自分一人で作れるものとばかり思っていた青藤は、何一つ一人では出来ぬ事に少々項垂れる。
双葉達は、襷を掛けた姿で、青藤より幾分敏い動きで飯を仕込みに掛かった。
「なあ、佐代。皆は何時も何を食べているのか、私は余り知らぬのだけれど」
「なのに、ご飯を作ろうだなんて、青藤は甘いわねえ?」
「私は何でもよいから…、でも恩坩はいなりしか食べぬし、皆、何を食べているのだろうか」
「おいら達は、角砂糖を食うておるぞ!」
「わらわ達は、青藤と一緒で構わぬ。な、双葉?」
「うむ、わらわ達は青藤と一緒で構わぬ構わぬ!」
「私は影だからねえ、供えてくれるだけでよいのよう」
皆の好物は分かった。
が、大変なのは其処からだった。
味噌汁を作ろうと湯を沸かせば、先ずは野菜を切るのだぞ、と鳴家が言う。
ならばと、大根を取り出して切り始めようとすると、洗ったのか?皮は剥いたか?先は落としたか?と双葉が言う。
「私は、何も作った事がないのよ。皆がそう怒ろうとて、飯が出来上がる物でもなかろうに」
手際の悪い青藤が遂に弱音を一つ吐くと、皆は暫し黙り込んだ後、風呂の掃除をして来いと青藤を追い出した。
離れの廊下に放り出された青藤は、皆が協力し合い、飯を作るのを眺めていたが、ぼちぼちと風呂場へと向かった。
あの術が沢山施された風呂場の掃除など、必要ないのではないかと思ったが、風呂場を覗くと、垢舐めがやって来ていた。
一度か二度、青藤は赤舐めの姿を見た事があった。
風呂に入っている時だ、風呂の隅に薄汚れた姿を見た。
全く櫛の入っていない乱れに乱れた髪が顔を隠し、着ているのは汚れた単なる布切れ。
唯々、赤く長い舌を出したり引っ込めたりしながら、風呂に入っている青藤の方を向いているだけの子供。
風呂に入り終えた後で、「あれは誰なのだろう?」と狐坊に問うた所、「垢舐めじゃ」と言っていたので、その名を知っていた。
が、名を知るばかり。
どの様な妖なのかは全く知らずに声を掛ける。
「垢舐めや、この風呂の掃除とは、何をしたら良いのだろう」
「青藤。掃除?狐坊、無い?」
「ああ、今日は私がするのよ」
「青藤、掃除。垢舐め、ご飯、無い」
「飯?飯なら、作っておるよ。垢舐めの分もあるんじゃなかろうか」
「違う。垢舐め、ご飯、皆、垢」
長い舌を出し入れしながら、拙く言葉を話す垢舐め。
一体どの様な妖なのかさっぱり分からぬが、兎にも角にも、風呂栓を抜かねば何も始まらぬと湯を抜いた。
すると、風呂場の隅に佇むだけであった垢舐めが、湯が抜けて行く風呂桶に歩み寄るなり、その長い舌で舐め始める
それを見て、やっと青藤は合点がいった。
「お前の飯は、皆の垢だったのか」
「…垢舐め、ご飯、これ」
妖の種類は様々。食べる物もそれぞれ。
成る程、と青藤は垢舐めに近寄ると、乱れた髪を撫でた。
触れたと同時に、肩は跳ねたが、嫌がる素振りはなかったから、ごわついた髪を撫で続ける。
「今度、私が髪を梳いてやろうね」
「……、」
「着物も、何かなかろうかね。私のはあげられないが、お前用に何かあしらって貰おう」
「垢舐め、汚い。邪魔。芥」
「そう言うな、私がお前の為に何かしてやれたら、と思うたのよ」
「……」
思う存分、垢舐めは風呂桶の中を舐めた。
はて垢と言う垢など見当たらぬのだが、足りるのだろうかと心配する青藤を余所に、垢舐めは一頻り舐め終わると風呂に向かって手を合わせる。
ご馳走様、か。
微笑ましいな、などと考えている内に、今度は垢舐めはタワシを持ち出し、風呂桶の中を磨き始めた。
「ん、お前がいつも掃除をしておるのか」
「…狐坊、する。でも、今日、狐坊、ない。垢舐め、する」
「どれ、私も風呂の掃除を任されておる故、一緒にしよう。慣れぬ事は一人でせぬ方がよいのよ」
「たわし、あそこ」
慣れぬ事を一人でしようとして、失敗に終わったのが青藤なのだが。
垢舐めが指で示した隅の方から、たわしを持ち出し、青藤も磨いた。
広い風呂桶を磨くのは腰が痛くなったが、どれもこれも毎日狐坊がやっている事。
そう思えば、腰が痛いやら何やらと言うてはおれぬ。
飯は作れず、放り出されたのだから、これ位は、と精を出した。
風呂を磨く間、垢舐めとは幾つか言葉を交わした。
術が掛かった様な風呂の垢では足りぬのではないか、と問うと、足りる、と言う。
お前は屋敷には上がれぬ身であるのか、と問うと、上がりたがらぬだけで、上がれぬ事はない、と言う。
今度、藤棚に遊びにおいで、と誘えば、何処と無く恥ずかしげに頷いてくれた。
そうこう話す内には掃除も終わり、垢舐めに別れを告げて風呂場を出ると、離れには一杯の香りが広がっていた。
どうやら、同じ辺りに飯の仕度も出来た様だ。
良かった良かったと、厨へと向かう青藤は頬を緩めるのであった。
さて厨に戻った青藤の目の前にすっかり出来上がった朝餉が並ぶ。
はて、狐坊は起きて来なかったのだろうか、首を傾げるが相変わらず慌ただしく走り回る皆に聞く事は出来ない。
どれ、持って行こうかと声を掛けると瞬く間に目の前に膳が並んだ。
いなり、おひたし、吸い物、焼き魚、白飯に湯のみと急須。
まずはといなりが入った膳を手に広間へと向かう。
半開きになっていた襖を行儀が悪いのを承知で足で開けると驚く事に中には狐坊の姿が見受けられた。
「あ、青藤殿!は、運ぶの位良いじゃろ、?」
「……な、ならぬよ」
働きたくて仕方ないのだろう、皆には何と言われたのだろうか。
青藤の姿を見るなり掛け寄って来た狐坊が膳に手を伸ばすのを上手くかわす。
普段、恩坩が座る場所へと置いて再び厨へと向かおうとするのを狐坊が引き留めた。
「お、お、おち、落ちつかぬのじゃ、」
「偶にはいいのよ、ゆっくりすると良い。皆でそう決めたのだから」
しゅん。
その言葉がとても似合う程にしょぼくれた狐坊の頭を撫でる。
ぎくりとした後で更に俯く狐坊の姿に僅かに笑みを浮かべて今度こそ青藤は厨へと戻ろうとした所に膳を持った双葉と鳴家がやってきた。
遅れて来たのは恩坩。
「これで全部揃うたのかな」
「うむ!わらわ達で運び終えたぞ!」
「わらわ達が運んだのじゃぞ!」
「やい!おいら達も運んだぞ!」
「肩に担いで運んだぞ!」
「そうだそうだ!」
「なんだ、今日は狐坊の作ったものじゃないのか」
「わらわ達が作ったのじゃ!」
「おいら達が運んだぞ!」
恩坩が上座に腰を落ち着けたところでわあぎゃあと叫ぶ小物達に青藤はありがとうね、とお礼を言い席につく。
それが合図とばかりに席についた妖達。
皆揃って頂きます、と手を合わせて食べ始めたは良いものの、いざ口を付けるとまたもや大騒ぎ。
恩坩は油揚げの砂糖、酢飯の酢が効いていないと言うし、双葉たちは裏面が焦げた魚の尾を箸で持ち上げ揺らしながら苦いと言う。
鳴家達は米が柔らかすぎると言う。
青藤が啜った吸い物も味がほんの少し薄かった。
そうして大笑い。
矢張り狐坊の飯が一番良い。一番美味い。
下座で顔を真っ赤にした狐坊が小さく縮こまって耳を垂らすのに青藤はくすりと笑った。
それでも、全てたいらげた妖達は何も言わずに膳を自ら厨へと運び、青藤と恩坩とで皿洗いをした。
「なんでまたこの様な事をしたのだ」
「普段世話になる狐坊にお礼をと思うてね」
「しかし本に今日のいなりは不味かっ」
「恩坩」
「なんだ、誠の事を言うたまで」
「今度は私が休暇を貰おうかね」
「やらぬ」
「貰う時には貰うよ」
「ならぬ」
珍しく会話が弾み、くすくす、と笑う青藤の背後で大きな柱に隠れた狐坊も小さく微笑む。
狐坊にとって、皆が仲良く、そして楽しく、過ごせれば良いのだ。それが一番の幸せなのだ。
恩坩と青藤が仲睦まじいのが嬉しいのだ。
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