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自分の悲鳴の合間に、黙らせて、という声が聞こえた気がした。
そのすぐ後に息苦しさを感じて噎せる。何人かの手が、レイヴンの息をも止める勢いで口を塞いでいた。
どれだけの時間を暗闇の中で過ごしたのだろう。
どれだけの時間、叫んでいたのだろう。
気がつけば喉は枯れ、声も切れ切れになっていた。それでも叫び続けるレイヴンに、相手の方が音を上げたのだ。
二三度天井のライトが点滅し、あたりは暗闇から光に切り替わる。その瞬間、レイヴンの腕を這い回っていたぬめぬめとした虫の妄想はかききえた。
何もいない。何もない。それなのに肌が痒く鳥肌は頭皮にまで立っている。
喉の奥が冷たく痛い。唾液が乾き、おかしなにおいがする。頬が濡れているのは涙のせいだ。目も痛い。呼吸をするのがやっとで、頭がうまくまわらない。
三度ほどゆっくりと瞬きをして、明るくなった世界には虫もネズミも蛇もコウモリも何も居ないことを確認してから、レイヴンはようやく自分を見下ろす女性に気がついた。
「……暗闇がだめだ、というのは本当なんですね、レイ・ストークスさん。それ以上うるさくするようなら、息ができないように口と鼻をテープで塞ぐことになります」
静かになさってください、と語りかけるリサは、少し緊張しているように見えた。
リサの身なりも雰囲気も、ごくふつうの女だった。
宗教者的なカリスマ性も、社会のリーダー的な落ち着きも感じない。美人でも、醜女でもない。ふつうの、という以外に表現方法がないような、女だ。
おぞましい暗闇から解放されたレイヴンは、まずは浅い息を繰り返し平常を取り戻す事に努めた。
暗闇に包まれたのは何年ぶりかわからない。
叔父との生活の中では決してなかった。何度か停電もあったが、いつでも電池式のライトを灯していたので本当の暗闇に落ちることはなかった。
勿論、現在の住居もそうだ。真っ暗でなくとも暗い部屋は苦手だが、多少でも物が見えていればまだ耐えられる。
吸って吐く。吸って吐く。繰り返す。
そうしているうちに、体が寒さを感じ始めた。胸くその悪い興奮状態から、胸くその悪い現実へと引き戻される。
叫びながら絶命するところだった。冗談ではなく、あのままではレイヴンは狂ってしまっていただろう。
リサの言う通り、レイヴンは闇が苦手だ。苦手というよりは憎んでいるし、恐れている。自分を殺すものがあるのならば栄養失調かそれとも水か暗闇か、と思っていた。
それなのに今はそのどれでもないものに囚われている。
特徴のないスカートに地味なシャツとカーディガンを羽織ったリサをどうにか見上げ、レイヴンは言葉を探した。
喉が痛い。息をするのも疲れる。けれど、光の下にいるかぎりレイヴンは「死んでたまるか」と思える。
「…………あんた、なに、しようって……あしたの、ひるに、リサ……ソーウェル……」
ひねりだした声はがらがらで、うまく舌も回らない。叫んだせいで喉がつぶれ、寒さのせいで口が開かない。
ほんの少しだけ首を傾げたリサは、少々悩んだような間の後に視線を逸らした。
「……すべてリセットするんです」
その言葉は、決して堂々とはしていなかった。進路に悩んでいる学生のような、ごくふつうの迷いと不安が入り交じっていた。
「リセット……」
「そう、リセットです。こんな人生、もうやめてしまいたい、って思った事ないですか? すっぱりと全部なくなってしまえば悩むことなんてないのに、って思った事ないですか?」
床に転がされたまま、レイヴンは考えた。
それはつまり、将来の不安のようなものの事を指しているのだろう、と思う。光のない人生の先を悩み不安に思うのならば、いっそ明日など来なければいいのに、と、思ったことはある。毎日幸福に暮らしている人間も、一度くらいは将来の不安を感じた事があるだろう。
しかしレイヴンは死のうなどとは考えなかった。
それは彼のプライドのようなものだった。死んだら負けだ。勝ち負けがすべてではないなどと偉い人間はしたり顔で言うが、レイヴンの中ではそれがすべてだ。
死んだら負けだ。世界が、世間が、親族が、レイヴンよりも勝った事になる。そんなことは耐えられない。ゴミや虫のような生活をしていても、この世界で生きなければ負けなのだ。
「明日が、来なければと、思ったことはなくはない。けれど、そんなの負け犬だ」
「そうです、負け犬です。だから、一緒に死ぬんです」
「……は? 何……」
「誰かが勝つからいけないんです。私じゃない誰かが勝つから嫌なんです。もうこんな悩みと不安しかない世界から解放されたい。でも、私がただ死んだら負けでしょう? 悔しいでしょう? 幸せな人たちはあの女は惨めだったねって笑うんでしょう? そんなの耐えられないから、だから、全員で『せーの』で死んでしまえばいい」
リセットするんです、と、リサはもう一度言う。
その声はやはり狂信者でもなく統率者でもなく、不安の混じる女の声だった。
暫く言葉を理解する為に口を閉ざしていたレイヴンは、やっと彼女の思想を理解した後に思い切り息を吸い込んでしまい激しく噎せた。
とっさに怒鳴ろうとしてしまった。馬鹿か。馬鹿だ。その思いが反射で口から出そうになった。激しく咳を吐き出し内臓と骨の痛みに耐えているうちに、少しだけ冷静になって言葉を飲み込む事が出来た。
馬鹿か。馬鹿だ。
自分の不安を考えることが憂鬱だからといって、自分が不安に飲み込まれて生きることをやめるのが惨めだからといって、じゃあ世界を一緒に終わらそう、だなんて。
昨今映画の悪役でももっとまともな理由で世界を征服しようとするのではないか。いや、これが昨今の考え方なのだろうか。映画はろくに見ないし、ドラマも観ないからわからないが。
自分が嫌だから周りを巻き込もうだなんて。
優劣に耐えられないからすべてを無にしようだなんて。
馬鹿か。馬鹿だ。とんでもない馬鹿者だ。そしてそんな馬鹿たちの素性に気が付かず、おめおめと捕まってしまい床に転がされている自分も馬鹿だった。
どうして気が付かなかったのか、心当たりはある。
レイヴンは彼らをなんのとりえもない落ちこぼれだと侮っていたし、なんのとりえのない落ちこぼれだが人生に悩み生きている普通の人間だと過大評価していたのだ。
こんな屑だとは思っていなかった。
こんなバカだとは思っていなかった。
せめて自分よりはマシだと思っていた。それなのに、この馬鹿達は開き直ることもできず盲信的になることもできず、悪い事とわかっていながらも怯えながら大量虐殺を仄めかす。
馬鹿だ、と、小さく声が漏れた。それは彼らに向けたものか、自分への侮辱かわからない。
「……ゴッサムシティの悪役みたいじゃんか。映画みたいに、ボタン一つでニューヨークシティを恐怖に陥れるようなハイテクなプログラムでも、もってんの?」
憤りも絶望もすべてを一度飲み込んだレイヴンは、ささやかな希望を思い出してリサに問いかけた。
「機械は苦手なんです。だから、貴方にハッキングされていることにも全然気が付かなかった。私が植木鉢を処分しようとしなければ、多分一生気が付かなかったし、パトロンに浮気報告をされて計画が台無しになるところだった。ボタン一つで全部がなくなるような、恐ろしい兵器を自由に扱えたなら、私は愛人をしながら古いダイナーで稼ぎのないウエイトレスなんてしていない」
「じゃあNYを恐怖に陥れる実行犯は誰? 何?」
「ウイルスをばら撒きます。最初は天然痘だと言われて買ったんですが……どうやら、違う菌のようだけれど。実験でネズミは死んだので、たぶん、ちゃんとみんな死んでくれると思います」
「たぶん。……ちゃんと? それで? あんたたちもそのたぶん死ぬウイルスをかぶるの? それともいっせーので首でも吊るの?」
「私たちは薬を飲みます。たぶんそれが、一番確実で一番苦しまないから」
「……おれは、どっちで殺される予定?」
「どちらでも別に構わないんですけど。面倒だから、このまま監禁して飢えていただくのもいいかなって思っています。どうせこんな辺鄙なところ、誰も来やしないのだから」
だろうね、と呟きながらレイヴンは自分の靴が脱がされていない事と壊れていない事を確認した。やっと頭が回ってきた。
馬鹿の妄想を追及しているふりをしながら、レイヴンはまったく別の事を考えていた。
この馬鹿達がどういう計画を立てているかなどどうでもいい。テロ組織でもない素人集団が劇薬を手に入れるのは相当な頭がないと無理だろう。NY市民を大量に巻き込んでの自殺はおそらく、失敗に終わる筈だ。
問題は市民の安全ではない。
レイヴンが今、死ぬか生きるか、それだけだ。
幸いにも馬鹿達は自分でレイヴンを殺す気はないようだった。それはそうだろう。テロ行為ですらわかりやすい自爆やハイジャックではなく、他力本願なウイルス散布でやろうとしているのだから。
レイヴンは考える。
ライカンスの事を考える。
恋い焦がれている訳ではなく、彼の安全と彼の頭の良さを考える。
拉致される前、ドナルドからライカンスの携帯に連絡があった。それはレイヴンが事件に巻き込まれたという嘘の知らせだった。この知らせでライカンスを呼び出し同じように拉致するつもりだったのだろうと推測できる。
レイヴンを攫ったのはリサの愛人である依頼人に、リサの不審な仲間たちの報告をされて計画がとん挫することを防ぐため。ライカンスを攫おうとしたのはレイヴンと連絡が途切れれば、彼は警察に報告したうえでレイヴンを捜索すると考えられたからだろう。なにしろライカンス自身が警官だし、彼は規律を馬鹿みたいに順守するお人よしだ。自分一人で行動して窮地に陥る孤独なヒーローではない。
ライカンスは無茶をしない。ライカンスは正規の手段を踏む。ライカンスは真面目で頭も悪くない。
この寄せ集めの犯罪集団に、秘密基地が二つもあるとは思えない。なにより、ほとんどのメンバーがここに揃っている。縛られてしまえば何もできないひ弱なレイヴンより、現役警察官のライカンスの方が見張りが必要だろう。すでに殺されているという推測が頭をよぎったが、レイヴンはそれについては考えない事にした。
ライカンスがレイヴンの部屋の監視カメラに気が付いてさえくれれば。その為のパスワードを知っている人間と接触さえしてくれれば。
ライカンスが異変に気が付き、そして無事にルースター・サーチに行けばそれでいい。そこには昼も夜も大概机で仕事をしているフレダーがいる。彼は、レイヴンの部屋のパソコンのパスワードの解き方を知っている。相手がライカンスでなくてもいい。フレダーの知識と、ライカンスが居ればそれで、パスワードは解ける。
今は一体何時だろう。
自分が拉致されてから何時間経ったのだろう。
「……ガレージ付きの別荘なんて、どうやって買ったのさ。キミの稼ぎじゃ無理だし、キミの仲間の金を集めても無理だろ。NYの地価は貧乏人に安くない。古くたって別荘は別荘だ」
「NYシティじゃなければ土地だって安い、って言いたいんですけれど、そうね確かに買えるものじゃない。拝借しているんです」
「不法侵入かよ……ここはどこ。水の音はイーストリバー? ハドソン川?」
「そんなの知ってどうするの? もう、あとは死ぬだけなのに」
「あとは死ぬだけだからだろ。自分の死ぬ場所の番地くらい知っといてもいいと思うけど」
「あなたは私たちと違ってよくわからない思考をしているから、油断ならないわ。私たちは死にたいし殺したいと思っているけど、別にだからと言って申し訳ないとか思っていないし情けをかけたいとかも思っていないんです。だから、何も言わずに飢えて死んでください。……やっぱり口をふさぎましょう。そうしたら、暗くしてもきっとうるさくないし、もしかしたら狂って勝手に死んでくれるかもしれないですもんね」
貴方みたいにみんなが暗闇で狂えば殺すのも簡単なのに、と、リサは小さく息を吐いた。
暗闇、という言葉だけで身体が震える。まだ明るいのに、部屋の隅からカサカサと音が聞こえてくる気がする。
ガムテープを、とリサが言う。
抵抗しようにも、縛られ床に転がされているレイヴンは、身体を丸めることくらいしかできない。
レイヴンは彼が靴に仕込んだ盗聴器の電波を拾っている事を祈り、足を抱えるように体を曲げて誰にも聞かれないように呟いた。
この場の誰にも聞かれないように。靴の先で聞いているかもしれない、オオカミにだけ聞こえるように。
「――――たすけて」
こわい、と声に出した時、恐怖で震えている自分にやっと気が付いた。
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