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「レイモンド・ストークス。愛称はレイ。職場でのニックネームはレイヴン。二十五歳、ルースター・サーチ所属の調査員。出身はNY郊外の田舎の家だ。といっても地主的なでかい家だったらしい。両親が医者と自警団のとりまとめ役だったから、金も名誉もあったって感じだな。そこで彼は十五歳まで、両親と兄と姉に虐待されて育つ」
ガタン、と車が揺れる。随分と荒れた道を飛ばしているせいで、口を開けば舌を噛みそうだった。
揺れた拍子に口を噤んだライカンスは、反射的に出そうとした声を飲み込み、結局ため息をついた。
「……はやくも典型的不幸って感じがバシバシしてるな。よく今まで生きてきたな」
「俺もそう思うよライ。ストークスは誰がどう見ても不幸のどん底な少年時代を過ごしている。少年期に何があったのか、詳しくは記録がない。ストークスは喋らなかったし、勿論家族も喋らなかったし、家を出たストークスを預かった彼の叔父も数年前に死ぬまで何も喋らなかった。ただ、医師の診察でストークスが水と暗闇に異常な恐怖を示していることはわかっている。想像するのはたやすいさ」
「その、叔父って人に引き取られた経緯は」
「外でぶっ倒れたんだ。家の中の事はすべて隠匿できる環境ではあったが、流石に道の真ん中で倒れたらそうもいかない。それもストークスが倒れたのは実家の近くではなく遠く離れたロウワーマンハッタンの隅っこだった。彼は生まれて初めて逃げ出すことに成功して、そして空腹と疲労でぶっ倒れて初めて自由を手にしたわけさ。叔父の監視付きという環境ではあったがね」
それが、レイの監視され監視する人生の始まりだったのだろう、とライカンスは想像した。
誰かを監視し、誰かに監視されていないと生きていけない青年。水と暗闇を恐れる青年。
彼が自分の監視の為に身に着けた盗聴器は、三十分前から何の音も拾わなくなった。たすけて、というか細い声を残して沈黙してしまったスピーカーを、ライカンスはひたすらに睨んでいた。
警察所有のバンの後部座席は様々な機械に溢れていた。
普段パトカーにしか乗らない制服警官のライカンスには、縁のない乗り物だ。
それに揺られ、ライカンスとディーンはNY郊外の別荘を目指していた。
盗聴器から聞こえるレイの会話からは、ほとんど何の情報も得られなかった。しかし病的なレイは盗聴器と共にGPSも仕込むという徹底ぶりを見せ、ライカンス達は彼が捕らえられている場所を特定することができた。
レイの声が聞こえるという事は、盗聴器の存在はバレていない筈だ。GPSもおそらく身に着けていることだろう。そして犯人側の言葉を信じるのならば、レイが直接直ちに殺される事はない。
どの程度の精度の機械を仕込んでいるのか、専門家でもないライカンスにはわからない。それでもとぎれとぎれに聞こえてくるレイの声の合間に挟まっていたのは、聞き覚えのある女性の声だった。
リサ・ソーウェル。
その声に間違いはない。
恋に似た感情を彼女に抱いた事がある。それが正しく恋なのかはわからない。それなりの歳になれば、本能よりも理性が勝つし、世間体やプライドも主張してくる。子供の頃のように恋がすべてだなんて事にはならない。そういう恋も存在するのかもしれないが、ライカンスにとって恋は隣に居てほしい誰かを見つけることだ。
リサに笑っていてほしいと思った。彼女の控えめな笑顔が好きだった。それはレイに心が傾いてからも同じで、要するに彼女に対する自分の感情は友愛だったのかもしれないなぁと思っていた矢先だった。
リサは嘘をついていた。そして彼女はレイを攫い、他人を巻き込み死のうとしている。
頭は状況を理解しているつもりだが、感情が追い付かない。がたがたと揺れる車内で顔を覆い細い声を漏らすライカンスの肩に、友人の手が乗った。
「悪いな、巻き込んで。しんどいだろう、ライ」
「……いや、しんどいっちゃしんどいけど、お前にまで嘘をつかれるよりはマシだって考えることにする……。結局騙されてた俺が馬鹿ってことだろう」
皆嘘をついていた。
リサもドニーもレイも。
何も疑わなかった自分が馬鹿なのだ。
「俺はライのそういう馬鹿正直なところが好きだけどな。まあ、たぶん、ストークスもそうなんじゃないのか? 俺はソーウェルもドニーも擁護する気はないが、ストークスだけは情状酌量してほしいって気持ちはあるよ。あいつは仕事で仕方なく身分を偽ったんだ。虚勢ばかりの虚色のカラスだからな、丸裸になって自分さらけだすなんて死ぬも同然って思ってるんじゃないかな」
「なんだそれ。お前の好きなイソップか?」
「俺の好きなイソップだ。神様に選ばれる為に色とりどりの羽を纏いまくって嘘を吐いて結局仲間に捨てられる。それでも自分の黒を醜いと思っているカラスの話。ストークスの嘘は世界に対する防具だろう。虚勢を張らなければ生きられない。……嘘が嫌いなオオカミは、嘘だらけのカラスに呆れたか?」
ディーンの手がライカンスの肩を叩く。
「いや……いやだって、そんなん、仕方ないだろう。俺は、まだあいつのことよくは知らないし、お前から聞いた話だけじゃ何も言えないけどさ。……どうしようもないことってあるだろ、なあ。俺はさ、『嘘』って言葉にコンプレックスもってる自覚あるけど、どうしようもないことだってあるってことは理解してるつもりだし。本人の話聞かないと、わかんないけどさ」
「ほんとライはお人よしでまっすぐで最高だよ」
「褒められてるって思っていいのか?」
「褒めてるよ馬鹿。その馬鹿正直なところに、ストークスもほだされたんだろうよ」
「ほだされたのかなぁ……つか、ほだされてくれるといいよな」
レイをほだすためにはまず、彼を救出しなければならない。彼のもとに向かうライカンスは、同僚と元思い人の裏切りに心を痛めている余裕などない。一人で鬱々としても仕方がない。
起こってしまったものは、どうしようもない。過ぎてしまった時は取り戻せない。後悔ばかりをして悔やんだところで、現実は止まってはくれない。
たすけて、というか細い声が耳に蘇る。
ライカンスが知るレイは、決して誰かを頼るような人間には見えなかった。プライドと命を計りにかけたら死んだ方がマシだ、とでも言いそうだ。しかし彼は助けてと言った。
いざ乗り込んだ時に『どうして来たんだ』と言われたらどうしようか、などと馬鹿な事を考えていた自分を殴りたくなった。
たすけて、と彼は言った。
生きたいということだ。
誰に命乞いをしても、まだ死にたくないということだ。
裏切られた自分の事などどうでもいいのだ。レイ・ストークスを助けなければならない。最も苦手とする暗闇に放置されているだろう彼が、絶望してしまう前に。
どうにか気持ちを切り替えたライカンスが、ところで目的地はまだかとディーンに声をかけようとした時、揺れていた車がゆっくりと止まった。
「さあ、無駄話をしている間に魔王の城に到着だ。といっても、シーズン以外は放置されている別荘だ。暖房だってきちんとはいるものかわかったもんじゃない。さっさとストークスを回収しないと、真面目に凍死するかもしれない」
「あー……その、なんだ。FBIが突入するのか?」
「したいが人員がいないんだよ。明日はパレードに催し物にテロ予告に散々な騒ぎだ。だからお前のところに協力を要請したんだ。指揮はNYPDの分署長がとる。今は別部隊で家を取り囲んで待機中だ。夢物語の殺人ウイルスを持ってはいないことは確認されていても、銃を持っていないとは言えない。ライ、防弾服は?」
「言われてしこんできた。こんなものに袖を通すのはパレードの警備以来だ」
「よし。じゃあ頭を狙われない限りは死なないな。リサとその仲間達はNYPDの方で押さえる手はずだ。お前は、ストークスの保護を優先してくれ。おそらく精神状態が不安定になっていると考えられ――」
ディーンの言葉が終わるか否かというタイミングで、パンッ、と乾いた音が響く。
銃声だ。
聞き覚えのある発砲音に、思わずライカンスは身を低くした。街中であれば迷わずしゃがんでいたところだ。
ライカンスよりも早く動いたのはディーンだった。
素早く車から降りると、暗闇の中を音もなく走り出す。来い、と小さく耳打ちされたライカンスが慌ててその後を追う。ライカンスは特殊部隊ではない。ただの制服警官だ。警備や巡回が仕事であって、暗闇の中での突入など初めての体験だった。
ディーンに追いつくのは容易い。彼は足があまりよくない。怪我をして手術をしたが、術後が悪く結局全力で走ることが難しくなったのだ。その為、彼は警察官を辞めざるを得なかった。
自分の息だけが聞こえる。
外は寒い筈なのに、首回りがどうにも熱い。それなのに指先は冷え冷えとして感触がない。
パンパン、と、もう二発。銃声が響く。
目的の家らしき方向からほのかな灯りと、ガシャン、と食器が割れるような物音が響いた。
続いて悲鳴が聞こえる。
恐らく、女性のものだ。リサか、それとも、他にも誰かいるのだろうか。
「ディーン! 中で発砲だ! 突入を開始した!」
聞き覚えのある太い声がライカンスの耳に届き、それが顔見知りの隣の分署長だと気が付く。
駆け付けたディーンは息を乱しながらも、険しい顔の分署長に詰め寄った。
「発砲は誰が?」
「わからん。仲間割れか、人質がなにかしらアクションを起こしたか」
「ストークスが? 馬鹿な、盗聴器からは何も聞こえなかった。それに彼は拘束されていたはずだ。銃の出どころは、ドニーだとは思うが……あいつが発砲できるか?」
「一度だって撃ったことはないだろう。だが、銃は所有者でなくても撃てる。今のところ死人はいないようだが、中の様子の報告はまだ――」
「――ライカンス!」
唐突に聞こえたのは自分の名を叫ぶ声だ。
レイだ、と直感する。記憶の中のレイは、こんな風に叫ぶことなどなかったし、声を思い出せと言われてもそれほど会話をしたわけでもない。けれどライカンスはレイだと直感した。
声の主を探して振り向いたライカンスは、開け放たれた窓から転がり落ちようとする人影を捕らえた。
芋虫のように体をよじって蠢くのはやはりレイで、ライカンスより早く駆け寄った警官に一度は支えられたが、すぐにレイの方がもがいて暴れ始めた。両手は後ろ手に縛られていたが、足は自由のようだ。しかし一度立ち上がったはいいものの、警官の手を逃れるようにふらりと地面に倒れ込んでしまう。
「レイ……!」
思わず声を上げて駆け寄る間にライカンスを見つけたレイは、ハッと顔を上げる。
恐怖に満ちた顔だった。それが、一瞬ゆるみ、息を吸いこんだのがわかる。
泣くのではないかと思った。しかしライカンスが駆け寄りしっかりと抱きしめても、レイは泣かなかったし叫びもしなかった。小刻みに震える身体は冷たく痛々しい。寒さからくる震えなのか、精神的な怯えなのか、ライカンスには判断がつかないが、それでも今抱きしめるべきだということだけはわかった。
先ほどレイに邪険にされた警官が、彼の拘束された腕を解いてくれた。
自由になったレイの両腕は、震えながらもすぐにライカンスをきつく抱きしめ返した。
「無事か? 怪我は? ない? どっか折れてたりとか、痛いとか、おかしなとこは? ない? 生きてる? なあ、俺が誰かはわかるよな、ええと……自分が誰かとか、ちゃんとわかる、よな?」
何が起こっているのかさっぱり把握できていないライカンスは、挙動不審に言葉を連ねることしかできない。全部触ってけがはないかと確認すべきなのに、どうしても抱きしめる手をほどけない。冷たい体を離してはなるものか、と思ってしまう。
「……あんたはオオカミで、おれはカラスだってことくらいは、一応まだ、わかってるよ……もうちょっとで、本気で発狂するとこだったよ馬鹿……暗いの、だめなんだ。虫が、暗闇に湧いて、そのうちに皮膚の上を這うだけじゃなくって、だんだん皮膚の下に、潜り込んでくるんだ……妄想だって、わかってるけど、身体の上を這いまわる感触が消えなくて。…………遅い、馬鹿」
「馬鹿って今日何度言われたかな。いやでも、俺がどんだけ馬鹿でも、レイが無事でよかった。颯爽と助けに行く前でまったく格好良くないけどさ」
「……格好いいなんて一度も思ったことないよ馬鹿。一度も思ったことないけど、助けてって思った時に、アンタの顔しか思い浮かばなかったんだ。格好いいなんて、思ったことないけど、アンタにまだ言いたいことあるし、死にたくないし、死ぬのは嫌だし、あーもう、まだ暗い怖い嫌だ……リサは? 死んだ? 生きてる?」
「知らない。今から確認する。つかレイ、わりと喋るんだな? それが素? それともパニックしてるだけか?」
「…………だらだらと声を漏らすのは嫌いじゃない方だとは思うけどおれのおしゃべりは根暗でうるさいだけだから外やら仕事では自重してるんだよ数日間の恋も醒める?」
「まさか。たくさん喋るレイもかわいいってびっくりしてんだよ」
レイが飛び出して来た家から彼を抱きかかえるように遠ざけつつ、誰にも聞こえないようにライカンスは囁いた。パニックしている事件現場で言うことではない、という理性がぎりぎり働いた結果だ。自分が警官でなければ、映画のワンシーンのように熱く彼の生還をよろこび愛を語っていただろうが。
ようやく他の警官が待機している場所まで戻ると、急に喧騒が戻ってきたような気がした。
気が付けば、大変な騒ぎになっていた。
知らぬ間に救急隊が駆け付け、担架が運び込まれる。発砲があったことを思い出し、けが人が出た事をライカンスはこの時にようやく知った。それがレイではなかったことに、非情ながら安堵の息を吐く。
疲れた顔のディーンが現場の指揮を執る年配の男たちに紛れていたが、ライカンスと目が合うとこっちはいいからと手を振られた。
確かに、これは刑事か連邦警察の事件だ。ライカンスに手伝える事などほとんどないのだろう。
応援で駆け付けたパトカーの禍々しい灯りを眺める位置にベンチを見つけ、救急隊から拝借してきた毛布を巻き付けてやる。冷たいレイの身体は相変わらずだったが、パトカーの明かりでどうにか震えは止まったようだった。
何があったのか、というライカンスの問いかけにレイは首を振るばかりだった。
「……わっかんない。最初は息をするのが精いっぱいだった。何かが破裂するような音で正気に戻った。銃声だったんでしょ、アレ。おれは銃声なんて、そうそう聞かないけど、たぶんそうだと思った。なんか、誰かが叫んでた。喧嘩してんのかって思ったら今だろって思って……」
「それで窓から? 足は拘束されてなかったのか?」
「馬鹿は馬鹿だからブーツの上から縄で縛ってたんだよ。だからブーツを脱いできた。窓はおれが体当たりしたら外の誰かが開けてくれた。たぶん、突入見計らってた人達かな」
言われてみれば、レイは靴を履いていない。移動させる時には背負うことを決め、ライカンスは冷たくなった彼の手を握った。
「すげえなしかし。よく、自分でどうにかしようって思ったもんだよ」
「――銃声が聞こえた時、誰かが押し入ってくるのがわかった。警官だ、と思った。おれのパソコンの暗号を解読したんだって、そう思った。そしたら、あんたが居る筈だろ? なんか、そう思ったら、虫なんかどうでもいいから早く外に出ないとって、思って」
「……あー。なんかちょっと、いや……嬉しいな。むずむずする。喜んでいい台詞だよな?」
「………………誰かにあんなに会いたいと思ったの、生まれて初めてかもしれない」
きゅっと、毛布の下で絡んだレイの手に力が入った。それが可愛くて仕方なく、ライカンスは照れを誤魔化す為に何度か咳払いをする羽目になった。
この場で口説いてしまいそうになるのをぐっとこらえる。自分の職場ではないにしろ、同僚たちと友人に囲まれている。ライカンスは嘘が嫌いだが、場をわきまえない人間も好きではなかった。
二人きりになったら言うべき台詞を胸に止め、毛布の下だけでつないだ手に力を入れた。
「死ななくて良かった」
ぽつりと、レイが零す。
全くその通りだと、ライカンスは息を吐いた。
死ななくて良かった。
助かってよかった。
ライカンスが彼を助けることができたのかどうかは、正直微妙なところではあるが。
もう一度、死ななくて良かったと呟くレイの手は、やっと少し温まったかのように思えた。
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