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いつもとは違う靴の音だった。
カリーナはいつもハイヒールの音を異様に響かせて歩く。その音が耳障りで仕方なくても、反論する為に口を開くことはしたくなかった。
リサ・ソーウェルは何も話さなかった。このままでは陪審員に悪い印象しか与えないとカリーナに説得されても、どうでもいい事だった。
どうせ減刑はされないだろう。ニュースもろくに目を通さないリサには、テレビドラマの中の裁判のイメージしかなかったが、画面の中の陪審員たちは酷く偏見的で頭の悪い正義感に溢れていた。あんな人たちに何を訴えても、他人を巻き込んで心中しようとした暗い女の言葉など届く筈もない。届ける気もない。
面会の為の部屋に近づいてくるのは、男性のようだった。ヒールの音ではなく、革靴の音のようだ。
またあの化粧の濃い女弁護士の声をひたすら聴くだけの退屈で苦痛な時間が訪れるのだ、と覚悟して座っていたものだから、目の前に現れた金髪の男性を思わず凝視してしまった。
さっぱりと整えられた短いブロンドは、清潔で健康的に見える。カリーナは見るからにキャリアの弁護士と言った風体だが、ガラス越しに腰を下ろした男性はまるでブティックの販売員のように朗らかな笑顔を浮かべていた。
もしくは、街を巡回する警察官だ。
そっちの方が正解かもしれない。全体的に細身だが、瞳の奥に落ち着いた貫禄のようなものが見える。リサが働いていた店にはよくミッドタウンを巡回するNYPDが昼食を摂りに来た。
固いだけのベーグルと薄い珈琲を、彼らは文句もなく平らげた。自分なら絶対にこんな店のベーグルは食べないのに、と不思議に思いながら、リサは薄い珈琲のおかわりを注いだ思い出を反芻した。
ぼんやりと視線を上げたままのリサに対し、金髪の男はふと笑顔を深くした。
「やあ、初めましてかなソーウェルさん。俺はディーン・フロックハート元巡査だ」
「元巡査……」
「そう、元巡査で元オオカミ男の同僚で、今はNYPDじゃない捜査機関で働いているただのしがない捜査員で某機関では主にキミの事件に関して捜査を担当していた。といっても、大したことはしてないんだがね。なんといっても、キミが大したことをしていない。……筈だったんだ、レイモンド・ストークスが無事に発見された時までは」
「……カリーナの代わりがあなた?」
「今日だけね。なんといってもキミは黙秘を続けている。いくらミランダ警告があるとはいえ、それは警察側に対するキミの権利であって弁護士にまで黙秘を続けることはないだろう。一体あの時……ストークスが保護された時、中で何があったんだい」
「…………」
「と言っても、俺は警察側だしな……まあ、キミが素直に口を開くとは思っていないさ」
降参した、というように金髪の男は両手を上げてみせた。ひどく道化的な仕草で、それでいて嫌味ではない。
彼はとても異性にもてることだろう、とリサは思う。
「あなた、恋人はいる?」
ぽつり、と呟いたリサの言葉に、男は片眉を器用に上げた。
「恋人はいない。だが奥さんはいるよ」
「愛しているんでしょう」
「まあそうだね。かなり円満だ。子供には恵まれていないが、今のところ特別な不満はない。幸福な男はキミのタイプじゃない?」
「……そうですね。好きじゃないです。幸福な人は、怖いから。自分の事しか考えないから。周りを、見ない。ちっぽけな不幸を背負っている人達がいるという自覚がない。同じ世界で息をしているとは思えないから」
「だから不幸な奴と寄り添って世界と心中しちまおうって? それは随分と横暴で自分勝手な動機じゃないか? まぁ、何を考えてどうしたかなんていうキミの心情なんてものは俺が聞いたところでどうしようもない。陪審員の心象をよくする対策はぜひ弁護士としてくれ。俺が聞きたいのは『なぜブライス・ライトは射殺されたのか』だ」
「…………」
鼓膜を引き裂くような銃声を思い出した。
音はとても軽いのに、空気がひどく重い。パン、という軽い音が聞こえた筈なのに、心臓までドンと押されたような圧迫感を覚えた。
ブライス・ライトは舌を出して荒い呼吸を繰り返していた。
気が付いたら床が尿と血で濡れていた。リサは自分が失禁していたことにも気が付かず、壁にもたれてその様を眺めていた。そこからの記憶はあやふやだ。いや、それ以前も正直あやふやだった。
ぼんやりとした膜が貼ったような人生は、ずっとあやふやで、一度みんなで死のうと思った時も、大した勇気を振り絞ったわけではなかった。
皆で死のう。一人は嫌だ。でも、負け犬だけで死んでも、結局負けた事になる。巻き込んで死のう。そうすればきっと、勝ち負けも関係なくなる。自分が死んで、ざまあみろという人間はいない。だって皆死ぬのだから。
そう思いついた時も、それを実行するために男たちと接触している時も、リサは酷くぼんやりとしていた。朝起きて朝食を食べて出勤することと同じような気軽さで、リサは目についた不幸そうな男たちに声をかけた。
不幸は人の影をどんよりと濃くした。死ぬほどではないけれど、生きているのも面倒だ、という人間は酷く怠惰な雰囲気で薄い珈琲を飲んでいた。すぐにわかる。負け犬は、負け犬を見つけるのがうまいのだということを、リサは知った。
一緒に死ぬついでに、他人を殺しませんか。
そう持ちかけると、男たちは大概は生き返ったように身を乗り出して応と答えた。半分はリサに対する虚勢だったのかもしれない。しかし計画が徐々に現実味をおびてくると、男たちは段々とまた死んだような影のある人間に戻って行った。
死ぬのが怖いのだ。
リサも怖い。だから、他人を巻き込もうと思ったのだから。
けれど同時に死ねるのならば、どうでもいいではないか。せーので世界がなくなるなら、何も怖くなどないだろう。勿論地球一つを爆破などできない。だからほんの少し、自分の周りの人を巻き込んで死のうと思った。
学者崩れの男が用意した生物兵器は、結局リサが求めるものではなかったということを、カリーナに言われて初めて知った。
結局細菌を撒く前だったのだから、成功とか失敗とかはどうでもいいことだった。
計画を実行する前に、リサは裏切られたのだから。
「何があったんだ、ソーウェル。キミたちは一体、ブライスに何をしたんだ」
「…………何もしていません」
「それならなぜ彼は射殺された」
「知りません。射殺した人に聞いてください」
「ドナルド・フェニックスは黙秘を続けている。その上昨日拘置所で自殺を図った。今は精神鑑定を受けているよ、とてもまっとうに受け答えができる状態じゃない。……ドニーは真面目なんだ、あれでも。奥さんとうまくいっていないことは薄々気が付いていたけど、まさかキミの誘いに乗って心中をする程だとは思っていなかった」
「私は何も知らない」
「……そうか。それがキミの答えなら、まあ、いいさ。俺がこれ以上何を言ったところでキミは、知らないという言葉を繰り返すだけだろう。実際に発砲したのはドナルド・フェニックスだ。キミは死刑になることはないし、終身刑だって怪しいだろうしな。だが、それじゃあおれがおもしろくない」
「――――え?」
リサは伏せていた顔を上げた。それは、自分の耳がおかしくなったと思ったからだ。
確かに今、ディーンと名乗った男が喋っていた筈だ。それなのに、最後の一言だけ声のトーンが下がった。
口調が変わった、というのではない。
明らかに別の人間の声になったのだ。それも、どこかで聞き覚えがあるような、嫌な、低い声だ。
「わかんない? あー、あー……あー、ひっさしぶりにやったけど、人の物まねなんて面倒くさいことはするもんじゃないね。アンタがコイツに会ったことがあるなら、すぐに違和感に気が付いたかもね。ディーン・フロックハートは確かに金髪の好青年ではあるが、こんなに薄っぺらい身体じゃないし、もっと瞳は明るいブルーだ。残念ながら市販のカラコンじゃ、このくらいのブルーが限界」
「…………うそ、だって、そんな」
「怪盗よろしくウィッグを脱ぎ捨てて種明かしできたらかっこいいけど、監視カメラは買収できなかったんだ。まあでも、声でわかれよ。わかるだろ? 自分が唯一殺しかけた男の声くらい、覚えておけよ」
リサは声を出すことができなかった。
ひゅっと息を飲み、その喉の奥で震えるように名前まで飲み込んだ。
レイモンド・ストークス。
一度目を閉じた金髪の男は、次に目を開ける時にはただの金髪のウィッグを被ったレイヴンになっていた。
無表情で、無気力で、青い顔の虚飾のカラス。着飾り何にでもなる事が出来る、嘘だらけのカラス。
それは、リサがなんとなく殺そうとした大衆とは別に、唯一、意思を持って誘拐し監禁し実害を与えた確固たる被害者だった。
なんで、という言葉は口から出なかった。しかしそれを無言で読み取ったレイヴンは、冷たい視線を投げかけながらどうでもいいように口を開く。彼は、吐き捨てるように言葉を選ぶ。
「流石にレイモンド・ストークスの顔だとここまでは入れてくれないんだよ。アンタは加害者で、おれは被害者だから、そりゃ当たり前だ。別に言い残した事なんかないけど、このままぼんやり刑が決まってぼんやり女囚になるなんてさ、なんか、つまんないじゃん。……そんなの、今までのアンタの不幸と変わんないじゃん?」
ほんの少し首を傾げる。しかしその仕草に、コケティッシュな雰囲気は微塵もない。
「……復讐をしに、来たのですか」
震える息をどうにか声にしたリサに対し、レイヴンはうっすらと笑うことすらせずに息を吐いた。
「復讐っていえばそうかな。告解かも。……あの時、ブレイスをそそのかしてアンタを襲わせたの、たぶんおれだから」
「………………何を、言って」
「そのままの意味。息も絶え絶えのおれをレイプしようとしたんだよ、あの男。残念ながらおれはそこまで男くさくないし、アンタたちはおれの事も調べたらしいから、そもそもそっち側の人間だっていう先入観もあったんだろうね。死ぬ前に童貞捨てたかったんじゃない? こっちとしては、死ぬ前に強姦されるなんて御免だから、しおらしく泣きながらブレイスの話を聞いてやったんだ。一度も女と寝た事がない。モテたことない人生で、ずっと馬鹿にされてて、リサに声をかけられた時女神に会ったと思ったって。本当はアンタと恋人になりたいんだって。まあ、あの冴えない不幸集団は、結局はアンタ目当ての寄せ集めだったんだから、そりゃそうなるだろ。アンタは新興宗教の教祖様になった気持ちだったかもしれないけど、結局はただの女と男の集団だった」
だからレイヴンは言った。
明日死ぬんだから、好きな事をしたらいいじゃないかと。
どうせ死ぬ。リサも死ぬ。みんな死ぬ。捕まることもない。罪もなくなる。リサも自分も死ぬのなら、嫌われたっていいじゃないか。最後の夜に快感を求めて何が悪いのか。
人と交流をしてこなかった醜い男は、レイヴンの言葉を必要以上に飲み込んだ。
都合のいい言葉に弱い人間だった。だから言い訳ばかりをして働かず、言い訳ばかりをして楽な死に方を選んだ。それなのに欲が捨てられなかったブレイスは、レイヴンの言葉に従いリサを襲った。
誰がどう動いたのか、直接レイヴンは知らない。
しかしブレイスは一人で無茶をしたわけではなかったようだ。発砲されたブレイスは即死だった。撃ったのはドニーだった。ブレイスの他に、皆それぞれ怪我をしていた。
「ドナルド以外の男がアンタに襲い掛かったんじゃない? それを助けてくれたのはドナルドと、そして突入した警官だ」
「……あなたが、……あなたが、みんなを」
「唆したのはおれだよ。殺したのはおれじゃないけど、実際にきっかけを作ったとは思っている。けど、やってなきゃおれはレイプされて殺されてた。縛られて転がされて、言葉以外の何を使って反撃したら良かった?」
「あなたが…………みんなを」
「褒められた性格じゃなし胸張れる人生じゃないし、人生の底辺で屑だと思ってたよ。そんで今は、過去最高に嫌な気分だ。目を閉じると、暗くなくても吐きそうになる。最悪だ。……アンタもおれも屑だよ。屑は屑らしく、下から人様眺めてたらよかったんだ。勝手に死ねばよかったんだ。他人の幸福が妬ましいなんてありきたりな感情に振り回されんなよ屑。そんなん当たり前だろ。妬ましいから全員一緒に死にましょうとか寝ぼけた事言ってんじゃないよ馬鹿かよ。……死ぬなら勝手に死ね。勝手に他人を幸福だって妬んで巻き込むな」
「あなたが……」
「ブレイスを殺した。そしてアンタも、ブレイスを殺したんだ」
忘れんな屑、と吐き捨て、レイヴンはリサの顔も見ずに席を立った。
残されたのは、茫然とガラスを見つめる女だけだった。女はただひたすら、『あなたが、』と繰り返していた。その椅子から立ち上がるまで、そして、立ち上がってからも。
カツカツと、革靴の音は廊下を進み、そして何重かの扉を通り抜けて彼は難なく外に出た。
そのまま監視カメラから身を隠せる場所までまっすぐに歩く。大通りに抜ける前の路地裏でうざったいウィッグを取り、レイヴンは煙草を取り出してから少し考え、それをしまった。
「禁煙したの?」
ひょい、と目の前に差し出されたのはジェリービーンズの袋だった。
思わず一歩引いてから、大通りから顔をのぞかせる男を捉えて息を吐く。安堵のような、ため息だった。
「……フレダーと外で会うなんて初めてじゃない? 嫌な確率。人口密集地で知人に会うなんて最悪だよ」
「ひっどいなぁ相変わらずっていうかなんていうか久しぶりなんだから喜べーよー」
「うっさいよ。どうせ偶然じゃないんだろアンタの嫌なとこは唯一おれより仕事ができるとこなんだよ」
「わお。なにそれカラス流のリップサービス? なんだよルースターサーチやめて丸くなっちゃった?」
「丸いも四角もない。おれはおれ。アンタはアンタ。あとルースターサーチは正確にはやめてないバックレてるだけ」
「半月も連絡つかなかったら除籍デショー。チーフ様カンカンでしたよそんでレイヴンは機密情報盗んで逃げたんじゃないかってスパイ疑惑で元お部屋も違法捜索よ。まーまー綺麗に引っ越しちゃったあとだったけど」
「スパイはおれじゃなくてアンタじゃん」
さらり、と言葉を零したレイヴンに対し、ジェリービーンズの袋を抱えたフレダーは二秒程固まった。
それは本当に予想外の言葉だったらしく、随分と舐められたものだとレイヴンを苦笑させた。
「気づいてないって思ってたのかよバーカそりゃ最初は気づかなかったけどアンタ足引きずるから歩いてるの見りゃわかるんだよバーカおれがライカンスの家の監視カメラしか見てないと思って気ぃ抜いてただろ。たまには外のカメラ眺めたくなんだよ」
「……街の監視カメラハッキングは流石にやばいと思うけどなぁー……えーちゃんと接触しないように気ぃつけてたんだけど。なんだよバレてたんなら早く言えよ。この喋り方ちょっと恥ずかしいんだぞ」
「知らないっつの。自分で勝手に作ったキャラじゃん。そっちが素でもいいんじゃないの? べつにおれは、あんたがフレダーでも、ディーン・ロックハートでもどっちでもかまわないけどね」
「……くっやしー絶対バレてないと思ってたのによ」
「足引きずらないようにリハビリがんばれば?」
「これ以上やると医者に怒られんだよ。筋肉つきすぎてもだめなんだってな、こういうの。それでも動いてるからマシだしありがたい。そんで、ソーウェルはどうだった?」
「どうもこうもクソだったからそのままクソだなって言ってきただけ。別に、何もないし何も進展してないしたぶん裁判とかに影響もないんじゃないの? ただのおれの腹いせだから」
「オオカミ男を傷つけた腹いせ?」
「うるっさいっつってんじゃんにやにやすんのやめろうざい」
苛立ったレイヴンは男の足を踏もうとしたが、軽やかに避けられてしまう。足に大けがを負い現役警官を引退したとは思えない、軽やかな身のこなしだった。
「元気で安心してんだよ。急に半月も行方くらましやがるからわりと心配したんだよこれでもな。仕事ついでの同僚だったけど、結構気に入ってたんだからなお前の事。折角楽しいスパイ生活だったのに、新しいルームメイトは始終うるさくて散々だ。さっさと目的の情報ゲットしてさっさとFBIに帰りたいよ」
「……まだスパイ続けてんの?」
「俺の仕事は別に、ソーウェルの陰謀の阻止が目的だったわけじゃないからな。別件でルースターサーチの資料が必要だっただけで、たまたま仕事中にお前が調べてたソーウェルが気になって調べてみたらやばかったっていう、それだけの話だよ。あと半月もすれば任務完了――おい、半月って言えばお前、ライカンスに連絡してやれよ」
唐突に出た名前に、レイヴンはびくりと身体を揺らした。少しだけ息を飲み、そして視線を泳がせてから囁くような心細さで言葉を絞り出す。
「呆れてない?」
「ばっか、死ぬほど心配してるんだぞアイツ。事件の翌日に急にいなくなってて、部屋に行ってももぬけの殻とか、呆れる云々の前に意味わかんないだろ。慰めて励ましてどうにか生かしてる状態なんだから、ケリついたなら早く顔見せてやれ」
「それ、ディーンとしての警告? フレダーとしての助言?」
「どっちもだよ馬鹿野郎。たまには生ぬるい友愛ってやつを受け取ってみろ」
そんで恋人の愛情を確かめろ、などと言われてしまい、レイヴンはどういう顔をしていいかわからなくなった。
リセットするの、とリサは言った。
彼女が取った行動は馬鹿馬鹿しいものでどうしようもない大量殺人計画であったが、リセットという言葉はレイヴンの中に残った。
リセットできるとは思わない。何もかもが底辺の自分に、今さら真っ当な人生が歩めるとは思わない。それでも、まとわりついた汚れをできるだけ落とすことくらいはできるかもしれない。
ぼんやり生きてひっそり死ぬのだろうと思う。ただ、隣に立つ人にまで、自分の泥のせいで汚れてほしくはない。手を繋ぐ時に、一々汚れをふき取るような真似をするのが、ひどく面倒になったのだ。
ルースターサーチの仕事に戻るつもりはない。虫の巣のようなアパートは引き払った。今は安いホテル暮らしだが、適当なアパートを見つけるつもりだ。
住居を変えたからと言って生まれ変わるわけではない。それでも、今まで同じ場所でしか生きてこなかったレイヴンにとって、それは何もかもが再構築されるような不思議な感覚だった。
慣れないことばかりで、おかげさまでまったく寝れない。隈は酷くなる一方だし、食欲もない。ろくなものを食べていないせいか胃が痛む。その上久しぶりに変装なんていう力を使うことをしてしまった。恐らくディーンに頼み込めばなんとでもなっただろうが、ディーンの前でリサを罵倒するわけにはいかない。
言いたいことはまだあったような気がする。
けれど、今言えたのはアレだけだ。それでいいと思った。
またな、とディーンは手をあげた。
また会う気などなくても、どうせ勝手に押しかけてくるのだと思ったので、仕方なく手をあげ返した。
ジェリービーンズを噛みながら、レイヴンは雑踏をかいくぐる。人ばかりで嫌になる。笑い声と怒鳴り声が聞こえる。幸福と不幸が混じり合い、こういうのを混沌というのかと思った。
リサにはどんな世界が見えていたのだろう。誰も彼もが幸福に見えたのだろうか。こんなに、混沌としている悪夢のような街なのに。誰も彼もが、そんな簡単な人生ばかり歩んでいるわけではないのに。
足を止めてはいけないと思った。
そんなことをしたら、一瞬で帰りたくなる。さすがにここで帰ってしまったらもう一生自分は同じ道を歩くことはしない、と思った。だからレイヴンはなるべく雑踏に気を取られるように無理矢理に意識を集中させないように、速足で一気に、そのアパートの部屋の前に向かった。
迷ってはダメだ。
一瞬でも迷ってはダメだ。
三回ノックをして、その扉が開くまでの間にやっと後悔して、一刻も早く背を向けて走り出したい気持ちをこらえる為に息を止めた。
そして慌てたように扉を開けた向こうの男も、同じように息を止めたようだった。
「―――レイ」
ライカンスの端整な顔が、驚愕に染まり、次の瞬間強引に扉の中に引き込まれて抱きしめられ、ついにレイヴンは帰るチャンスを、彼に会わないという選択肢を潰すことに成功した。
もう恐らく逃げられない。ここまで来たら、逃がしてくれるはずがない。
それは恐ろしく、そして、初めて感じるむず痒いような幸福に似た感情だった。
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