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雑踏の中で見つけた時に、どうやって声をかけるべきか、というシミュレーションは何度かやっていたのに、自ら彼が訪ねて来た場合を全く想像していなかった。
第三シフト明けで朝方眠りにつき、目を覚ましたのはつい先ほどだ。
今日も何もなかった。大したことはない。いつも通りのパトロールに、少々手荒な万引き犯をおいかけたくらいで、誰も怪我をしなかったし、誰も死ななかった。ぎっくり腰の休養から復活した相棒のリックも、いつも通りライカンスを気遣いサポートしてくれた。
いつも世話になってばかりの年上の相棒は、この半月は特に気を使ってくれている。
ライカンスがひどく落ち込んでいるのは、元相棒が犯罪者として捕まった事が原因だと考えているようだ。勿論、それもある。誰も彼もが嘘をついていた。その事実は、ライカンスを打ちのめすには十分だ。
それでも事件の翌日から通常通り勤務シフトに戻ることができたのは、裏切られ逮捕された友人たちの中で唯一、レイだけは助け出せたからだというのに。
一応とのことで病院に搬送されたレイは、翌日のシフト明けにライカンスが見舞いに訪れた時にはすでに退院し、携帯電話も繋がらなかった。
嫌な予感がした。
そしてそれは的中した。
レイはそれっきり、ライカンスの前から姿を消した。
休みの度に、勤務がある日ですら時間を見つけてはレイを探し回ったが、探偵でも調査員でもないライカンスにはできることなど限られている。結局聞き込みまがいの調査では彼が異様に外に出なかった事と人付き合いが悪かった事くらしかわからず、結局毎日何の進展もなくただ自室に帰ってきては肩を落とす毎日だった。
今日も明日も、また何事もない毎日が続くのだろう。レイを探す日常に、ライカンスは慣れ始めていた。
だから、ドアをノックした男がレイだなんて思いもしなかったし、本人の顔を見ても何が起こっているのか理解できるまでに時間がかかった。
そこに立っていたのはレイ・ストークスだった。
何を言おうか。何を話そうか。どうして居なくなったのか問い詰めるのは後でもいい。まずは伝え損ねた事を言うべきだ。その後で、レイの気持ちや彼の人生を聞く権利があればありがたい。
そう思っていた筈なのに、細い身体を抱きしめたライカンスは何も言うことができなくなった。
歯が浮くようなセリフも考えていたのに。
映画のようなセリフも考えていたのに。
「……ほっそ。……ちゃんと食ってんのかよ」
結局ライカンスの口から零れたのはどうでもいいようないつも通りの言葉だった。
その言葉に、腕の中で窮屈そうにしていたレイは身じろいだ。どうやら、顔を上げたらしい。
「食べてるって言いたいけど残念ながら固形のもの食った記憶が曖昧。たぶん三日前にオイルサーディン食ったと思う。あと缶詰の豆」
「素材じゃんかよ……それ料理じゃなくて素材っつーんだよ、ジャンクフード感覚で食うもんじゃないだろせめてジャンクフード食えよ馬鹿痩せて死ぬだろ馬鹿」
「死なない程度にカロリーブロック食ってたってば……別に、野宿してたわけじゃないし、普通に生きてたから、あー……その、落ち着いて。なんていうか……ごめん」
「あ。あー。そっか。俺、謝ってもらえる立場、で、合ってるんだ?」
「……合ってるよ馬鹿」
もう一度ごめんと言って、なされるがままだったレイはライカンスの背中に腕を回して抱きしめた。
勝手に居なくなってごめん、という意味の謝罪であるとライカンスは解釈した。つまりは、勝手に居なくなられては困ると思っている事はレイに伝わっているし、レイも一言もなく姿を消したことを悪いと思っているということだ。
他人の事をあんなに必死になって追いかけたのは初めてだった。
正直こんちくしょう、と思った日がなくはなかった。けれど、そんなものは一瞬でどうでもよくなった。
甘いなぁと自分でも思う。
ディーンあたりにバレたら、もうちょっと怒れと言われそうだ。
思う存分抱きしめ、しぶしぶながら体を離したライカンスは、それでも離れがたくレイの頬を撫でた。
至近距離で見るレイは、やはり顔色が悪い。最後に見たのは監禁され病院に搬送される時だったから、比べるのもどうかと思うが、その時よりも青白く見える顔は血の気がなく、吸血鬼だと自己紹介されても信じてしまいそうな程だった。
頬も心なしか冷たい。
少しかさついた肌を撫でる手を取られ、引っ張られ、気が付けばライカンスはレイと唇を重ねていた。
口の中もやはり冷たい。ふわりと香るのは、何か甘いフルーツ系の菓子の匂いかもしれない。
「…………ん、…………なんか、甘……?」
「あー……ジェリービーンズ、かな。ライカンス」
「ん? 何……」
「ちょっと、右手、ごめん」
捕まれた右手にじゃらり、とした輪っかのようなものが付けられた。ライカンスがあっけに取られているうちに、レイは同じように自分の左手にそれを取り付ける。ガシャン、と、不穏な音を響かせて二人の腕を繋いだのは、手錠だった。
それが玩具の手錠だということは、ライカンスにはすぐに分かった。しかしつくりは割合頑丈そうで、プラスチックの重みではない。どう見ても金属だ。
思わず自分の腕に嵌った輪っかを引っ張ってみるも、見事にびくともしない。感動の再開どころではない。一体何が起こっているのか、と柄にもなくパニックになるライカンスの目の前で、唇を雑にぬぐったレイは眉を下げて視線を逸らした。
「……別に、犯罪に巻き込もうとか、そういうんじゃないから。ただ、ちょっと、おれが逃げらんないようにしないと、あんた押しのけて走って出ていきたくなるかもしんないし」
「え。え? そんな、なんか、やばい話とか、するのか?」
「やばくはないけど恥ずかしい。とりあえず座ってもいい?」
「あー。うん。つか俺もこんな玄関先で感極まって悪い、えーと、あんま綺麗じゃないけどって、まあ、知ってるか。ずっと見てたんだもんな」
「……今はもう監視してないよ」
「あ、そうなのか? あーいや、そういうつもる話をするのにまず座ろうかっていう話なんだよな……珈琲……は、あとで、いいか」
落ち着く為に珈琲を淹れたかったが、右手が塞がってしまったのでどうしようもない。
仕方なく何も持たずに二人でベッドに腰掛け、ライカンスはようやく深呼吸をすることができた。
息を吸って吐いたところで、何が起こっているのかはよくわからなかったが、それでも少しは落ち着いてくる。
緊張した面持ちで隣に座り、手錠のチェーンを弄んでいるレイを見ると、もう些細なことはどうでもいいと思えてくる。
レイのいない半月間が、ライカンスには随分と堪えたようだった。
「……どっから話したらいいんだろ。おれさ、あんまり他人とこういう……真剣に向かい合って話すことってなくて、なんていうか、あー……」
「まあ、そうだろうな。じゃあ、俺が質問することに答えたらいいんじゃない?」
気まずそうに鎖を弄るレイの手を、繋がれた手で握り込み、ライカンスはレイに寄り添った。自分からキスをしてきたのだから、嫌がられはしないだろうと踏んでの事だったが、レイは一瞬身体を固くしただけでライカンスを振り払うことはなかった。
「つっても、なんか、俺も何から訊いたらいいのかって感じだな……。なあ、絶対痩せただろ。こんな指細かった?」
「元々太ってた方じゃないからこんなもんだってば。他に訊く事無いの?」
「だって、なんつーかさ、結局今さら、事件の事とか聞いてもどうしようもないし。お前の過去とか人生とか仕事とかそういうのも、気にならないこともないけど、そんなん後でもいいかなって思うし。あ、今どこに住んでんだ?」
「……ホテル。前のアパートは引き払ったし、PCとかも大概処分した。今はノートパソコン一台暮らし」
「それ、不便じゃないのか? 言い方あれだけど、依存症みたいなもんなんだろ?」
「不便って言えば不便だけど。身軽になって、ちょっと楽になったような感じはする、かな。全部、一回、捨てちゃおうって思ったから」
「全部?」
「……全部。さすがにおれの人生まで捨てらんないけど。でもさ、まとわりついた泥くらいはぬぐって綺麗にしとかなきゃ、アンタの手握れないじゃん。……警察官の隣に居るのが怪しいハッカーとか、やばいでしょ?」
「…………まあ。そら、まっとうな仕事してもらってた方が、俺も、安心だけど」
ルースターサーチが少々、とは言えないくらいにかなり怪しい会社だということは、この半月で調べつくして承知している。
レイが何を生業としていても、ライカンス個人は構わないが、せめて犯罪とは無縁な場所にいてくれないと困る。ライカンスは犯罪を見逃すわけにはいかない。その手でレイを検挙するなどという事があっては困る。
「仕事辞めたのか。次のあてはあんの?」
「……まあ、生きてりゃ、なんでもできるだろ。不器用じゃないだろうけど性格がいいわけでもないし、顔も背格好も普通だし、愛想いいわけでもないけど、ホームレスになる程じゃないとは思うし」
「愛想はおいとくとしてもレイは器用だし美人だろ。笑えばもっとかわいいのになってわりといつも思って、」
「ほらもう、だから繋いだんだよ馬鹿すぐ口説こうとすんな馬鹿」
「……帰りたいってこと?」
「帰んないよ。帰んないって決めたからこんな玩具使ってまでアンタの隣に座って喋ってんの」
何度馬鹿と言われても、ライカンスは腹など立てない。
ただただ、照れた様子で罵倒するレイが愛おしくて何度も抱きしめそうになるのをこらえる事で精いっぱいだった。
「仕事は、えーとまあどうにかする。他に質問は?」
「あー……レイの、叔父さんの事とか。ちょっとだけ気になるけど、まあ、いつかでいいや。半月間何してたんだ?」
「リセット。アンタの隣に居てまずくないように、やばそうな嘘を全部、まっさらにするために、置いてきた。……着飾るもんなんてたいしてなかったけど。今は、正真正銘、嘘ひとつない、ただのおれだよ。レイモンド・ストークス。……レイヴンって名前は結構気にいってるから、これからもこの名前だけは使いたいけど」
「俺もかっこいいと思うよレイヴン。いいんじゃない? 俺の名前だって本当はクライヴだけど、誰もそんな名前で呼ばない。それは嘘じゃなくてただのあだ名だ」
「……つか、アンタこそ、いいのかよおれ、結構まともじゃないし、これからもまともになれるとは、限らないし。半月も勝手に姿くらますような奴だし。男だし。かわいくないし。たぶんうざいし。きっと面倒だし。大体毎日気持ち悪いしよく吐くし食えないものばっかだし、あーなんか……しんどくなってきた帰りたい……」
「コンプレックスばっかでかわいいってことしかわかんなかった」
「目も耳も腐ってんな……いいの? アンタが好きになったのは、ちょっと奥手で引っ込み思案なレイ・ストークスであってさ、口の悪いカラスじゃないんじゃないの?」
「あー……どうなんだろうな。確かに随分キャラ違うけど、これはこれでアリっていうか俺たぶんお前の声好きだから、もりもり喋ってくれるの聞いてるの楽しいし、基本的にだらっと話聞いてんのは楽しいし、あとわりとずっとかんわいいなーと思って聞けるからたぶんマジで色々腐ってるっていうか駄目なんだろうな、これ」
レイが好きでダメになってる、と言ったのは本心なのに、当のレイは今にも腰を浮かしそうな程動揺して固まってしまっていた。
こういうところがかわいいのだけれど、これ以上言うと本当に逃げ出してしまいそうだ。
何がきっかけだったのか、ライカンスにも最早わからない。
分からないが、落ちてしまったものはどうしようもない。這い上がろうという意思などとうにない。仕事はきちんとこなしている。私生活もまあまあ、怠惰というわけでもないはずだ。恋人に溺れるくらいは許されてもいいだろうと勝手に言い訳をして、ライカンスはレイの唇をそっと舐めた。
ぶわりと赤くなったレイが、恨めしそうに眉を寄せて見上げてくる。
確かに女性のような顔ではないが、やはりかわいいし美人だと思うのでライカンスはいかれている自分を自覚することしかできず、自制することはさっさと諦めた。
ぎこちないキスがかわいい。
ライカンスにしても誇れるほどの経験があるわけでもない。大概は仕事が忙しく、恋人がいてもすぐに別れる結果となってしまう。週ごとに深夜勤務が入るNYPDの男に付きあってくれる寛大な女性はついぞ現れず、ライカンスの前に現れたのはコンプレックスだらけの不健康そうな男だった。
指の間を撫で上げると肩が揺れる。
キスの合間に艶めかしい息が漏れるのが官能的でたまらなくて、何度も悪戯に腰を摩るとさすがに怒られ、舌を噛まれそうになった。
真っ赤な顔がかわいい。他に言葉が浮かんでこない事が面白いくらいに、レイはかわいい。
「……俺あんま即物的な男じゃないって自信あったんだけど」
レイの肩に額を当て、ほんの少し上がった体温を分け合う。居心地悪そうに硬直しているレイが本当に逃げてしまいそうで不安ではあったが、言葉を選んでいるような理性はない。
「何。セックスしたいってこと?」
「……あー、まあ、似たようなもんだけどなんかこう、ズバッと言われるとなんつーか、こう、俺あれだな最低じゃないかこれ」
「別にいいんじゃないの。アンタ、ストレートじゃん? ってことは別に男相手に単にむらっとして欲情してるってわけでもないわけじゃん」
「レイはゲイ?」
「わかんない。寝るのは男が多かった。自分で動くの面倒だから」
「うはは。確かに、あー……楽だよな、そりゃ。じゃあ初めてじゃないんだな」
「…………恋人と、セックスするのは、初めてだよ」
「……………」
「…………ライカンス、あの」
「……えー……なんだそれずっるい……欲情してんのか感動してんのかわかんなくなってきた……」
「いや欲情してんだろ勃ってんじゃんか」
「言うなよバッカ俺が恥ずかしい」
ひとしきり恥ずかしさを誤魔化すように笑い、あーあと息をつき、もう一度キスをしてから手錠を外す鍵の在処を聞いたのに、レイは気まずそうに視線をずらす。
「……ホテルに置いてきた」
「は? お前、そんなんしたら、二人でホテルまで取りに行かなきゃこれ取れないだろう。え、マジで?」
「うん。だって、鍵があったら枷の意味ないじゃん」
確かにその通りだが、そんな風に真面目に返されてしまうとライカンスもどうしていいものかわからない。
「…………じゃあ、そのー……まーとりあえず鍵取りに行くか……?」
「いいよべつに」
「ん?」
「いいよ、このままで。――右手が不自由だとセックスできない?」
この言葉に、ライカンスが息を飲んでしまったのは、仕方のない事だ。
「……どんなプレイだよ……つか、とんでもない、誘い文句、ぶちこんでくんなよ……」
「だって。勢いある時に既成事実作った方がお互い逃げらんないかなって」
「なんだそれ。なんかそれ、レイが俺の事かなり好きっぽく聞こえるんだけど」
「――アンタのキスで勃つくらいには、好きなんじゃないの?」
即物的な殺し文句に、ライカンスが崩れ落ちた後に、何故かレイも耐えかねたように崩れ落ちてしまい、結局二人でベッドの上に縺れ合うようになってしまった。
ライカンスは嘘が嫌いだ。
だからと言って、嘘をついた人間すべてが嫌いだということはない。
今もリサの事はどうにか助けられなかったのかと思うし、ドニーの話をもっと聞いていればと思う。二人の嘘に心を痛めても、二人の事を嫌いだとはやはり思えない。こういうところが甘いとディーンに言われてしまうのだが。
そして、嘘ばかりだと自称するレイの事も、勿論嫌いにはなれない。
ライカンスの嫌いなイソップ寓話では、オオカミ少年は嘘のせいで信じてもらえずに羊を狼に食われてしまう。着飾った嘘ばかりのカラスは神様に見破られ皆に見放されてしまう。
確かに嘘は悪いことだし嫌いだけれど、この頭の固い寓話は少し厳しすぎやしないかと思う。
もっとぬるくハッピーエンドを迎えても、世界はそんなに怒らないのではないか。
そんな風に自分たちを甘やかしてしまうのも、よくない癖なのかもしれないとライカンスは内心苦笑した。
右手と左手を繋いだ鎖が、ジャラリ、と官能的に鳴った。
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