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妄執 6-4
仁科によって両腕を後ろ手に拘束された孝司は、ベッドに突き飛ばされた。背後で拘束されていては満足に起き上がることもできない。
仁科は片山を連れ部屋を出て行った。鏡を割った手から流れる血でシーツが赤く染まっていく。今頃になって右手がじくじくと痛み出した。
孝司は痛みに耐えながら仁科のことを考えた。はっきりと啓一と呼ばれてしまい、仁科の想い人が自分でない現実を突きつけられた。
これからどうなってしまうのだろう。孝司のままでいられないのならば、早く解放してほしい。
孝司はこれ以上心身ともに傷つくのが怖かった。
何よりも、仁科が自分を孝司ではなく、啓一としか見ないことが辛かった。
仁科に対して好意以上の感情を抱き始めてしまっていたのだ。
扉が開き、仁科が戻ってくる。
「……仁科っ」
孝司は初めて名を呼んだ。仁科は無言でベッドに近づいてくる。孝司は仁科と向き合って話がしたくて、何とか上体を起こそうとしたが、それは失敗に終わり、再びベッドに倒れこむ。
孝司が顔を上げると、仁科はすぐ目の前に立っていた。
「啓一……」
仁科は孝司ではなく兄の名を呼ぶ。
その目はやはり孝司を捉えていなかった。
「……もう解放して」
「啓一……」
仁科は孝司を起こし、その腕の中に抱きこんだ。仁科に触れているというのに、孝司は複雑な気持ちになった。
それから仁科は身体を離し、孝司をベッドに押し倒した。黙々と服を脱がし、洗っていない孝司自身を口に含もうとする。
「やめろ!」
孝司は仁科の行動を制した。鋭い声に反応した仁科が動きを止め、ゆっくりと孝司を見る。視線が交わる。
「……今日はやけに反抗的だ」
「あんたが欲しいのは俺じゃなくて兄貴だろ? もう俺のことは解放してくれ!」
そうだ。仁科の欲しいものは、仁科が愛しているのは、兄の啓一である。揺るぎない事実にこみ上げる涙を、孝司は必至に堪えた。
「……あんたに必要なのは、俺じゃない」
仁科は何も言わない。ただじっと孝司を見るだけだ。正しくは孝司を通して啓一を見ている。視線が合っていると思っていたのは孝司の勘違いだった。
「……好きだ」
孝司の告白に、仁科がわずかに視線を下げた。
孝司は自分の想いを止めることができなかった。
「好きなんだよ、だからっ――だから、俺を見て……」
仁科の肩が震える。笑っているようだ。
「仁科……?」
「今更だろう、啓一」
ベッドに横たわる孝司に、仁科が覆い被さり、黒く染められた髪に口づけた。
「私たちは出逢ったときから愛し合っているじゃないか」
「……っ」
孝司は自分の中の何かが壊れる音を聞いた。自制できない涙がこぼれてくる。仁科はその雫を舐め取って、赤くなった目元についばむようなキスをした。
「どうして泣いている?」
仁科に聞かれたところで、その理由は孝司にもわからなかった。声にならない嗚咽が喉を塞ぐ。ややあって、仁科はシーツに付着した血に気がついた。
「ああ、そうか」
何を思ったのか、仁科は孝司の身体をうつ伏せに返し、鏡で傷だらけになった右手をまじまじと見つめた。
「この傷が痛むのかい? 大丈夫。流血しているが、傷口はそれほど酷くない」
そう言って仁科は孝司の右手の血を舐め、切り傷に舌を這わす。
「ひいっ」
孝司の身体がびくりと動く。身に覚えのある感覚だ。この数日で仁科に幾度となく抱かれた身体は、痛みすらも快楽に変換し始めていた。
「気持ちが良いかい?」
仁科はわざとらしく孝司の耳元で囁く。孝司は何度も頷いた。
「よかった」
孝司の耳からうなじにかけて、仁科は咬痕をつける。口づけは何度もされたが、所有痕を残されたのは今日が初めてだった。
「……仁科ぁ」
「違うだろう、啓一」
「え……?」
もう孝司だろうが啓一だろうが、どうでもよくなっていた。孝司は仁科の発言に素直に首をかしげる。
「……先生?」
初日から言わされ続けた呼び方で呼んでみる。孝司が先生と呼ぶたびに嬉しそうにしていたはずなのに、今日の仁科は様子がおかしい。
「……名前で呼んでくれないか?」
「名前?」
「智と……あの頃のように、名前で」
「……サトシ?」
慣れない名で呼ぶと、仁科の顔に笑顔が戻った。
「いい子だ、啓一」
満面の笑みを見せる仁科は眩しいほどに魅力的だった。
孝司は今すぐにでも仁科に抱き着きたかったが、両手を戒める手錠が邪魔だった。
「これ外して……?」
孝司の願いはすぐに叶えられた。仁科は恭しい手つきで孝司の手錠を外した。
「サトシ……!」
自由になった両腕を広げ、孝司は仁科に飛びついた。
今まで誰に対しても、これほどまでにまっすぐな愛を向けたことはない。仁科なら受け入れてくれると孝司は思った。
やがて仁科の腕が孝司の背に回る。
「愛しているよ……啓一」
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