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純愛 1-1

 ――皆に慕われる、立派な教師になりたい。  かつて共に学んだ友の言葉だ。長瀬啓一は友との約束を守り、教師になった。  実際のところ常勤でなく非常勤講師であるが。しかし自分の専門科目だけを教えることに専念できる今の立場は、啓一に向いていると自覚していた。ある意味幸せなことだとも思う。  教職に就いて五年目になる。毎年のことだが、三年生を受け持つ年には〝受験〟というシビアなワードが飛び交う。定期テスト以外でも授業が終わっても積極的に質問に来る生徒も増えた。  中には啓一と会話することだけを目当てにする女子生徒もいたが、それも含めて、啓一は忙しいながらに充実した生活を送っていた。 「長瀬先生、次のテスト範囲なんですけど……」  彼は昨年から教えていた理系専攻の生徒で、わからないところがあれば授業後に必ず聞きに来る、とても勉強熱心な生徒のひとりだ。  啓一は彼の疑問点を解消し、授業よりもわかりやすく解説する。すると男子生徒はたちまち笑顔になった。 「わかりました! ありがとうございます。俺、先生のおかげで物理の点数上がったんです。前は理系のくせに赤点ギリギリだったから」  彼は恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。そのさりげない仕草が、ふとした拍子に弟と重なった。  六つ下の弟との仲はあまり良くない。啓一は前々から弟から嫌われている自覚があった。その理由も理解しているため、啓一は弟と距離を置くことにした。  啓一が実家を出てから、もうすぐ十年が経とうとしている。  弟と連絡が取れなくなったのは最近の話だ。  仲が悪いとはいえ、これまでメールのやりとりは継続していた。雑な返事ではあるが、啓一のメールには毎回返答があった。しかしある日を境にメールの返信はおろか、開封した形跡すら無くなったのだ。  初めは怒っているだけだと思っていたが、何日経っても音沙汰がないため、啓一は訝しんだ。しかし仕事を言い訳にして、それ以上踏みこもうとはしなかった。  一応、父に連絡を取ったが、弟は父を啓一以上に嫌っているため、案の定、父からの答えは無かった。 「長瀬先生、お疲れですか?」  声のする方を向くと、国語教師の坂本あゆみと目が合った。長い髪を綺麗にまとめ、柔らかい雰囲気を醸し出す彼女は生徒たちからの人気も高い。  あゆみと付き合って三年目になる。職場恋愛を隠しているわけではないが、公私はきっちり分けるとふたりで決めていた。 「大丈夫です。お気遣いありがとうございます、坂本先生」 「それならよかったです。でも顔色があまり良くない気が……何か心配事でも?」 「いや。どうしてです?」 「珍しく携帯を気にしているので。もしかして誰かからの連絡待ちですか?」 「ええ。弟とケンカしまして。怒っているのか、なかなか返事が来ないのです」 「それは大変。早く仲直りできるといいですね」  あゆみは労わるような笑みを浮かべ、その場を後にした。彼女になら相談してもいいかもしれない。ゆくゆくは結婚を考えている相手だし、いつかは弟にも紹介したいと考えていた。  しかし今はテストに向けて一番忙しい時期だ。  啓一は自分に言い聞かせ、次の授業の準備を進めた。

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