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純愛 2-3

 辞表を受け取った翌朝、片山は仁科とまったく連絡が取れなくなっていた。仁科のデスクには彼の私物が残っており、引き継ぎの書類も手つかずの状態だった。  何よりも問題なのは片山が担当していた地区の中古物件を集めたファイルが一冊紛失していたのだ。社員全員でくまなく探した結局見つからず、片山は始末書を書き、上司から叱責を受けた。  今になって思えば、仁科が孝司を監禁するために使った家は、このファイルに収められていた物件のうちのひとつだった。なかなか買い手がつかずに何十年も眠っていた物件だ。  仁科が突然会社を辞めて数日が経っても、片山は彼のことが気がかりだった。  急に連絡がつかなくなったのもそうだが、何より紛失したファイルの行方が気になった。会社内を探しても見つからなかったファイルの所在を、もしかしたら仁科なら知っているかもしれないと思ったからだ。  片山は仁科と繋がりがありそうな人物を数人当たったが、誰に聞いても仁科の行方はおろか、プライベートを知る者すらいなかった。  しかし事態は急転した。仁科が片山の自宅を訪れたのである。  インターフォンが鳴り、片山が扉を開けると、そこには最後に会ったときよりもさらに憔悴した仁科の姿があった。そのただならぬ姿に片山は黙って仁科を招き入れた。  寂しい男のひとり暮らしの部屋には大した家具はない。仁科を畳張りの床に座らせ、片山はコーヒーを淹れた。その間仁科はおとなしく座っていた。まるで抜け殻のように覇気がない。  マグカップを手渡しても反応は変わらなかった。狭い部屋にコーヒーの香りが漂っていく。どちらも話さないまま数分が過ぎようとしていた。  片山はコーヒーを飲みながら仁科の様子を伺う。しばらくして仁科は冷めたコーヒーを一気に飲み干し、語り始めた。 「片山さんは恋をしたことがありますか?」 「……いきなり何の話だ」  予想外の話題に片山は拍子抜けた。  だが仁科の目は真剣そのものだった。 「自分の人生を棒に振ってまで、人を愛したことがありますか?」 「何が言いたいんだ?」 「そこまで愛した相手に偶然再会してしまったら……あなたならどうしますか?」  片山は口をつぐんだ。口を挟む余裕がなかった。  対面に座る仁科は虚空を見つめた。その愛した誰かを思い描いているように思えた。 「でも、その人はすっかり変わってしまったのです。このままでは彼は間違った道へ進んでしまいます」 「……彼?」  聞き間違いだろうか。片山の疑問は仁科には届かない。仁科は狂気を宿した視線を片山へと向けた。 「片山さん、私からのお願いです。私に協力してくれませんか? 彼を取り戻すためには、先輩の力が必要なのです」 「何をする気だ?」 「決まっているでしょう。私は彼の先生になります。私が彼を正しく教育しなければならないのです」 「先生だと?」  仁科にとって、その単語が何を意味するのかを片山は知らない。しかし就職に失敗した仁科をこの会社に引き入れたのは、他ならぬ片山自身だ。仁科の学歴は把握しているつもりである。  片山は元上司として、元部下である仁科に厳しくあたった。 「何を馬鹿なことを言ってるんだ。お前はまだ学生気分なのか? 夢を見るのも結構だが、現実を見ろ。お前は教師なんかじゃない」 「私は彼専属の教師です」 「仁科、お前は妄執に囚われているだけだ」 「妄執……?」  仁科はその言葉を何度も咀嚼し、やがてクツクツと笑い始めた。 「妄執とは良い響きですね。今の私にぴったりだ」 「やめろ仁科」 「もう一度言います。私に協力してください」 「俺が断らないとでも思ってんのか」 「あなたに断る権利があると思っているのですか」 「……何をすればいいんだ?」  今の仁科を怒らせるのは危険だ。片山はあえて下手に出て、仁科がどう反応するのかを伺うことにした。 「私の愛した彼を……長瀬啓一を連れてきてほしいのです」 「その長瀬って男は誰だ。俺は知らない」 「ご冗談を。私が知らないとでも思っているのですか。あの日から数回、あなたは彼と会っているはずだ。私の目が届かないところでね」  ――あの日とは、いつのことだ。  片山の脳内でいくつものピースがせわしなく駆け巡る。  ――突然会社を辞めた仁科。紛失したファイルの行方。先生。長瀬啓一。俺自身と付き合いがある人物……。  考えられる男はひとりしか思い浮かばなかった。

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