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純愛 6-1
孝司のアパートから出た啓一は、玄関ドアの前で立ち尽くした。
今、部屋の中で見た光景が信じられなかったからだ。弟は何も言わずに引っ越したとでもいうのか。いや、完全にないとは言い切れないが、それでも一報くらい入れてくれると啓一は信じていた。詳細を確かめようにも、孝司の携帯は繋がらない。
〝おかけになった番号は――〟と無機質なアナウンスが流れるばかりである。
とにかくアパートの大家を訪ねることにした。大家なら借主の事情を何か知っているかもしれない。しかし、こんな時間に押しかけるのは失礼だろうと、今日は諦めることにした。
肝心なところで身を引いてしまう慎重さが、啓一の悪い所であった。
啓一は日曜日の昼間にもう一度孝司のアパートを訪ね、大家に直接話を聞くことができた。
大家は腰の曲がった老婆で、孝司の住んでいた部屋のことを尋ねると、もう半月以上前に引っ越したと聞かされた。
「でも、先日私が訪ねた時には鍵が開いていましたが……」
「それは私が掛け忘れてしまったのです。最近どうも物忘れが激しくてねえ」
大家はすまなそうに頭を下げた。それから啓一の顔を見て、わずかに頬を赤く染める。
「お兄さん、男前だねえ。ここの坊ちゃんの知り合いかい?」
「申し遅れました。私、孝司の兄の啓一と申します」
啓一は自分と孝司の関係を、まだ告げていなかったことを思い出した。すると大家は目を丸くして、身を乗り出して言った。
「まあまあ。坊ちゃんには、もうひとりお兄さんがいたのね。あの方はお元気かしら?」
「……もうひとり?」
啓一は眉をひそめた。啓一と孝司は紛れもなくふたり兄弟だ。大家の言う、もうひとりの兄とは誰のことだろう。
啓一は大家に尋ねた。
「その人が孝司のアパートを解約したのですか?」
「ええ、そうですよ」
大家は当時を思い出しているのか、少し考えるような素振りを見せて、話を続ける。
「坊ちゃんの兄だという人が本人の代わりに私のところに来たのよ。何でも急に入院することになって。それも長い入院になると。それで退院後は実家に帰るって言うものだから……そのお兄さんも随分取り乱していて、私は慌てて書類を用意したの」
「孝司が入院?」
「やだ、あなた知らなかったの? 随分と重い病気ですってね。お兄さんも看病疲れでやつれていらっしゃったわ」
「では弟の荷物はすでに……?」
「ええ、実家に送ったそうよ。週末に業者のトラックが来て、一式運んで行ったわ」
啓一は胸騒ぎの正体を知った。
大家の話が本当なら、孝司の身が危ない。
「あの、以前訪れたという、その人の特徴など覚えていませんか?」
大家は啓一の焦りに気づかない様子で、朗らかな声で答える。
「そうねえ、あなたよりも細身で眼鏡をかけていらしたわ」
「名前は覚えていますか?」
「さあ、そこまでは。ごめんなさいね」
啓一は大家との話を終えアパートの近くの公共駐車場へと戻った。坊ちゃんに、と帰り際に大家からミカンをいくつか持たされた。孝司は大家に可愛がられていたようだ。
駐車場への道すがら、啓一は大家が言ったもうひとりの兄について考えた。
眼鏡をかけた細身の男など何人もいる。到底ひとりになんて絞り切れない。しかし孝司の失踪にその男が関わっているのは、紛れもない事実だ。
「孝司……っ」
啓一はこのことを父に報告すべきか迷った。
だがあの父ならば、孝司を簡単に見捨てるだろうと思って、その考えは切り捨てた。
捜索願を出そうものなら、今度こそ父は孝司と縁を切るかもしれない。それほどまでに、父は孝司を嫌っていた。
あの子がいったい何をしたんだ。悔しさのあまり唇を噛み締める。啓一はそんな父も、父を恐れ逆らえない自分自身も嫌いだった。
「――あの、もしかして、啓一さんですか?」
考え事をしながら歩いていると背後から声をかけられた。振り返ると若い男が立っていた。
孝司と同じくらいの年頃で、それなりに整った顔立ちをしている。そしてファッション性のある個性的な眼鏡をかけていた。
「啓一さんですよね?」
だが、声をかけられたものの、啓一は彼の顔に見覚えがなかった。
「そうだが、君は?」
啓一が問い返すと、彼は人懐っこい顔で答えた。
「姉がお世話になっています。坂本あゆみの弟の、貴久 と申します」
突然現れた彼女の弟に、啓一は柄にもなく戸惑った。
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