52 / 82

狂想 1-1

 長瀬啓一は自らの苛立ちを表すように壁を殴った。  ようやく苦労して探し出した弟の行方が、またわからなくなってしまったのだ。しかも弟を拉致したと思われている仁科智は、呆然としたまま壁を背に座りこんでいる。  彼もまた目の前の光景が信じられないようだ。  久しぶりに会ったかつての友人は、こちらが心配になるほどやつれてしまっている。だが今の啓一に、彼を気遣う余裕はなかった。 「立て」  啓一は仁科の腕を掴み、立ち上がらせると、無機質な部屋に連れこんだ。そのまま壁際のパイプベッドまで引きずり、シーツに投げ出された鎖を掴んで言った。 「これは何だ」 「足枷」 「こんな物でお前は孝司を繋いでいたのか?」 「……少し違う」  仁科は啓一から足枷を受け取り、その内側を撫でながら続ける。 「最初は彼が逃げ出さないように繋いでいた。でも途中から彼自身がそれを望んだのだ」 「孝司が繋いでくれとでも言ったのか?」 「そうだよ」  足枷の内側にはわずかに血が滲んでいた。孝司が無理に足を引き抜いたのかとも思ったが、それは考えにくい。なぜなら枷の鍵が開いていたからだ。 「じゃあ何で孝司はここにいないんだ?」  啓一は一刻も早く弟の安否を知りたい一心で仁科を問い詰めるが、彼の反応は鈍い。しばらく間を空けて仁科は答えた。 「……わからない」 「何だと?」 「私は何も知らない……啓一、君に会うためにここを出たときには、確かに彼はいた」 「俺と会ってる間に逃げたと言いたいのか」 「彼は逃げないさ」 「……仁科」  啓一は俯いたままの仁科の顔を上げさせ、眼鏡越しの虚ろな眼を見て言った。 「どうしてお前は孝司を監禁したんだ?」 「私は――」  仁科は一度言葉を切り、何かを打ち消すように首を振って、啓一の問いに答えた。 「――私は君に会いたかったんだ」  仁科の声には悲痛な響きが宿っていた。  啓一が知る仁科は、かつて共に過ごした学生時代の真面目で誠実な人柄だった。  だが今、啓一を見つめる視線には、粘着質な熱がこもっていて、見る者の背筋を凍らせるほどの凄味を帯びている。こんな仁科を今まで一度も見たことがない。  啓一はその視線を振り払うように、低く吐き捨てた。 「馬鹿馬鹿しい」 「……」 「そんなことのために孝司をだしにしたのか?」 「彼は出来損ないの模造品だ」  仁科は喉の奥をククっと鳴らして嘲笑った。 「彼は君の代わりになど到底なりえはしな――」  最後まで聞いていられなかった。無意識のうちに啓一は仁科を殴りつけていた。  長身とはいえ自分よりも華奢なその身体は、拳の勢いをまともに食らい、背後のベッドに崩れ落ちる。さらに啓一は倒れた仁科の胸倉を掴み、その顔を何度も何度も殴り続けた。  その間、仁科は一切抵抗しなかった。 「俺の孝司を馬鹿にするな……!」  啓一は両腕で仁科を掴み上げ、今にも射殺さんとばかりの視線で彼を睨み、続ける。 「お前にあいつを傷つける権利なんてない。よくも大事な弟をこんな目に……っ」 「大事な弟?」  少し掠れた声で仁科は言った。血まみれの口元には侮蔑の色が見て取れる。 「笑わせるなよ、啓一。彼をここまで追いつめたのは他でもない、君だ」 「出任せを……っ」 「君の大事な弟は、心の底から君を憎んでいる」  仁科の発言が啓一の動きを止めた。 「……嘘だ」 「いったい君は彼の何を見ていたのだ?」  そのとき、突然仁科にネクタイを引っ張られ、啓一は仁科に覆い被さるような体勢になった。慌てて身を引こうとしたが、それよりも早く仁科の手が後ろ髪を掴む。啓一は身動きが取れない。  傍から見れば仁科を組み敷いているのは啓一だったが、その手に主導権はなかった。 「いいか啓一……」  仁科の声が聞こえたと思ったら、唇に何かが触れた。軽いリップ音を残し、仁科の唇は離れていった。あまりにも一瞬の出来事で、啓一は何が起きたのか理解できなかった。 「……ずっと前から、私は君をこういう対象で見ている」

ともだちにシェアしよう!