54 / 82

狂想 2-1

 眩しいほどの日差しを目蓋の裏に感じ、長瀬孝司はゆっくりと意識を取り戻した。  目が覚めた孝司は、なぜこんなにも明るいのだろうと疑問に思う。仁科と暮らしていた部屋は、窓が閉ざされた寂しい空間だった。  それでも仁科と共に過ごせるのなら、場所なんてどうでもいい。あの部屋のベッドに座って、いつ来るかわからない仁科を待ち続ける。  それが今の孝司の生きるすべてだった。  まだ覚醒しきっていない、ぼんやりとした思考のまま、孝司は自分がいる場所を見渡し、違和感を覚える。 「?」  孝司がいる部屋には畳が敷いてあり、すぐそばには低いテーブルがある。身体を横たえていた布団には煙草の臭いが染みついている。  四方の壁にも煙草が原因と思われる染みが、いたるところに浮かび上がっていた。他にも脱ぎ捨てたままの服や、洗い場に山積みになった食器。  あまりにも生活感のある部屋に、ひとり座りこんだままの自分。孝司の中の違和感が、またひとつ大きくなった。  身内に喫煙者のいない孝司にとって煙草の臭いは悪臭でしかない。嗅ぎ慣れない臭いに気分を悪くした孝司は、毛布をめくり布団から抜け出すと、眩しい光を放つ窓際へ向かった。  立ち上がるときに右足首に引きつるような痛みを感じたが、特に気に留めることもなく、孝司は足を前に進めた。  短い距離だというのに息が上がり、時々空咳が出る。ずいぶんと掃除がされていないようで、歩くたびに畳からは埃が舞った。  早く部屋中の空気をすべて取り替えてしまいたい。  孝司は迷わずに鍵に手をかけて窓を開けようとしたが、真下に下りるはずの鍵はビクともしなかった。 「……開かない?」  よく見ると、鍵は接着剤のようなもので固定されている。今度は両手を使って鍵を下そうとするが、結果は同じだ。長期間監禁され、体力の落ち切った今の孝司では外せるはずもなかった。 「あ……外……」  鍵を開けることを諦めた孝司は、手を止めて窓の外に目を向ける。  空が青かった。  今は朝方なのか、穏やかな日差しが雲の切れ間から覗いている。そのまま下に目線を下ろす。どうやらこの部屋は二階にあるらしい。  閉ざされた窓からは周囲の様子は完全には見えないが、それほど大きくないアパートの一室だということは予測できた。  窓の外にベランダのようなものはなく、代わりに軒下にアルミパイプが二本通されていて、そこに洗濯物を干せるようになっている。  孝司はしばらくの間窓の外を眺めたが、人や車は通らなかった。住宅街ではあるものの、それらすべてがどこか寂れていて、人の住んでいる気配がない。  それでも孝司にとっては久しぶりの外の景色だ。何をするでもなく、孝司は雲の流れを見て時を過ごした。  玄関の鍵が開くガチャリという音も、部屋の主が板張りの廊下を歩くギシリという音も、孝司の耳には届かない。  背後の気配に気づいたときには、すでに孝司の身体は力強い腕に抱きこまれ、身動きができない状況に陥っていた。  左肩に負荷がかかる。  背後の人物が孝司の肩に頭を乗せてきたのだ。その重みが煩わしくて孝司が身じろぐと、さらに強い力で抱かれ、耳の後ろに息を吹きつけられた。 「何を見ていたんだい?」  吐息交じりの低い声で男が訊く。 「雲を見ていた」  孝司は素っ気なく答えた。その返答に男は微笑み、視線を窓へと向け、孝司が見ている景色を一緒に楽しんだ。 「ここはボロアパートだけど、この窓からの景色だけは気に入っている。部屋は手狭だし、コンロも一口しかない。エアコンもいかれてて不便なことばっかりだ。でも、この窓からの景色はどこか暖かくて、かれこれ十数年は暮らしてる」 「良い部屋だね」 「そうだろ? 本当はもっと片づけておけばよかったって後悔してるけど、何よりも先に、お前を連れ出したかったんだ」 「連れ出す?」  男の言葉に孝司は眉根を寄せる。彼への嫌悪感に身を固くしたが、当の本人は気づかないらしい。 「そうだよ。あんなに薄暗い場所にずっといたら身体に悪い。人間は太陽の光がなければ生きていけないからね。孝司を救い出したら、真っ先にここからの景色を見せてあげたかった。気に入ってもらえたなら、俺は嬉しい」  窓ガラスに背後の景色が映る。男は本当に嬉しそうな顔をして笑っていた。  ああ、やはりこれは現実なのだと、孝司は覚醒時に思った疑問に答えを出した。  右足首が発するジンジンとした痛みは、その答えをさらに明確にする決定打となる。  今までの――仁科と過ごしたあの空間も異常だが、どこにでもありそうなボロアパートの一室の方が、今の孝司には異常に感じられた。  だってそうだろう? 仁科と孝司を繋いでいた足枷は、今の孝司には嵌まっていない。  あれがなければ孝司は生きていけない。  孝司は背後の人物へと首を回し、彼の目を見て言った。 「救い出す? 殺そうとしたの間違いじゃないですか?」 「……」 「何とか言ってくださいよ、片山さん」  片山亮介は否定も肯定もしなかった。

ともだちにシェアしよう!