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狂想 2-1
眩しいほどの日差しを目蓋の裏に感じ、長瀬孝司はゆっくりと意識を取り戻した。
目が覚めた孝司は、なぜこんなにも明るいのだろうと疑問に思う。仁科と暮らしていた部屋は、窓が閉ざされた寂しい空間だった。
それでも仁科と共に過ごせるのなら、場所なんてどうでもいい。あの部屋のベッドに座って、いつ来るかわからない仁科を待ち続ける。
それが今の孝司の生きるすべてだった。
まだ覚醒しきっていない、ぼんやりとした思考のまま、孝司は自分がいる場所を見渡し、違和感を覚える。
「?」
孝司がいる部屋には畳が敷いてあり、すぐそばには低いテーブルがある。身体を横たえていた布団には煙草の臭いが染みついている。
四方の壁にも煙草が原因と思われる染みが、いたるところに浮かび上がっていた。他にも脱ぎ捨てたままの服や、洗い場に山積みになった食器。
あまりにも生活感のある部屋に、ひとり座りこんだままの自分。孝司の中の違和感が、またひとつ大きくなった。
身内に喫煙者のいない孝司にとって煙草の臭いは悪臭でしかない。嗅ぎ慣れない臭いに気分を悪くした孝司は、毛布をめくり布団から抜け出すと、眩しい光を放つ窓際へ向かった。
立ち上がるときに右足首に引きつるような痛みを感じたが、特に気に留めることもなく、孝司は足を前に進めた。
短い距離だというのに息が上がり、時々空咳が出る。ずいぶんと掃除がされていないようで、歩くたびに畳からは埃が舞った。
早く部屋中の空気をすべて取り替えてしまいたい。
孝司は迷わずに鍵に手をかけて窓を開けようとしたが、真下に下りるはずの鍵はビクともしなかった。
「……開かない?」
よく見ると、鍵は接着剤のようなもので固定されている。今度は両手を使って鍵を下そうとするが、結果は同じだ。長期間監禁され、体力の落ち切った今の孝司では外せるはずもなかった。
「あ……外……」
鍵を開けることを諦めた孝司は、手を止めて窓の外に目を向ける。
空が青かった。
今は朝方なのか、穏やかな日差しが雲の切れ間から覗いている。そのまま下に目線を下ろす。どうやらこの部屋は二階にあるらしい。
閉ざされた窓からは周囲の様子は完全には見えないが、それほど大きくないアパートの一室だということは予測できた。
窓の外にベランダのようなものはなく、代わりに軒下にアルミパイプが二本通されていて、そこに洗濯物を干せるようになっている。
孝司はしばらくの間窓の外を眺めたが、人や車は通らなかった。住宅街ではあるものの、それらすべてがどこか寂れていて、人の住んでいる気配がない。
それでも孝司にとっては久しぶりの外の景色だ。何をするでもなく、孝司は雲の流れを見て時を過ごした。
玄関の鍵が開くガチャリという音も、部屋の主が板張りの廊下を歩くギシリという音も、孝司の耳には届かない。
背後の気配に気づいたときには、すでに孝司の身体は力強い腕に抱きこまれ、身動きができない状況に陥っていた。
左肩に負荷がかかる。
背後の人物が孝司の肩に頭を乗せてきたのだ。その重みが煩わしくて孝司が身じろぐと、さらに強い力で抱かれ、耳の後ろに息を吹きつけられた。
「何を見ていたんだい?」
吐息交じりの低い声で男が訊く。
「雲を見ていた」
孝司は素っ気なく答えた。その返答に男は微笑み、視線を窓へと向け、孝司が見ている景色を一緒に楽しんだ。
「ここはボロアパートだけど、この窓からの景色だけは気に入っている。部屋は手狭だし、コンロも一口しかない。エアコンもいかれてて不便なことばっかりだ。でも、この窓からの景色はどこか暖かくて、かれこれ十数年は暮らしてる」
「良い部屋だね」
「そうだろ? 本当はもっと片づけておけばよかったって後悔してるけど、何よりも先に、お前を連れ出したかったんだ」
「連れ出す?」
男の言葉に孝司は眉根を寄せる。彼への嫌悪感に身を固くしたが、当の本人は気づかないらしい。
「そうだよ。あんなに薄暗い場所にずっといたら身体に悪い。人間は太陽の光がなければ生きていけないからね。孝司を救い出したら、真っ先にここからの景色を見せてあげたかった。気に入ってもらえたなら、俺は嬉しい」
窓ガラスに背後の景色が映る。男は本当に嬉しそうな顔をして笑っていた。
ああ、やはりこれは現実なのだと、孝司は覚醒時に思った疑問に答えを出した。
右足首が発するジンジンとした痛みは、その答えをさらに明確にする決定打となる。
今までの――仁科と過ごしたあの空間も異常だが、どこにでもありそうなボロアパートの一室の方が、今の孝司には異常に感じられた。
だってそうだろう? 仁科と孝司を繋いでいた足枷は、今の孝司には嵌まっていない。
あれがなければ孝司は生きていけない。
孝司は背後の人物へと首を回し、彼の目を見て言った。
「救い出す? 殺そうとしたの間違いじゃないですか?」
「……」
「何とか言ってくださいよ、片山さん」
片山亮介は否定も肯定もしなかった。
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