56 / 82

狂想 3-1

「足枷を解いたのは片山だ。合鍵は彼に託してある。それを使って、片山は長瀬くんを連れ出したのだろう」  そこまで語った後、仁科は口を閉ざした。細い指は枷の淵を巡り、かすかに残る血液を絡め取る。 「この血は長瀬くんの抵抗の証だろうね」 「抵抗?」 「さっきも言ったが、長瀬くんは解放されることを望んでいない。彼が自らの意志でここを出たとは到底考えられない」 「なぜそう言い切れる?」  啓一には弟の思考回路がわからなくなっていた。自分を監禁した相手に依存しているとして、なぜこうも自由を拒むのか。  ただ、その答えは加害者である仁科にもわからないようだ。彼は視線を伏せたまま思案し、それから口を開いた。 「この数週間、私は彼と共に過ごしたからだ」 「……っ」 「肉体的にも性的にも私は彼を暴行した。彼が私に抱く好意は、彼が無意識のうちに放った防衛本能だったと思う。私に好かれれば優しく扱われると、彼は学んだのだ」  啓一は仁科の淡々とした口調に苛立ちを覚えながらも、あくまで冷静にいようと努めた。激情に身を任せて、孝司の居場所を聞き出せなかったら話にならない。  一度は下げた頭をもう一度仁科に下げることは、啓一のプライドが許さなかった。 「じゃあ孝司は片山と一緒なのか? 彼が助け出したのなら、今すぐに居場所を――」 「それは無理だ」 「なぜだ!」  孝司が片山と逃げ出したのならば、すぐに保護すればいい。もしかしたらすでに警察に駆けこんでいるのかもしれない。いや、孝司の体調を考えて、まずは病院だろうか。  あらゆる場面は想定できるのに、仁科の顔色は一向に優れない。青ざめたままだ。啓一は仁科を急かすように声を荒げた。 「仁科!」 「……長瀬くんに性的な欲望を抱いていたのは私だけではない」 「まさか……!」 「ああ。片山も以前から長瀬くんに対して、邪な想いを抱いている」  視線を上げた仁科はきっぱりと宣言した。何か思い当たる節があるらしい。その後も話は続いた。 「片山が長瀬くんへ抱く想いは、おそらく私の比ではない。私よりも純粋であり、なおかつ彼は元来思いこみが激しい。そばに居ても感じたよ。長瀬くんへの醜いまでの執着を。そして私への激しい嫉妬や怒りを。彼は狂っていると言っても過言ではない」 「……あの片山が、そんな男だったなんて」 「片山の居場所はおそらく彼のテリトリーだろうが、私にはそれを探る術がない」  それから仁科は啓一に視線を合わせ、真摯な眼差しで言った。 「啓一、私に力を貸してくれないか?」 「……仁科。少しの間、ひとりにしてくれ」  啓一は仁科に退出を促した。自分の考えを整理したかったのだ。  仁科が去った後、ひとり残った啓一は壁際に寄せられたパイプベッドを見た。  不自然に皺が寄ったシーツは、先ほどまでここで繰り広げられていた争いの結果なのだろうか。  目を凝らすと薄暗い部屋の中でも、点々と散らばる血痕が見て取れる。啓一はそれらの痕をそっと撫でた。 「孝司……」  シーツに染みこんだ血液はすでに乾いていて、啓一の手にそれが付くことはなかった。  シーツを撫でた手を鼻に持っていき、その匂いを嗅ぐ。何も感じない。  それならと啓一はベッドの上に乗り、改めて血痕を見る。それからおもむろに上体を倒し、赤黒く乾いたそこに舌を這わせた。塩辛いような、鉄臭いような味がした。 「孝司……」  これが孝司の血。弟の血。そして兄である自分と繋がっている血。 「お前はどこにいる……? これ以上俺を困らせるな」  啓一はそのまま眠りに就いた。弟が残したぬくもりを肌で感じながら。 「孝司……」  シーツに身を摺り寄せ、弟がいた証を確かめているうちに意識は遠ざかっていった。

ともだちにシェアしよう!