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狂想 8-1
埃臭い布団の臭いには、すっかり慣れてしまった。
孝司はゆっくりと起き上がる。かたわらに片山の姿はない。だが、逃げ出す気持ちは薄れていた。
「……啓一」
憎い兄の名をつむぐ。あの男は今も愛しい仁科と一緒にいるのだろうか。弟の存在など忘れて仁科と共に時を過ごしているのだろうか。
――憎い。
孝司は畳を這って移動する。外の景色が見たかった。
「……サトシ」
愛しい男の名を呼ぶ。彼は今も憎き兄と一緒にいるのだろうか。かつての恋人の存在など忘れて、あの男と共に時を過ごしているのだろうか。
――憎い。憎い。憎い。
「サトシ……どこにいるの……?」
仁科に会いたい。仁科なら、きっと助けに来てくれる。
片山は怖い。でも逃げられない。
「サトシ……サトシ……」
孝司は壁伝いに立ちあがり、窓の外を見て、言葉を失う。
「……サトシ?」
孝司は目を疑う。二階の窓から見下ろす先には、そこにいないはずであろう仁科の姿があった。どうやらひどく慌てているようだ。
「サトシ……っ」
どうしたのだろう。もしかして探しに来てくれたのだろうか。
その答えに思い至ったとき、孝司の鬱屈した脳内が一気にクリアになる。
「サトシ!」
孝司は窓を拳で叩き、声を張り上げる。
「俺はここだ! 早く助けて!」
どうして仁科がこの場所を知ったのかはわからない。
でも、そんなことはどうでもいい。仁科が来てくれた。それだけで孝司の心は救われる。仁科は孝司を見捨てなかった。
「サトシ! サトシ! サトシ!」
孝司は閉ざされた窓をガンガンとうるさいほどに叩き続ける。仁科に居場所が伝わるように、想いの丈をこめて。
そして、その想いはついに仁科に届く。
ふいに仁科が顔を上げる。遠目から見ても、その驚愕の表情がわかる。
仁科と目線が合う。
仁科が、助けに来てくれた。
「サトシ――」
後頭部に受ける衝撃。何かが砕ける音。それらと同時に大きく脳が揺さぶられる。崩れ落ちる視界の端に、ガラスの破片が映る。
もうだめだ。
俺はここで死ぬ。
ああでも。
――最期に、サトシに会えてよかった。
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