「目が覚めたか？」 　孝司は啓一の声によって起こされる。この病院に入院してから、もう二週間近く経つというのに、少し前までは憎んでいたはずの兄に毎朝起こされるというのも、いかがなものかと思った。 　啓一の話だと、孝司が気を失ったあと、続けて仁科も気絶したらしい。限界だったのだろう。それから救急隊が来て、孝司と仁科を介抱している間、啓一は片山の近くにいたらしい。派手な出血のわりに、傷は浅かったようだ。 　啓一と目が合うと、片山はにっこりと笑って、 　――孝司のお兄さんですか。私は孝司の恋人の片山といいます。 　と告げ、そのまま意識を失ったらしい。 　冷静になった今だからわかるが、片山はやはり異常だったと孝司は思う。そしてそんな彼の狂気に飲みこまれそうになった自分自身も、また同類なのだろう。 　仁科や片山たちが緊急手術を受けている間、啓一は警察から色々事情聴取を受けたそうだ。 　だが啓一が話したことは、孝司が片山に監禁暴行された事実のみ。仁科が孝司を監禁していたことや、仁科が受けた傷については一切語らなかった。 　その後、仁科は一命を取り止める。 　運よく内臓を避けていたらしい。 　孝司は衰弱しきっていた身体と心のケアで数週間の入院を要した。 　警察病院の片山も一命を取り止めたが、事件に関する記憶を失ったらしい。それでも孝司は自分の恋人だと主張したそうだ。 「退院、今週末だって？」 　啓一は孝司の衣類を整理しながら話しかける。 「ああ、そうだよ」 　孝司は布団に包まったまま、視線を合わせずに答える。 「お前これからどうするんだ？」 「決めてない」 「うちに来るか？」 「実家？」 「いや。俺の住んでるところ」 「彼女さんに悪いじゃん」 「あいつはむしろ心配していたぞ。次に住む所が決まるまで何日でも居ていいんだぜ」 「俺はいいよ」 　退院後のことはずっと考えていた。大学は休みっぱなしで単位がどうなっているのかわからないし、そもそも住んでいたアパートは仁科によって解約された。無一文だと言ってもいい。 「……仁科か？」 　手を止めた啓一が低く言う。 　布団の中の孝司はびくりと肩をすくませたが、やがてくすくすと笑ってみせた。 「何がおかしいんだよ」 　啓一のいぶかしむ声を受け、孝司は掛布団を跳ね除け、眉根を寄せた兄を見すえる。 「俺はもう智……仁科さんとは関わらないよ」 「そうなのか？」 「だって、俺がいても邪魔だろうし」 　嘘だ。入院してから孝司は仁科と一度も顔を合わせていない。互いに面会謝絶の期間が長かったのだ。 　あの日、過酷な状況下で仁科は好きだと口にした。 　それが仁科の本心なのか、そうでないのかはわからない。 　仁科の言動で一喜一憂するほどの妄執状態は、もう解かれている。それは仁科も同じだろう。長瀬孝司という人間をどれほど知っているのかはわからない。孝司はそれが怖かった。 　だから仁科と距離を開けることは、今の孝司にとって必然のものに思えた。 「――仁科は教師になりたかった」 「いまさら？　何度も聞いたよ、それ」 「茶化すな。今だから話すが、俺が教師を目指したのは親父がいたからじゃない。仁科がいたからだ」 「……仁科さんが？」 　距離を開けるつもりだったのに、啓一の口から聞かされる仁科の昔話には強い興味を抱いた。 「俺たちは同じ教育大学の同じ学部で――俺は物理、あいつは生物を専攻していたがな、入学当初から気が合ったんだ」 「へえ」 「気づけば一緒にいた。親友だったと言ってもいい。大学生活はあっという間に過ぎていって、いつしか就活を控えるようになった。あいつは入学したときから将来は立派な教師になるんだ、と言って、そのために生きてきたような男だからな。どちらかといえば俺の方が不真面目だったのかもしれない。色々な意味で、俺はあいつが羨ましかったんだ」 　孝司には大学時代――つまり自分と同世代の仁科の姿が想像つかない。だが仁科にも夢を追いかけて、がむしゃらに走っていた時代もあったんだ。仁科智という人間を、またひとつ知ることができた。 「……孝司、俺はお前とは違う」 「は？」 　何度も聞かされた呪詛の言葉。よりにもよってこのタイミングで言うか。孝司は目の前の血の繋がった兄を睨む。だが啓一には孝司をからかう気などない。それがわかったのは、啓一の目があまりに真剣そのものだったからだ。 「だから、お前は仁科のそばにいてやってくれ」 「俺……仁科さんのそばにいていいの？」 「それが一番の望みだろ？」 　気難しい兄はそれだけ言って病室をあとにした。