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用心しながら音楽室へ入る。背中にも冷たい汗が流れていた。 目を見開き、まわりをじっくりと見渡す。 中にいたのは椅子に拘束され、目隠しが外されたヒロ先輩だけだった。怯えてた様子だったけど、俺達を見た瞬間、ホッとしたのか安堵のため息を吐いていた。 ーーヒロ先輩、無事みたい……よかった。他には……誰も、いない……? 柊側の刺客は、この地味な生徒一人だけだった。 さっきまで張りつめていた緊張の糸が途切れ、少しだけ心が緩んだ。 「俺はただの囮みたいな感じ。他に人員や戦力を回す為に、学校には一人だけって話でさ。だから拉致るのは、弱い紺野って決まってたの」 「ヒロ先輩は弱くないよ。おまえらが卑怯なだけだろ」 「でも俺は、目的だった稀瑠空に会えて、すごく嬉しいよ」 「はっ?さっきっから、何言ってんの?」 「俺の事、覚えてない?」 生徒会室から出てきたってくらいしか、記憶にない。昔から芸能界にいて、人の顔を覚えるのは得意だったけど、この男を思い出す事は出来なかった。 「同じ1年みたいだけど……今まで見かけた事ないかな」 「……そうか……覚えてるのは、俺だけか。寂しいな……」 男はひらりと壇上に上がると、グランドピアノの前に立った。 「俺は見てわかる通り、ひ弱で喧嘩は弱い。それに、物騒な事や痛い事は苦手でね。だから、話を最後まで聞いてくれたら、紺野の手錠の鍵、素直に渡すよ」 言い終えると椅子に座り、慣れた手つきでピアノの鍵盤を奏で始めた。 ーーノクターン 第20番 嬰ハ短調 『遺作』……なんて悲しい、メロディなんだろう…… 憂いを帯びた、もの悲しくも美しい戦慄が、音楽室を包み込んだ。演奏が終わると男は立ち上がって、壇上の際まで移動した。 「俺は中学へ上がる前に、青葉市に越して来たんだ。それまでは他県のここより田舎に住んでいて……その町では幼少からピアノを習っていて、コンクールで賞を総なめにしてきた。町の人達からは、“神童”って言われ、まわりからは憧憬の眼差しで見られていたよ。東京からテレビの取材が来るようになって、そのうちドラマに出ないかって声をかけられてさ。稀瑠空とはその時に、出会ったんだよ」 歪んだ笑みを浮かべ、眼鏡を外したその顔には見覚えがあった。 ーー確か4年くらい前か……あの時の、ピアノの天才少年だ。 成長はしていたけど、面影はあった。 違うのはあの時みたいに輝いた純真な瞳ではなく、どんよりと曇り光を失った暗闇のような目をしていた。 「佐藤昌磨(さとう しょうま)くんだよね?」 「思い出してくれたんだ。ありがとう。話を聞いてくれたお礼に手錠の鍵、渡すよ。親衛隊のあんたは、そこに立ったまま動かないで。稀瑠空だけ、こっちに来て」 ポケットから取り出した鍵を佐藤は握りしめると、壇上へ来るように手招きをした。 警戒しながら歩み寄る。後ろでは近衛がいつでも動けるように、殺気立ちながらスタンバイしてた。 俺が目の前に立つと、不審な手の動きをした後、勢いよく振りかざしてきた。 佐藤の動きがぎこちなかったお陰で、異変をすぐに察知し、体を躱し避ける事が出来た。 床に液体が散らばり、木の床板は黒く焦げていた。近くには一緒に投げられた、ガラスの小瓶も落ちている。 「硫酸……?」 その事に気をとられてると、すぐさま佐藤はナイフを取り出し、襲いかかってきた。 顔すれすれの所を、鋭利なナイフが空を切りながら掠めた。

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