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第60話 地獄の焦燥

 遼二が出て行ってしまった部屋で一人――帝斗は突然の会遇に驚きながらも、気持ちを落ち着けるかのように室内を見渡していた。大財閥の粟津邸とは全く違った趣であるが、今時の高校男児の雰囲気が感じられて、物珍しさもまた心地好い。そんな気持ちのままに、窓辺へと歩を向け、ふと眼下を見下ろした。――と、その瞬間、すべてが闇に包まれたような気分が帝斗を襲った。 ――――ッ!?  あろうことか、何とそこには従兄の帝仁がタクシーの窓から顔を出しながら、キョロキョロと辺りを窺っている姿があったのだ。 (何故――!?)  まさかずっと付けられていたとでもいうのだろうか。今日は土曜で授業は朝の二限分だけだった。昼前には下校時刻となったので、倫周を捜す為にこっそりと供の一人も付けずに出向いて来たというのに――。  そもそも帝斗が何故この街を訪れたのかというと、倫周が行方不明になってしまったことで、学園ではあらぬ噂が横行し始めていたからだ。あの日――つまりは帝斗が倫周を時計塔に呼び出した例の事件の日だが――それ以来、無断欠席となってしまった倫周のことを帝斗が気に掛けていないわけもなかった。まさかその後に彼の家で起こった事情など知る由もない帝斗には、自分のせいで彼が不登校になってしまったと思ったわけだ。まあ、帝斗の方も倫周と悶着のあった直後に従兄の帝仁に暴力を振るわれたことで、しばらくは他人を気に掛ける余裕などなかったわけだが、二日ばかり学園を休んだ後に登校した際に、初めて倫周の不登校を知ったのだった。そして、誰かが彼を川崎駅の周辺で見掛けたという噂を聞き付け、その際にあまり素行の良くない連中と一緒だったということも耳にした。きっと彼は家出でもしたのだろうとか、ついには本性を現わして、不良グループの仲間に入ったのだろうなどという噂までもが飛び込んで来た。  その原因が明らかに自分にあると思い込み、酷く気に病んだ帝斗は、すぐさま倫周の自宅を訪ねた。だが、応対に出てきたのは使用人だという者で、肝心の保護者には面通しすらしてもらえなかった。不登校の理由を尋ねるも、『私共は何も知りません。倫周坊ちゃんのことについても、主から特に学園側にご報告する問題はございませんとのことです』と言われ、埒があかない。無論、倫周の伯父の立場からすれば、息子が家出をしたことに気付いていないわけもなかったのだが、その理由に触れられるのを避けたいのだろう。何度尋ねるも、知らぬ存ぜぬ、不登校についても体調等の個人的な事情で、他所様には係わりのないことだの一点張りだった。  日を追う毎に学園内では根も葉もない噂話が広がっていく。保護者を訪ねるも門前払い――。為す術のない帝斗は、自ら倫周を捜そうと、風の噂で倫周がいるらしいというこの街にやって来たのだった。  そんな状況下、本来はいるはずのない従兄の帝仁を眼下にしたのだ。帝斗はそれこそ言葉にならない程に驚かされてしまった。帝仁はタクシーの運転手に何か指示しながら、かなりの徐行運転で周囲を探っているようだった。今の今まで気付かなかったが、学園を出てからずっと後を付けられていたのかも知れない。そして、先程遼二という青年と出会った経緯も見張られていたのだろうか。成り行きでたまたま遼二がタクシーを拾った為、一時見失ってしまったのかも知れないと思えた。徐行運転をさせてウロウロしているところを見るに、この辺りでタクシーを降りたことまで知られてしまったのかも知れない。 (見つかったらまずい……!)  咄嗟に頭に浮かんだのはそれ一点のみだった。倫周を捜していたのは無論のこと、帝仁に遼二や紫月との関係がバレれば、彼らにも迷惑が掛からないとも限らない。しかもここは遼二という青年の自宅だ。住所が突き止められてしまえば、後々嫌がらせをされたりもしかねない。 (僕がここにいることが知れれば、紫月や……遼二君にまで迷惑を掛けてしまう――!)  帝斗は蒼白となった。  ここで待っていてくれと言った遼二には申し訳ないが、今はとにかくこの場から去るしかない。頭の中が真っ白になり、冷静さを欠いた今の状態で考えられるのはただただそれだけだった。階下には確か遼二の母親がいたはずだ。先程、彼が『ただいま』と言いがてら、二言三言会話を交していたはずだから、彼の母親に断ってすぐにここから出て行こう――そう思った矢先だった。 「ただいまー! おばさま、いらっしゃいますかー?」  玄関を開ける音と共に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできて、ギョっと瞳を見開いた。 「あら、倫ちゃんおかえりー! 市役所の方はもう済んだの?」 「はい! 紫月君のお父さんと一緒に行ってきました。遼二君はまだ……?」 「ええ、今さっき帰って来たところよ。お友達を連れてきたとかって言ってたから、二階にいるはずだけど」 (……倫!? 何故、倫がここに……!?)  もはや頭が混乱しそうだった。だが、もしもここで倫周と一緒に帝仁に見つかったりしたならば、それこそ一大事だ。帝斗は急ぎ窓辺へと戻ると、恐る恐る外を見渡した。幸い、帝仁の乗ったタクシーは通り過ぎてしまったようで、見当たらなかった。逃げるなら今しかない――咄嗟にそう思い、気付いた時には階段を駆け下りていた。その姿を目にして、驚いたのは倫周だ。 「か、会長……!?」 「倫……! お前……何故ここに……」 「会長こそ……どうして……」  互いを目の前に、呆然と立ち尽くす。尋常ならない二人の様子に、遼二の母親までもが驚いたようにして瞳を見開いていた。 「あの……倫ちゃん? あなたたち、お知り合いなの?」  母親の言葉でハッと我に返ると、帝斗は言った。 「遼二君のお母様ですね? 僕は――この倫周と同じ学園に通う者です」 「あら……! そうだったの!」 「すみません……遼二君にここで待っているようにと言われたのですが、急用ができてしまいまして……。後程必ず……必ず連絡を入れますので……お暇させていただきます。遼二君にそうお伝え願えますでしょうか」 「え、ええ。それは構わないけれど……あの子、二階にいないの?」 「……紫月君を迎えに行かれました。すぐに戻って来られるとおっしゃっていたのですが……僕の方に急用が……。申し訳ないとお伝えください」  帝斗は深々と頭を下げてそう言い残すと、玄関先で立ち尽くす倫周の手を取って、慌てたように遼二の家を飛び出した。 「か、会長……! あの、どうして……」  倫周にとっては、あまりに突然の出来事にただただ驚くばかりだ。そんな彼の手を引きながら、帝斗は周囲を気に掛けつつも無我夢中で住宅街を駆け抜けた。 「会長……あの……ッ」 「いいから――! 後でちゃんと説明するから……今はとにかく急いで……!」  まるで恐怖におののくように息せき切らしながら大通りに出ると、帝斗は逸ったようにして一台のタクシーを捕まえた。そして倫周を車へと押し込むと、続けて自らも乗り込んだところで、ようやくと安堵したかのように大きな溜め息をついた。  そんな彼を横目に、倫周の方は掛ける言葉も見つからないといったところだった。信じられないような偶然の出会い――それより何より、帝斗のあまりの焦りようにも驚かされっ放しで、すぐには今の状況が飲み込めないくらいだ。 「ごめんよ……。後できちんと説明するから――」  タクシーの中では運転手にも話は聞かれたくないのだろうか、言葉少なにそれだけを繰り返す帝斗の様子に、倫周もその意を汲んだのか、黙ったままコクリとうなずいたのだった。

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