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第62話 会長の過去

 時をさかのぼって数時間程前――  初夏の日差しが傾きかけた午後、遼二の家へと向かったはずの倫周は、粟津帝斗と一緒に自らの通う学園にいた。遼二の家でこの帝斗と鉢合わせたのは、ある種運命だったとでもいおうか、互いを確認した時には言葉にならない程驚いたのは言うまでもなかった。何故こんなところに互いが居るのか、しばし帝斗も倫周も絶句といった調子で凝視し合った程だ。その直後、有無を言わさずといった感じで帝斗に引き摺られるようにしてタクシーへと押し込まれた倫周は、白帝学園内にある彼の私室――生徒会長専用室――へと戻って来たのだった。  応接用のソファで向き合いながら、倫周も、そして帝斗も、互いにソワソワとしたまま所在なさげにしていた。何から話せばいいのか、困惑気味で上手くは言葉が出て来ない。そんな状態を破ったのは倫周の方からだった。 「あの……会長……! その……お怪我の具合は……。この前は……会長のお顔を引っ掻いてしまい……本当に申し訳ありませんでした! ずっと……その、気になっていて……」  あれからどのくらい経っただろうか。期間にして一週間余りといったところか。一見したところ、帝斗の頬に目立った傷痕は残っていないようだったが、倫周はとにかく何をおいても謝りたかった。 「ん――、傷の方はもうすっかりさ。そんなことより――僕の方こそお前に謝らなければと思っていたんだ。あんなこと……お前に無理強いしてしまって……反省してる。ごめんよ、倫――」 「いえ――とんでもありません……」 「僕があんなことをしたせいで……お前が不登校になってしまったと思って、お前のご自宅へも伺ったんだ」 「――ッ!? 僕の家へ……ですか……!?」 「ああ。でもお前とは会えなくて…… 何度か訪ねたんだけれど、ご両親にもお目に掛かれなかった。どうしていいか、僕は途方に暮れてしまって……そんな時に、川崎駅の周辺でお前を見掛けたという話を聞いたんだ」  帝斗はその噂をツテに、たった一人で倫周を捜し始めたと言った。その矢先、見知らぬ高校の生徒たちに絡まれてしまい、そこへ偶然通り掛かった遼二という彼に助けてもらったことも説明した。 「でもまさか、こんな偶然があるだなんてね。あんなところでお前に会うだなんて思いもしなかったよ」 「……すみません。会長にまでご迷惑をお掛けしてしまって……」  倫周は帝斗が自分を捜してくれたことに酷く驚くと共に、遼二の家に居た経緯を打ち明けた。自身の境遇と伯父から受けた辱めの事実をはじめ、家出に至った宴席での出来事や、その後に偶然遼二らに助けられたことなどを、包み隠すことなく帝斗に告げた。その上で、だから家には戻りたくはないということや、まだ漠然とではあるが、今後家を出て生計を立てていくにはどうしたらよいか考えていることなどをすべて打ち明けた。  帝斗にとってその内容は酷く驚くものだったに他ならない。しかも普段はおとなしく、消極的で言いなりになってばかりいるような印象の倫周が、絶対に譲れないという意思の強い瞳で語る様子にもただただ驚かされてしまった。だが帝斗はある意味合点がいったとばかりにホウッと深い溜息をつくと、苦しげに少しの笑みを伴いながらソファを立ち上がり、金色の日差しの差し込む窓辺へと歩み寄った。 「――そう。そんなことがあったの……。ならば尚更どうして僕に相談のひとつもしてくれなかったのかって思うけれど……実際はそんなことできるわけないね? 僕だってお前を無理強いしてきたんだもの。お前の伯父様と似たりよったりのことを強いてきたんだ。いや、僕のしたことの方が数倍酷い扱いだったと思う。そんな人間相手に相談なんてできるわけがないね……」  帝斗は力無くそう言うと、ぼうっと窓の外を見つめながら、やはり苦しげに笑った。 「けれどこれで納得がいったよ。僕は何故――これ程までにお前に執着させられたのか……。どうして見も知らなかった下級生のお前にこんなにも惹かれてやまないのか、その答えがはっきりしたような気がする」  その表情は苦しげでもあり、だがよくよく見ると感情のないような、寂しそうでもあり何かを諦めているようでもあるような――いわば放心に近いような何とも言い難いものだった。  気位の高く、常に威厳の塊りのような普段の彼からは想像も付かないような呆然とした感じだ。倫周はそんな帝斗を見つめたまま、目が離せなかった。 「倫――」 「……はい」 「初めてお前を見た時からね、何故か僕はお前に強烈に惹き付けられてやまなかった。言葉では上手く言えないんだけれど……とにかく傍に置きたくてたまらない、放したくない、そんな衝動に駆られたんだよ。お前はまだ中等部の生徒で僕は高等部にあがったばかりの頃だ。それからは学内で常にお前を捜した。気になって仕方なくて……全校集会やクラブ活動、課外講習、朝礼、休み時間。お前と会えるだろうすべての機会に僕は心逸るのを感じた。気付けばいつでも中等部の集団の中にお前を捜すようになっていて、無意識に追い掛けるようになっていたんだ」 「会長……」 「でも声は掛けられなかった。機会もなかったし、何の接点もないのに高等部の僕が中等部のお前に近付く理由が見つからなくて……黙って見ているしかなかったんだ。だから――僕が高等部の最上級生になって、白帝の生徒会長の座に就いた時には――! 会長権限を屈指してでもお前を傍に置きたい、話をしてみたい、知り合いになりたいと……ずっとそう思い続けてきたんだ」 「会長……」  帝斗のその言葉に倫周は酷く驚き、瞬きさえも忘れたように呆然とソファの上で硬直してしまった。そんなふうに思われていたのかという内容にも驚きを隠せなかったが、ひと言ひと言、言葉を選ぶように発せられる弱々しいその言い回しにも信じられない思いでいっぱいだったからだ。  こんなにも消極的な帝斗を見るのは初めてだった。午後の陽に透ける肌は繊細な陶器のようで、少しでも衝撃を与えれば割れて壊れて散ってしまいそうだ。その頬に掛かる髪は絹糸のように細く、伏目がちの大きな瞳を覆うように長い睫毛が揺れている。薄紅色の唇は開花直後の花びらのようでもあり、改めて彼の整った美しさがひとつひとつ目に付くのが新鮮な衝撃のようにも思えた。  無理強いとはいえ肉体関係という深い間柄に陥っていながらも、そんなことにさえ気付かなかったのが不思議にも思えてくる。裏を返せばそれ程じっくりと彼を見つめたことも向き合ったこともなかったということなのか。とにかく威圧感だけが先立って、彼の顔立ちなどじっくりと眺める余裕も持てなかったということなのだろう。  こんなふうになってみて改めて気付かされる。生徒会長でもなく上級生でもなく、権力とか立場とか余分なフィルターを取り除いてみれば、全くの別人にさえ思えなくもなかった。それは儚いという言葉が似合いな程に脆そうでいて、だが反面、そんな中に見え隠れする意思の強そうな凛とした気高さのようなものが交互するような――酷く曖昧な印象だ。色白の肌に整った目鼻立ちは確かに美しく、思わず溜息がこぼれそうになる。不意にドキドキと心拍数が高鳴り出すような衝動に駆られそうにもなる。  倫周は初めて帝斗というひとりの人間と向き合ったような気がして、酷く不思議なその感覚にしばし呆然となってしまった。だが、その直後に帝斗から告げられた事実は、それまでの驚きなどを当に通り越してしまう衝撃のものとなって倫周を押し包むこととなる。帝斗はゆっくりと窓際を離れソファへと戻ると、倫周と真正面に向き合う形で腰を掛け、静かに口を開いた。 「何故あんなにも……お前に惹かれたのか、その理由が解ったよ。お前と僕は同じだったからだ」  え――――? 「お前が抱えている苦しみが……僕と同じものだから……。いつも寂しそうな瞳をして、心から笑っているところなど見たことがない。どちらかといえば暗い印象のお前に酷く興味をひかれてならなかった。無口で感情を押し殺して……お前はきっと誰にも打ち明けられない悩みを抱え苦しんでいるのだと思えた。お前と僕は同じなんだと……」  同じ――とはどういう意味なのだろう。  今ひとつ曖昧なことを帝斗は繰り返し、だが次の瞬間、何かを決意したように瞳を閉じると、ゆっくりと胸元のボタンを開きながら倫周を見つめた。 「ご覧……」  開かれた襟の中から現れたものを見た瞬間に、倫周は驚きに硬直してしまった。  白い肌の所々に浮かび上がる青紫色の痕、酷い内出血に他ならない。引っ掻き傷のようなものもある。明らかに暴力を受けたと思われる無数の傷痕は、思わず目を背けたくなるようなものだった。  いったいどういうことなのだ。倫周はその傷痕の意味を理解できずに困惑していた。 「こんなふうに扱われることが、どれ程の苦痛かってことを一番解っていたつもりなのに……僕はそれと同じことをお前に強いてきたんだよね。なんてバカな奴だって……今更後悔しても遅いね」  口元から僅かにこぼれる笑みは諦めの徴しなのだろうか、ゾッとする程寂しそうな視線と共に発せられたその言葉に倫周は絶句してしまった。身体中にあると思われる傷痕からしてもそうだが、帝斗の言う『お前と僕とは同じ境遇』という意味が朧気にだが理解できたからだ。  まさか彼も自分と同じような目に遭っているとでもいうのだろうか――。  だが、いったい誰が――?  白帝の生徒会長たる者をそんなふうに扱えるなど余程の権力者なのだろうか。もしかしたら伯父の連れてきた客のような類の相手なのかも知れないと倫周は思った。  如何に良家の子息といえども帝斗だってまだ学生の身だ。ほんの子供に他ならない。そんな彼を自由に操れる大人などは思いの他たくさんいるというわけか――呆然とそんなことを考えている倫周の傍に歩み寄り、すがるようにしながら帝斗は言った。 「僕はただお前と話がしたかった……! お前と知り合いになりたかった。いつも寂しそうな顔をして何かに耐えるような仕草に強烈に惹かれた……! お前ならば僕のこの痛みを解ってくれるかも知れない。お前となら分かち合い、癒し合えるかも知れないと……無意識にそう思っていたのかも知れない……。とにかく僕はどんな手を使ってでも――お前と一緒にいたかったんだ」 「会長………」 「そもそもこういう考えが根本的に間違っていたのかも知れないね。お前を傍に置きたいとか、どんな手を使ってもとか――そんなんじゃなくもっと素直に、ただ友達になりたいって……そう言えばよかっただけなのに……そんな簡単なことができなかったんだ。僕はいつもお前に対して威張ったり、何かを強要したりすることしかできなくて……。挙句は無理矢理あんなことまで……! 何て浅はかだろうね。お前を辱めることで僕は自分の受けた傷を癒そうとしていた。自分がされたことよりも……もっと酷い仕打ちをすることで解放されると思ってた。惨めさを拭ったつもりになっていたんだ」  噛み締めた唇が震え、色白の頬に一筋の涙が伝わっていた。それらを目にした瞬間に、心の奥をギュッと掴まれるような切ない痛みが走って、倫周は自らも唇を噛み締めた。 「お前が川崎の遼二という彼に助けられたのも――もしかしたら偶然ではなかったのかも知れない。だって不思議だろ? お前も僕も同じ人に助けられるだなんて。しかもあの遼二っていう彼は――」  そう言い掛けて、帝斗は一瞬言葉をとめた。ふと、偶然にも重なり合った指先に同じ形の指輪がはめられているのが目に映る。 「遼二の元で世話になっていた間に――紫月にも会ったかい? 彼らは友人なんだろう?」 「――――ッ!?」  突然の問い掛けに、倫周は驚いたように帝斗を見つめた。  そういえばあの紫月という青年も自分や帝斗のしているのと同じ指輪を持っていた。  この指輪は初めて此処、生徒会長室に呼ばれた日に帝斗から譲り受けたものだった。粟津家に代々伝わる家宝だからと差し出されて戸惑ったのも束の間、お前にはこの色が似合うだろうかねなどと言われて、半ば強引にはめられたそれは鮮やかな朱色が奇妙な程の強烈な印象を放っていた。  大きな石が人目をひく、こんなものをはめ続けなければならないのかと憂鬱になったものだ。何よりも『これでお前は僕のモノだという印だね』などと言われて、酷く気重だった。ただでさえ新入生という立場である上に、男には不似合いな目立つアクセサリーなど、倫周にとっては厄介な物に他ならない。案の定、入学当時はこの指輪のせいで上級生同級生を問わずにジロジロと奇異の視線で見つめられたものだ。だがこんなものいりません、はめたくありませんなどとは口が裂けても言えずに今日まできたのだ。  そんな曰くつきの指輪を、あの紫月という青年が持っていたのだから、驚きもひとしおだった。しかも話の様子からすると彼も又、その指輪にまつわる人物を捜しているようではないか。何故、粟津家の家宝だという代物を紫月という青年が所持しているのか、彼と帝斗とは一体どういう間柄なのか、昔からの知り合いなのだろうか。家出同然の定まらない身の上で、目先の身の振りさえどうしていいか分からないこんな時に――まるで弄ばれるように手繰り寄せられた糸と糸とが交差するようで、奇妙な運命のようなものを感じていた。  先ずは紫月と帝斗の関係を把握しなければならない。既に彼の親まで巻き込んで、市役所などにまで相談に連れて行かれて、これ以上彼らに世話になるわけにもいかないだろう。それを遼二に相談しようとしていた矢先のことだった。まさか遼二の家で、今度は帝斗と鉢合わせるだなどと思ってもいなかった倫周にとっては、ここ数日で起きた事柄がすべて夢幻のように思える程だった。 「……会長は紫月君をご存知なのですか……? あの人も指輪を持っていました。僕が戴いたこの指輪と同じので……黒い石のを……」  複雑に絡まる気持ちを抑え切れずにそう訊いた。これまでの倫周であれば、帝斗を相手に質問はおろか自身の気持ちを何ひとつぶつけることなど論外であったろうが、やはり遼二らとの出会いが何かを変えたのだろうか。ともかく気が付いた時にはそう尋ねていた。そんな様子に帝斗の方も一瞬ハッとなったような表情を見せたが、だがすぐに瞳を緩めると、穏やかに倫周の問い掛けに応じたのだった。 「そう、やっぱり会ったんだね紫月に。彼はどんな人だった?」 「どんなって……あの、すごくいい方でした。とても親切にしてもらって……。遼二君も紫月君も、二人共すごく親身になってくれて……」 「――そう」  帝斗はフッと苦笑いのようなものを浮かべると、再び倫周の傍を離れて、窓際へと歩み寄った。 「あのっ、会長!」 「――? ん、何だい?」 「あの……! 紫月君も……会長のことをご存知なのではないですか? 僕の戴いたこの指輪を見てすごく驚いていました。ご自身のことを覚えているかとも訊かれました。小さい頃に会ったことがあるだろうって……。その時に貰ったものだと言って黒い指輪を見せてくれました。でも僕には全然覚えがないし……。僕のことが人違いだと分かると、じゃあこの指輪はどうしたのだと訊かれました。何処かで買ったのか、それとも誰かに貰ったのかと問い詰められて」 「紫月が……そんなことを……」 「紫月君は幼い頃に指輪をくれたその少年を捜しているようでした。すごく真剣で……今どうしているか知りたいとも言っていました」 「――そう」 「あの……お知り合いなのですか? 会長が、その時の……紫月君にあの黒い指輪を渡した……」  ――少年なのですか?  そう訊こうとした矢先だった。窓辺にコツリと額を付けて、軽くもたれながら帝斗は倫周を振り返った。 「隠しても仕方ないことだ。僕も本当のことを言わなきゃいけないね?」  その言葉に、倫周はゴクリと喉を鳴らしそうになって、慌てて吐息ごと呑み込んだ。  ――心は逸っていた。  複雑に絡み合っていた綾と綾とが解けるようで、心臓がドキドキと音を増していくのが分かった。 ◇    ◇    ◇

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