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第63話 遠い日の秘密 

「――紫月と会ったのはまだほんの子供の頃だ。あれは、とある夏休みのことだった」  粟津家の男子に生まれた者は、修業につく年齢になると”四神の指輪”という家宝を譲り受けることがしきたりになっていて、だからより鮮明に覚えているんだと帝斗は言った。 「紫月と会った日の前の晩に父から家宝のその指輪を貰った僕は、うれしさのあまり、それを肌身から離す気になれなかった。四色で一対になった真新しい指輪――父が僕の為に新調してくれた物だった。僕が成長し、大人になる過程で出会うだろう様々な人々の中で、自分にとって最も大切だと思える相手に巡り会えた時にこの指輪を友好の証として贈りなさいと、そう教わった」  まだ幼かった帝斗には、とても興味を惹かれるワクワクとしたファンタジー物語のような話だった。そんな中、では父がどんな人に指輪をあげたのか興味が湧いた帝斗は、それを尋ねた。すると父は、『父様が指輪をあげたのはね。今、父様の秘書をしてくれている人と母様だよ。秘書の人には青い色のを、そして母様には赤い色の指輪をあげたのだよ』と、言った。残りの白い指輪は『父様自身がいつもはめているだろう?』と言って、父は手を差し出して見せてくれたのだという。 「指輪は全部で四つだ。赤、青、白、そして黒色の四色。ではもうひとつ残った黒い指輪はどうしたのかと僕が訊くと、『それはまだあげる人が見つからないんだよ』と言って父は笑った。僕は不思議に思ったが、すぐにその意味に気が付いたんだ」  つまり、人生の中で家宝であるこの指輪を託せるくらい大切に思える相手にどれだけ出会えるかという印のひとつでもあるのではないかと思ったのだという。 「とにかくその指輪を受け継いだ瞬間に、なんとなく大人になれたような気がして……ひどくうれしかったんだ。自分も粟津家の男子として認められた証を得られたようで、すごくうれしくて――。その晩は枕元に置いて寝た。次の日も一度は金庫に入れたものの、やはり心配で肌身から離すことをためらった僕は、従兄たちと共にボート遊びに行く際にもこっそりとポシェットにしまって持ち歩いた。まさかその日の内に指輪のひとつを託したい、預けたい、その人に是非持ってもらいたいと思う人物に巡り会うなどとは思いもしなかったけれど、それも運命だったのだろうかね。そこで出会った少年が紫月だったんだ――」  まるで独白文を読むような、ともすれば他人事のナレーションをするような何とも言い難い口調で、帝斗は当時のことを打ち明けた。――話したというよりも途切れ途切れにつぶやいたといった方がいいかも知れない。倫周は心逸らせながら聞き入り、高鳴る心拍数を必死で抑えようとしていた。  帝斗は紫月という青年に会った当時のことを粗方話し終えると、一度ホウっと深い溜息のようなものをつき、意を決したようにして核心へと話題を振った。 「その時、僕はまだほんの子供――。暑かった夏休みだったというのはよく覚えている……。従兄たちは三人兄弟で……一番上の兄は高校生、あとは中学生と小学校の高学年だった。一緒に遊びに行ったボート小屋でね、僕は従兄たちに悪戯をされ掛かったんだ。……言っている意味は……解るかい……?」  倫周は無論、返答の言葉など返せるわけはなかった。言葉は詰まり、だが視線は帝斗から外すことも出来ずに金縛りのような状態で硬直するしかできない。だがそれがごく当然の反応だろうというように、構わず帝斗は先を続けた。 「そこへ偶然通り掛った紫月に助けてもらったんだよ。紫月はどう見ても僕と同じ年くらいの子供だった。でも彼はとても正義感が強くて、中高生にもなる従兄たちを目の前にしても動じずにボート小屋へ飛び込んで来てくれたんだ」 「…………」 「その瞬間のことははっきり言ってよく覚えてはいない。気が付いたら従兄たちは小屋から逃げてしまっていて、『もう大丈夫だから』という紫月の声でようやく我に返ったんだ。紫月は言ったよ。今度こんなことしたらあいつらをぶっ飛ばしてやるって。二度とこんなことしないように痛めつけてやったから安心しろって、そう言った。そのあまりの勇敢さに驚き、感動した僕は、従兄たちから受けた仕打ちを忘れるくらい感銘を受けたんだ」  子供心に胸が震えるような感じで、この人が僕の人生でとても大切な存在であるのだと感じた――と帝斗は言った。 「本能、とでもいうのだろうかね。僕は咄嗟に前の晩に父から譲り受けたばかりの指輪を彼にこそ持ってもらいたいと、そう思ったんだ。何色の指輪をあげればいいのか迷った僕は、彼に好きなのを選んでくれと言った。不思議とそれだけは鮮明に覚えているんだ」  そして、紫月が選んだのは何と黒い指輪だった。それを見た瞬間、帝斗は前の晩の父の話を思い出したのだそうだ。  『青いのを秘書に、赤いのは母様にあげたのだよ』――と言った父の言葉を。と同時に、『黒は未だにあげる人が見つからないんだ』と笑った父の笑顔がはっきりと脳裏に浮かんだ。 「偶然とはいえ黒を選んで取った紫月に不思議な縁を感じたんだ。やはりこの人は僕にとって大切な相手であるに違いないと、幼心に確信した。その後、しばらくして僕を迎えに来た両親の呼ぶ声ですぐに紫月は帰ってしまったけれど、彼との出会いは従兄たちにされた恐怖の出来事をすっかり忘れさせてくれたんだ。嫌な記憶を塗り替えてしまう程に感動的だった。衝撃的だったといっても過言じゃないくらいに僕の中でとても大切な思い出として残ったんだ」  少し伏目がちに記憶を辿る帝斗の頬が僅かに紅潮しているように見えたのは傾きかけた午後の日差しのせいだろうか、話している衝撃の内容とは裏腹な、甘やかともいえるその表情にますます心逸らせながら、倫周は未だ硬直状態のまま帝斗から視線を外せないでいた。  そんな倫周を他所に、帝斗は言葉をとめることなく衝撃の告白を続けた。 「紫月との出会いは鮮明で強烈で、その日の従兄たちとの嫌な出来事を忘れさせるに充分だった。僕も幼かったし、記憶はみるみると薄れていったんだ。従兄の方も出来心だったのだろう、その後は顔を合わせても気まずいといった調子で、疎遠になっていった。それまでのように一緒に遊ぶ機会もめっきり減って――だからしばらくは何事もなかったように過ぎていったんだ。けれど……僕が完全にその時のことを忘れた頃――あれは中等部に入って少し経った頃だった。一番年上の従兄が僕を訪ねて来たのは……」  そこまで話して帝斗は苦々しげに唇を噛み締めた。衝撃の告白に、倫周の方も同様に瞳を震わせながら話の続きを待つ。 「三人の従兄の内、下の二人とは相変わらずに疎遠だった。けれど一番上の兄は違った。まるで僕が成育するのを待っていたとばかりに……あの時のことをほじくり返して……! 忘れもしないよ……あいつが久しぶりに会った僕に言った第一声――何だと思うかい?」 「…………」 「お前もそろそろ自慰を覚えた頃じゃないのか――って、気持ちの悪い笑いを浮かべながらそう言った。実際はもっと下品な言い回しだったよ。幼いながらも顔から火が出るくらい恥ずかしいと思ったのをよく覚えてる。それをきっかけに僕はあの湖での出来事を思い出してしまった……。あの頃は小さくてよく分からなかったけれど……どういう意味で従兄たちが僕にあんなことをしたのかっていうのも理解できるようになっていて――」  幼き日のあの”悪戯”が、性的な意味での興味だったのだと気付いた帝斗は、従兄と会う度に話題を反らし、ヘンな雰囲気にならないようにと神経をすり減らしてきたのだという。そんな帝斗の態度に業を煮やしたわけか、従兄というその男は次第に暴力を振るうようになっていった。いわゆる性的な暴力から力での暴力へと形を変えていったわけだ。 「けれど、僕にとってはその方が有り難かった。いかがわしいことをされるよりは……ただ殴られたり蹴られたりする方がよほどマシだと思えたからね」 「……そんなッ……!」  倫周も思わず大きな声を上げてしまったほど、酷い話だった。 「僕が思うようにならないと知ると、あいつは……粟津家の後継を譲るようにと迫ってきたんだ。僕が後継を辞退すれば、暴力もやめてやるからって――。親にも言えない。誰にも……言えない。助けてくれる他人なんかいない……! 情けなかったよ……。何もかもが嫌になって、あいつさえいなくなればいいと思った。それだけを毎日望んでた。それ以上に自分が情けなくて仕方なかった。どうして僕は逆らえないのか、あいつの何がそんなに怖いのか、けれどどうしようもないんだ。あいつを前にすると……僕はいつも萎縮して……怯えて何もできなくなる。言いなりになるしか……その場を堪えて時が過ぎてくれるのを待つしか方法がなかった」  震える告白と共に、色白の頬に幾筋もの涙が伝わっていた。

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