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第34話 不穏
さすがに自宅まで戻ってしまっては、別の意味で始末が悪い。こんな時間に早退してきたと知られれば、どこか具合でも悪くしたのかと執事ら家の者に余計な気遣いをさせることになるのは目に見えている。それ以前にこの顔の傷の言い訳も面倒だ。
帝斗は裏庭の出口まで辿り着くと、人目を忍ぶようにして、普段は殆ど出入りのない蔵の中へと身を潜めることにした。
蔵とはいっても実際はほぼ物置である。昔使われていたアンティークな古い家具などが収納されているだけなので、よほどの用がなければ誰も寄り付かない場所だ。とはいえ建物自体は凝った造りで、寝泊まりや、必要であれば食事などにも対応できるようにはなっていた。
吹き抜けのロビーを取り巻くように、両脇に巡らされた階段を登り、二階の居室へと辿り着くと、ようやくとホッとしたように帝斗はソファへと腰を落ち着けた。
そのままウトウトとし、遂には深い眠りに陥ってしまったのか、気付いた時は午後の陽が傾きだした頃だった。
「――! そうだ、倫……!」
ガバッと身を起こし、時計塔にあのまま倫周を置き去りにしてきてしまったことを思い出した。気を失ってしまった彼を丁寧に寝かし付け、自らの着ていた制服のシャツを脱いで彼に着せてきた。倫周のものは引き裂いてしまったからだ。
そして、時計技師の部屋にあったクローゼットから適当な服をつくろって、そのまま時計塔を後にした。あの時は気分がめちゃくちゃに乱れて不安定だったので、正直、倫周を一人残してきてしまうことになど頭が回らなかった。が、少し冷静さを取り戻した今になって、不安が過ぎる。
彼はあの後どうしただろうか。もう目を覚ましただろうか。そしておそらく授業には出ずに早退でもしてしまったのではないか。
次から次へと浮かんでくる様々な想像に心は乱れた。
「やはり様子を見に行こう……」
立ち上がろうとして、頬の痛みに手をかざした。痛みというよりも、酷く熱を持っているふうな感覚である。帝斗は一応鏡で傷の具合を確かめようとした――その時だった。ふいに部屋の扉が開かれたのに驚いて、ギョッとしたように後方を振り返った。
この部屋は入ってすぐのところに室内が丸見えにならないようにと、衝立てのようなパーテーションで区切られているので、来訪者が直に見えない造りになっている。
「誰――!? 誰かいるのか……?」
此処には滅多なことでない限り、家の者は寄り付かない。使用人たちも然りだ。怪訝な思いで扉口の方を窺う帝斗の視界に飛び込んできたのは、この世で最も会いたくない一人の男の姿だった。
「よう、帝斗。会長室に居ねえから捜したんだぜ。お前、こんなところでおサボリか? 随分とまたいい身分だな」
嫌味たっぷりに口元をひん曲げてそう言う男は、昨日も帝斗を訪ねてきた従兄の粟津帝仁であった。倫周のことを所望したというのは、何を隠そう、この男だ。
男は帝斗を見るなり頬の腫れに気付いたのか、
「何だ、飼い猫にでも引っ掻かれたのか?」
下卑た笑いを浮かべながら、いきなり帝斗の顎先を乱暴に掴み上げながら訊いた。
「や……ッ、放……」
『放せ』と言いたかった言葉を呑み込んで、途中でとめた。言った後の仕打ちを知っているからだ。
「これを付けたのは昨日の下級生とやらか? あの綺麗なボウズはお前の想い者ってわけか」
グリグリと顎から頬にかけて指痕が付くくらいに強い勢いで掴み上げられて、唇も曲がって思うようにしゃべれないくらいだ。
「お前、連休にはあの下級生をバリ島にまで連れて行ったそうだな。俺が知らねえとでも思ってたか?」
「……ち、違っ……あれは生徒会の研修で……」
「嘘をついたってダメだ。ちゃんと調べは付いてるんだ」
「嘘……なんか……」
「お前、まさかと思うが……バリ島であいつとヤりまくったりしてたってわけか?」
言うが早いか、掴んでいた顎先を思い切りねじり上げられて、そのまま床へと突き飛ばされた。
「……ッう……!」
「随分と綺麗なボウズだから美味い思いができるかと期待すりゃ、生意気にも『あの子に手を出すな』なんて格好つけやがったよなぁ? つまりは何だ、あいつはお前のものだから俺には貸せねえってわけだ」
床に突っ伏した身体を靴で転がされるようにしながらそう言われて、帝斗は身じろぎひとつできずにいた。
今にも腹を蹴り上げられそうで、ガクガクと全身が震える。蒼白な顔は恐怖におののき、瞬きさえままならなかった。
「一丁前に下級生に手を出して、騎士気取りかよ? 俺には鼻も引っ掛けねえくせに、てめえはちゃっかり上玉で遊び放題か!」
この従兄、帝仁が帝斗の部屋の前で倫周を見掛けたのは昨日の放課後のことだった。
ゴールデンウィーク中に誕生日を迎えるこの男は、毎年連休の時期に親族や知人を集めて宴を催すのが恒例となっていた。帝斗はその席に顔を出したくないが為にバリ島への旅行を決めたのだ。それに腹を立てた男が、帝斗に会いに学園にまで出向いて来たのが昨日のこと――運悪く、いつものように会長室を訪れようとしていた倫周と鉢合わせてしまったわけである。
男はひと目見て倫周を気に入り、帝斗にあの下級生で遊ばせろと言ってきたのだった。
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