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第36話 やっと気付いた想い
――時計塔が終業時刻を告げる。
朝からのどんよりとした霧空はすっかりと晴れ、眩しいほどの夕陽が見事なステンドグラスの窓をより一層鮮やかに照らし出していた。
今時分になってようやくと目を覚ました倫周は、自らの置かれている状況を理解するまでに少しの時間を有していた。
見慣れない部屋に不安を覚え、ふと視線をやった先に自身の制服のブレザーがハンガーに掛けられているのに気が付いて、ガバッと身を起こした。
「……ここは一体……? 僕はどうして……」
意識がはっきりとしてくる毎に、朝からの記憶も鮮明に蘇る――
「……! そうだ、会長……」
部屋を見渡したが人の気配はない。無論、帝斗の姿も見当たらなかった。
もうこんな時分だし、とっくに授業に向かったのだろうとも思ったが、それ以前に自らが付けてしまった引っ掻き傷の様子が気に掛かってならない。正直なところ、うろ覚えではあるが、相当に目立つ痕が残っているはずだ。手当てをしたとしても、周囲からはどうしたんだと質問攻めにあうことだろう。
「どうしよう……とんでもないことをしてしまった……」
とにかく帝斗に会って謝罪しなければならない。会うのが怖いだの気重だなどと言っていられる場合でない。
手元の時計を見れば、ちょうど下校時刻だ。いつもならば帝斗に会いに生徒会室へと向かう時間帯である。倫周は急ぎベッドから降りると、ハンガーからブレザーを取り、身支度を調えようとした――その時だった。
「あ……れ? 僕のブラウス……」
確か、帝斗によって引き裂かれたはずのブラウスを、何事もなかったかのようにきちんと着ていることに気が付いた。
おかしい――
多少気味悪く思いながら自らのブラウスを確かめる。都合良く半身を写せる鏡が設えてあったので、その前に立つとどこそこサイズの大きいことに驚いた。
「まさか……会長が……これを?」
帝斗は倫周よりも少々上背もあり、筋肉もある。ではやはり帝斗が着せていってくれたということなのだろうか。何だか堪らない思いに押されるように、倫周は生徒会長室へと急いだ。
◇ ◇ ◇
もうすっかりと陽の落ちてしまった帰路を、トボトボと歩いていた。
あの後、会長室を訪ねたが帝斗の姿はなかった。鍵は開いていたので室内を覗いたが、灯りは消えていて、ここ数時間は人の気配があった様子もない。おそらく帝斗は今日は会長室へと顔を出さずに帰ってしまったのだろう。もしかしたら自分が付けた引っ掻き傷のせいで早退してしまったのかも知れない。
――静まり返った部屋に独りきり、訳もなく胸が締め付けられてならない。
普段は帝斗がいて、あの綺麗な顔で優しげに微笑み掛けてくれる。美味しい紅茶を淹れてくれたり、上品な音楽を聴かせてくれたりもする。それらを思い返せば、ますます胸が苦しくなっていくようだった。
今まで当たり前にあったものが突如消えてしまうことの喪失感が堪らなかった。つい昨日まではここへ来ることが気重に思えていたはずなのに、今はどうだ。
『倫、僕はね、お前のことが好きなんだ――大好きなんだよ』
そう言って微笑む帝斗の姿が浮かんでは消え、その品のいいテノールの声を思い出せば涙がこぼれそうになった。それと共に、入学式からこれまで一緒に過ごしたひと時ひと時が蘇る――。
会長室のソファに腰掛けたまま、倫周はしばし此処から立ち上がることができなかった。
確かに帝斗は強引なところもある。男同士であるに係わらず恋人になりたいと言われ、肉体関係まで迫られて、それは確かに驚愕であり困惑させられたことに違いはない。だが、帝斗はいつも紳士的で優しかった。”強引”という面に関しても、裏を返せばとびきり”素直”な気持ちそのものであるようにも思えてならない。
倫周は切なげに瞳を揺らした。自分自身の両腕で自らを抱き包むようにしながら、ジワジワと滲んでくる涙腺を抑えるように顔を埋める。
「……帝斗……帝斗、帝斗……ごめんなさい。ごめんなさい――」
――僕は今までどれだけあなたに良くしてもらっていたか、気付けなかった。考えようともしなかった――
ただ恐ろしくて、不安で――会長の側付きなどという大役に抜擢されたことで敵視されたり嫌がらせをされたりするのは、自分にこんな役を押し付けた”会長”のせいだと思っていた。こんな抜擢さえされなかったら、平凡で穏やかな学園生活を送れていたのにと恨みに思ったことも無かったわけじゃない。今更ながら、倫周は自身の身勝手さを悔やむ気持ちでいっぱいになっていた。
ふと見上げれば、窓枠に夕陽の赤が反射していた。もう沈み切る寸前の”赤”だ。その景色を横目にしながら、薄暗い部屋の中で倫周は何かを決意したかのように立ち上がった。
そうだ、これからでも遅くはない。帝斗に会いに行こう。
自宅にまで訪ねて行くのは気が引けないでもない。何しろ粟津家といえば、学園内だけで名を轟かせているわけではない、国内でも五本の指に入る程の大財閥だ。おいそれ気軽に遊びに行くという感覚ではないだろう。だが、どうしても直接帝斗に会って、きちんと顔を見て謝りたい。
彼の顔に傷を付けてしまったことを先ず謝罪して、今まで一緒に過ごさせてもらえたことへの感謝の意をも伝えたい。
そうだ。一旦自宅へと戻り、着替えたら、お見舞いの花束を選んで帝斗を訪ねよう――!
あふれる思いを胸に、倫周は頬を紅潮させながら足早に家路を急いだ。
――遠くに見えてくる自宅の門柱には、既に灯りが点っている。急ぎ足で駆け出したその先に、高揚する気持ちとは真逆の、過酷な出来事が待っているなどとは思いもしないまま、倫周は逸る思いでその門をくぐったのだった。
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