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第37話 巣窟

「お帰り倫周っ! 遅かったじゃないか……! 心配していたのだよ」  まるで猫撫で声でそう迎え入れたのは、もう初老の男性である。見たところ父親のようなその男は、さも不安そうな声でそう言うと、少々慌てたように倫周へと駆け寄って来た。 「待っていたよ倫周。今日は随分遅いから心配して……」  そう言い掛けて、ふと目に付いた倫周の首筋に痣のような痕を見付けると、驚いたように目を見開いた。 「お前っ……! 何だいこれは!? どうしたっていうんだ――ちょっとよくお見せ!」  慌てて倫周の腕を掴んで玄関の灯りの下へと連れてくると、覗き込むように身を屈めて更に大袈裟な声をあげた。 「酷い内出血じゃないか――! 学園で何かあったのかい?」  オロオロとあちこちを覗き込むその様子に、倫周は不安げに瞳を揺らした。首筋に内出血があるなど自分では気付かなかったが、もしかしたら今朝方の帝斗との絡みの最中にどこかぶつけたのかも知れないと思った。それ以外は思い当たらないからだ。  詳しく問いただされても困るので、倫周は咄嗟に嘘を口にした。 「大丈夫ですお父さん……。今日ちょっと乗馬倶楽部で失敗をしてしまって……」 「乗馬倶楽部だって? お前の所属している部活動のことかい?」 「……はい、そうです。僕が……その、馬の扱いを間違えて軽い落馬のようなことになってしまって」 「落馬だってっ!? 大丈夫なのかい、お前……!」  慌てる男に倫周はうつむいた。元々、嘘をつくなど慣れていない。これ以上根掘り葉掘り訊かれれば、ボロが出てしまいそうでハラハラとしていた。 「大丈夫……です。そんなに大したことではありませんでしたし……。ご心配をお掛けしてご免なさいお父さん……」 「ううん、いいんだよ。そうかい、大したことはないんだね?」 「はい、お父――いえ……伯父さん……」 「そうかい、それならよかった、安心したよ。お前に何かあったら伯父さんは困ってしまうところだった」  ”伯父”というその男は、安堵したように極端とも思える大きな溜め息をつくと、今度は打って変わって笑みを讃え、丁寧に倫周の肩先を抱き寄せながら、広い玄関の中へと誘ったのだった。そしてにっこりと満面の笑みを見せると、辺りを気遣うように倫周の耳元へと口を寄せた。 「とにかく大したことにならなくて良かったよ。ちょっとこの痣が気にならないともいえないが、まあこれくらいは致し方ないかね?」  気味の悪いくらいに気遣われる素振りに、倫周は嫌な予感が過ぎるのを感じていた。 「実はね、倫周。今宵は特別に大事なお客様をお招きしているんだよ。伯父さんにとっては、それはそれは大切な御方でね。その方が是非お前に会ってみたいって御所望なんだ」  やはりか――! 思った通りだ―― 「どうだね倫周? いつもみたいに伯父さんに協力してくれるね?」  その言葉に倫周は瞬時に身を固くした。 「――――」  即答できずにいる倫周の様子に、伯父と名乗った男は口元に僅かな笑みを浮かべると、今の今までの猫撫で声に更に輪をかけるようにしながら、その態度とは裏腹な言葉を浴びせ掛けてきた。 「解っているね倫周? 伯父さんの立場を悪くすればお前にとっても困ることになるんだよ? この大きな家も何不自由のない生活も、それに名門といわれているお前の通う学園の費用だって……誰が出しているのか承知のことだね?」  上辺だけは丁寧でやさしい言葉使い、だが脅迫するような鋭い眼光が逆らうことは許さないと云っている。うなずかざるを得なかった。 「そうか、そうか、会ってくれるか! いい子だ倫周。いつものように上手くやってくれればいいんだ。何も難しいことはないんだからね」  伯父はそれだけ言うと善は急げとばかりに、パンパンと大袈裟なくらいに手を叩いて使用人達を呼び集める。 「さあ、皆! お坊ちゃまがお帰りになったぞ! お風呂とお召し替えのご用意を急ぐんだ!」  そそくさと支度を急がせる伯父の後ろ姿を目にしながら、倫周はうつむき、密かに唇を噛み締めた。  まるで一部屋もあるかと思うような広大な玄関で靴を脱げば、すかさずメイドの女性が室内履きを差し出してくる。すぐに別のメイドが学生鞄を受け取りにやって来て、深々と頭を下げてよこす。吹き抜けのロビーには豪華なシャンデリア、廊下には足が沈むのではと思うくらい毛足の長い絨毯が敷かれ、各部屋の扉には凝った彫りが施されている。 「倫周坊ちゃま、どうぞこちらへ。お湯のお支度ができております」  また別のメイドに導かれるようにして通された浴室には、ジャグジー付きの広々とした湯船にバスソルトがいい香りを放っている――。  外観だけは立派過ぎる程のこの邸に、倫周の翳りある性格の根源は巣食っていたのである。

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