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第50話 苦悩と希望と
一方、倫周が川崎の遼二の家で帝斗に想いを馳せていた頃、当の帝斗自身もまた苦渋の只中にあった。訪ねてきた従兄の粟津帝仁に恐喝を受け、後継を譲れという彼の条件に返事を渋っていると、終には暴力に訴えられた。少しでも抵抗しようものなら殴られ蹴られの暴行が容赦なく、おとなしく男の怒りが鎮まるまでの間を耐えるしか術はない。強く反抗をすれば、まかり間違って男の思考が淫猥な方向へと向かないとも限らない。それよりはまだ暴力を振るわれる方がマシだといえる。帝斗にできることは、この悪夢のような時間が早く終わってくれることを唯々願うのみだった。
そうして、散々に暴行を繰り返すと、男は『次までに後継を辞退するという署名入りの証を用意しておけ』と言い残して去って行った。
身体が自分のものであるような、ないような放心状態の中、もはやここが何処で自分が誰なのかすら考えることが億劫だ。家に帰れば痣や怪我のことについて使用人たちが大騒ぎとなるだろうことも避けては通れないだろう。ただひとつ幸いだったのは、朝方に倫周が付けた引っ掻き傷が、帝仁の暴行によって目立たなくなったということくらいか――。
そんな状態の中で、帝斗は脳裏に浮かぶ遥か昔の子供の頃の記憶を追い掛けていた。
そう――あれは緑萌ゆる美しい季節のことだった。
『もう二度とお前にこんなことしねえように言っといてやったから――心配すんな』
自身を覗き込みながら真剣な眼差しでそう言った少年の、しっかりとした声音が頭の中で響いては消える――
『いつまでも泣いてんじゃねえよ。お前、男だろ――! 今度こんなことされたら、ちゃんと嫌だって言って立ち向かうんだぞ!』
そんなこと、僕にはとても無理だよ……。僕はキミのように強くはないもの。
『だったら強くなるようにがんばれよ! あんな奴らに屈することなんかねえんだ』
相手はキミや僕よりも大きなお兄ちゃんたちなんだよ?
言うことを聞かないとぶたれたり蹴られたり……そんなの怖くてたまらないもの……。
どうしてキミはそんなに強くなれるの?
『俺だって別に強いわけじゃねえよ。けど、何も悪いことしてないのに、いいように虐められるだけなんて我慢できねえしさ。それに、悪い奴らを野放しにするなんて腹立つだろ? だったら立ち向かうしかねえじゃん。相手が大きいか小さいかなんて関係ねえよ』
キミ、本当に強いんだね。僕もキミのようになりたい。僕と――友達になってくれる?
友達になってくれる――?
そう言ったこちらの言葉に少し驚いたふうにしながらも、頬を赤らめ、照れたようにソッポを向いて、それでも『いいぜ』と言ってくれた少年の姿が脳裏を巡っては消えていく。
まだ自分とさして変わらぬ小さな子供のくせに、凛とした強い意志を持った視線が印象的だった。自分も彼のようになりたいと思った。同じ男児として憧れた。
幼い日に出会った一人の少年の面影を――今はもう鮮明に思い出すことはできない。ただ、大きな瞳がキラキラとしていて、とても頼りがいがある格好いい雄姿だけが強い印象として残っていた。
「キミは……今頃どこでどうしている……んだろうね……。僕は今も……あの頃と全く変わることができないままだ。強くもなれず、立ち向かうこともできず……こそこそと逃げ回ってばかり。それも遂に終わりさ。とうとう逃げ切ることもできなくなって、この様だよ。父様から託された粟津家の未来も……手放さなければならないかも知れない。こんな僕のことなんて、キミはもう忘れてしまっただろうね……」
一筋の涙が頬を伝えば、引っ掻かれた傷痕がピリリと沁みた。今朝方、倫周によって付けられた痕だ。
「ごめんよ、倫……。僕は……大事なお前にさえ八つ当たりをしてしまった……。帝仁からお前を守る為に受けた嫌な思いを消したくて……まかり間違ってあんな男とどうにかなる前にお前と結ばれることを強く望んだ。お前の気持ちも考えないで……既成事実を作ってしまうことで自分を保とうとしたんだ……。こんな弱い僕……あの時の少年が見たら笑うだろうか。それとも……軽蔑するだろうかね」
自嘲気味に笑った口元にも涙の雫が伝い落ちる。ようやくと解放された苦渋の時間から立ち直ることもできないまま、帝斗はしばらく放心した人形のように呆然と天井を眺めていた。
◇ ◇ ◇
それから数日後――帝斗の方の状況など知る由もない倫周は、遼二らのあたたかい理解に包まれながら、すっかり起きて動けるくらいに快復していた。
隣のおやっさんに診察してもらいやすいようにと、とりあえずは遼二の家で寝泊まりをしていたので、彼の両親とも随分と打ち解けて懇意になった。無論、最初は家や学園に知らせなくていいのかと心配顔だった親たちも、倫周の抱える事情を知るとひどく同情し、一緒になってこれからのことに頭を悩ませてくれたくらいだった。
今まで自身を育ててくれた伯父と違って言葉遣いなどはぶっきらぼうだが、真にあたたかい感情とはこういうことをいうのだろうと体感した倫周は、見るもの聞くものすべてに心が震えるような感動を覚えていた。伯父が自分に与えてきた偽りの微笑みなどではなく、本心から憤ったり心配したり、励ましたり支え合ったり――こんな人々に囲まれてこれからの人生を生きてきたい、倫周は強くそう思うようになっていた。
そして、今日からは遼二の家を一旦離れて、紫月の方の家に泊めてくれるという好意に甘える予定である。遼二と紫月、双方の父親たちが倫周の今後についてどうしたらいいかということも模索してくれていて、近日中に市の職員に相談に行こうかなどと具体案を考えてくれていたのだった。
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