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第11話 函の智

「あ、あ、あん、ふっとぉ、い……」 「ゆるいなぁ、濡れてもガバガバだ」 「ひゃっ、あ、あ、あ、あー……」  背後からは卑猥な音とΩの絶叫に似た嬌声が耳を塞ぎたくなるほど聞こえる。  そんな中で、黒髪の男はぐったりと俯いて項垂れていた。 だ、大丈夫なのか……? 具合が悪いのか? それともこいつもヒートなのか…? 「……はぁ、ッ……!」  男は熱い吐息を吐きながら、静かに悶える。 「だ、大丈夫ですか……?」  放っておくわけにもいかず、心配そうに寄り添うと相手は重い身体を沈めてくる。体格は大きく、水樹と同じぐらいだ。  ん、この顔は……?  どこかで見覚えのある涼やかで端正整う顔立ち。水樹よりも少し長い髪は濡れた額に張り付き、苦しげに息を吐く。その様子をじっと見つめながら記憶を辿り、アリスは脳内イケメンリストを捲った。  わかった。  門倉 健(かどくら けん)。  父親が警視庁長官であるエリート一家の三男。長男は検察官、次男はキャリア警察官で全てにおいて輝かしい功績を残している一家だ。対して三男の門倉は無表情、無口で害はないが、何を考えているのか分からない。そして番への理想が高いのか、親衛隊から捧げられたΩは返却し続け、Ωは要らないと水樹と同様断った伝説を持つ。 「……っ……ぁっ……!」  門倉は気持ち悪そうに息を吐き、さらに浅い呼吸を繰り返す。 (あ、こいつ吐きそう。やばいな、水しかない……)  アリスは鞄から水を出してブレザーを脱ぐ。そして制服を門倉の膝に乗せて背中をさすった。 「ほら、吐いたら楽になるよ……」  小声で言うと、門倉はふるふると首を振り、アリスは母親のように優しく背中を撫でてやった。  本棚を挟んだ向こうでは、二人はまだ絶頂に達しそうで、なんとも言えない構図だ。  はぁ、朝から災難だ。いや、前からか……。  水樹に無理矢理セフレにされ、西園寺には襲われかけ、如月のセックスまで見せられる。F4αにはろくな奴がいない。傲慢、横暴、自己中、冷酷、そんな言葉しか思い浮かばない。  背中を摩りながらそんな事をもやもや考えていると、門倉は新品のブレザーへ唐突に吐いた。吐瀉物が二回吐かれ、ブレザーの端で口を拭いてやると幾分かスッキリしたようだ。  そして向こうにいた如月はすでに絶頂に達し、用を済ませたようで図書室を出て行ったらしく、辺りは静まり返った。 「……すまない。せっかくの制服を汚した」  門倉は額に汗を浮かべ、頭を下げた。αにして珍しく腰が低く驚いてしまう。 (すごい、あのF4αが俺に頭を下げてる)  寧ろ、αがβに頭を下げるなんて初めて見た。  世界初なんじゃないか?と思うほど、少し感動を覚える自分がいた。 「い、いいよ。どうせ汚れるし……」  卸ろした即日に泥にまみれた事もあったので、汚れるなんて日常茶飯事だ。 「……制服、弁償する。……確かアリスだよな、水樹の恋人のアリス」 「ち、違う! 恋人じゃない! 幼馴染だ!」  な、なんで水樹の恋人なんだ。どういう見方をすれば、そうなる。  恋人という言葉にカッとアリスの身体が熱くなった。 「……そうなのか? いつも水樹がアリス、アリス言ってたからな。悪い」  憂いを帯びた表情で門倉は微笑んだ。水樹と同じ黒髪だが、柔らかな黒髪が少し乱れて色気を感じる。 「い、いいよ。それより体調大丈夫か? 水飲めよ、ほら。」 「……ありがとう。吐いたら楽になった。……俺、Ωのヒートの匂いが駄目なんだ。ヒート酔いというか、とにかく気持ち悪い。」  (ヒート酔い?)  αはΩのヒート中の匂いに反応するのが通常だが、Ωの匂いが駄目なαなんて初めて聞いた。 「そんなのあるの?」  吐いた制服を包んで丸めながら、アリスは門倉に聞く。門倉は水を飲みながら溜息をついた。 「昔から駄目なんだ。今日も電車でヒート中のΩに遭遇してしまって、ここで休んでたんだ。そうしたら、如月の奴がやってきて気分がさらに悪くなった」 (か、可哀想に)  友達のセックスでさらに気持ち悪さは増したであろう、門倉に深く同情した。 窓を開けているのか、暖かい風が頬を掠める。 「……それじゃあ、Ωと(つがえ)ないじゃん」  門倉には申し訳ないが、率直な感想が口から出てしまう。  この人、どういう風に生きていくんだろう。番がいないαなんて可哀想だ。  水樹は知らないが、西園寺も如月もΩとセックスはしている。 「そうだよ、俺に番なんて出来ない。……その前に童貞だしな」 「えっ! あっ! うそ…っ!?」  あのF4αの中に童貞?  確かに門倉は親衛隊から捧げられたΩを断り続けている。 「……悪いかよ。相手がいないんだから、しょうがないだろ」  恥ずかしそうに顔を背け、真っ赤になっていく門倉をまじまじと見つめる。ペットボトルの水はあっという間に空になっている。  か、可愛い。  初めてαに可愛いという感情が生まれた。

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