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第39話 呵責と悔悟1
「アリスー! あんた、そろそろ起きなさい!」
喉の渇きを覚えるのと同時に、アリスは母親の雄叫びで飛び起きた。
どこにでもある大田区蒲田らへんのはしっこ、多摩川沿いの瀟洒 な佇まい、こと三十坪ほどの木造建売住宅が揺れる。外は寒く、部屋はエアコンのからからに乾いた生暖かい空気で充満していた。窓からは穏やかな午後の日差しが差し込み、庭先の冬枯れの木立が見える。
もう夕方かよ……
携帯を手にしながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。瞼の裏にはまだ眠気がこびりついて、だらしない平凡な顔が携帯画面に鏡のように映り込む。額に傷をつけたその翌日、珍しく熱を出し学園を一週間ほど休んだ。寝ながらBABOO知恵袋に投稿しては一人悶々と悩み、どうしようかと鬱々と過ごす日々を送る。
それでも水樹に無性に会いたくてたまらない。自分勝手なのは分かっている。時間が経つほど、思いは募るばかりだった。
俺は馬鹿だ……。
「あ、また、新着でなんか通知が来てる……」
ID非公開さん
そもそも彼氏とセフレどっちをとるのでしょうか? まずセフレより彼氏と別れるべきでは?
そんなの知ってるよ……。
まずは門倉と話をつけなければならない。
心配した門倉からLINLINにメッセージと着信が残されている。増える度に申し訳ない気持ちと罪悪感が膨らむ。その一方で、匿名の相手の言葉の方が重くのしかかり、求めてしまう。この期に及んでまだ決心がつかない自分がいた。
明日学校に行って、懇切丁寧に別れを告げよう。
そして水樹にちゃんと謝りたい。
そう思っても、どうしても紫苑に残された項 の刻印が脳裏にくっきりと刻まれていて、さらに頭を悩ませる。熱なんてとうに下がっている。あの教室に戻るべきなのも分かっていた。
教室へ戻ると紫苑以外で口を聞いてくれる生徒などいなかった。冷笑と侮蔑の目。小さな机でただ紫苑の隣で俯きながら教科書を眺めていると、情けなくて涙が出そうだった。このまま蟻地獄のような深みに嵌りたくないとあがいてしまい、熱があると嘘をついて一週間が経過した。
「アリスー! お友達が来てるわよ! 私、これから出かけるから留守番お願いね」
母親が甲高く叫び、ドアノブが回転すると大きな影が動くのが見えた。
――雅也? プリントでも届けに来てくれた?
同時にその大きな影に目を見張る。
「か、門倉!?」
「心配で来た。体調は大丈夫か? ペットボトル貰ったから、ここに置いとく」
門倉は制服姿で背を屈めながら部屋に入り、ベッドに近づいてまだ横たえる自分を見下ろす。母親に頼まれたのか、門倉はミネラルウォーターのペットボトルをベッド脇のサイドテーブルに二つ置いた。それを一つだけ手に取って、キャップをあけてごくごく喉を潤す。普段は剣道部の練習で忙しいのに、門倉はわざわざ見舞いに来てくれたようだ。
「う、うん、大丈夫。熱も下がったし、明日には登校するよ。全然連絡しなくてごめん……あ、座って……」
門倉は腰を下ろし、溜息まじりに鞄から透明ファイルを取り出し紙を数枚取った。
「事情は紫苑から聞いた。これ、クラスメイトから預かっていたプリントだ」
「あ、ありがとう……」
プリントを手渡され、紫苑の名前にきゅっと奥歯を噛みしめてしまう。
門倉は平然とした顔で淡々と話を続ける。
「……机も用意させた。もう何も無くならないように親衛隊にきつく言いつけたから。気づいてやれなくて悪かった。ごめん」
門倉は軽く頭を下げて律儀に謝る。その姿に慌てて首を横に振った。
「あ、あ、ありがとう。知ってたんだ……。なんか、恥ずかしいな」
「制服やジャージも汚されたり、教科書もなくなったりで大変だったと紫苑が教えてくれたよ。それと『ちゃんと守りなよ!』って怒られた」
「な、慣れてるからいいよ。もう水樹とは関わることなんてないし……」
そう言いながらも自分の言葉に傷ついてしまう。思い切って昨日の夕方に水樹へ電話したが、通じることなく連絡は途絶えたままだ。いつもならすぐに電話がくるので、昨夜はひたすら連絡を待っていた。
「……明日、家に迎えに来てやろうか?」
門倉は寝癖で乱れた髪を撫でつけながら、硬ばった表情を崩しとろけそうな甘い笑顔になった。
胸に釘を刺したような痛みが走る。
――い、言えない。
別れたい、とここで口にしなければならない。
何度もシュミレーションしたのに、喉元で言葉を忘れてしまう。
「……い、いいよ。大丈夫。それより紫苑は元気だった?」
「どうかな、アリスが休んでるのを心配していたよ。最近は水樹と一緒に暮らしてるらしいから、ちゃんとは食べてるだろうけど顔色が悪いのは確かだ」
「そ、そっか。……心配だな」
「それより、自分の心配をしろ。胸、はだけてるぞ」
「え、あっ!」
よく見ると上着の釦 がずれて止めてしまったのか、胸元に隙間が出来ていた。
「…………額の傷は治ったか?」
「もう塞がってるよ。ほら」
前髪を掻き上げ、打ちつけた額を見せる。傷口を覆っていた瘡蓋はとれ、跡形もなく消えてしまった。はっとして、目と鼻と先で門倉と視線がかち合う。
(この清い交際に終わりを告げ、別れ話をしなければ……)
「俺は別れたくない」
「え?」
「……アリス、おれと別れようと思ってるだろ。分かるよ」
「そ、そっか。お見通しなんだな……」
「今別れたら、おまえは一人だ」
「わ、分かってる! でもこの気持ちのままじゃ駄目なんだ。俺、本当は……」
投げ出した腕がペットボトルは当たり倒れた。その拍子で開いたボトルから水がぽたぽたと汗ばむ上着へともろに掛かってしまう。
「濡れたな。アリス、着替えた方がいい」
「ご、ごめん」
近くにあったスウェットに手を伸ばし、上着を脱いで着替えようとした。
(はぁ、なんでいつもタイミングが悪いんだ……)
すると寝てばかりの身体を起こそうとして、足がもたれたのかバランスを崩し、前にのめって門倉の上に倒れ込んでしまった。
「……っ、大丈夫か?」
「え、あ、うん」
「……っ……」
目の前に広がる門倉の顔は目線を外して、急に赤らんでいく。
え、どうした?
「……?」
「――乳首が見えてる」
目線を下に下ろすと、ぷっくりと蕾が二つ隙間から尖って膨れ上がっているのが見えた。
「は!ごめん、……っ……んぅ、ぁ」
身を捩ろうとすると、門倉が顔を上げて唐突に唇を重ねる。下唇を甘噛みして、そのまま熱い舌が這入ると歯を舌の先で舐められた。
「……アリス」
「んぁ、……っ、ン」
「好きだ」
「……んんっ……」
『ここでイカせてやるよ』
不意に水樹の低いバリトンが鼓膜に響く。その瞬間、パタパタと涙が頬に溢れ落ちて身体が離れた。
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