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第41話 和解と鼎立
樹々の梢から陽光が縞をなして足元を照らす。
翌日、アリスは元気に登校し、中庭を悠然とした足取りで待ち合わせ場所へ向かっていた。昼に紫苑から手紙を渡され、話したいので放課後に中庭の奥にあるテラスへ来て欲しいと待ち合わせを約束していたのである。教室で話そうとしたが、紫苑は親衛隊や他の生徒の視線が聞き耳を立てており、場所を学園の奥にあるカフェテラスを指定してきたわけだ。
少し気掛かりだったのは紫苑の体調だった。朝の紫苑の顔色は青ざめきって沈んだ感じに見え、保健室へ誘うが首を横に振って断られた。転校したばかりの上気した頬はこけて、無邪気で可憐な紫苑は色を失ったように消えている。
(話したいことってなんだろう? やっぱり水樹のことか? それとも門倉かな?)
門倉は今まで起きていたアリスへの虐めを全て解決してくれた。二度と同じことが起きないよう証拠も残して親衛隊に分厚い校則手帳を叩きつけたらしい。水樹が指示したのは話しかけるなというのみだけで、これまで起きた過去の陰湿ないじめを公表すると親衛隊の茂部 に伝えたようだ。おかげで登校すると上履きは綺麗なままで紛失せず、机も戻ってきて平穏な学園の日々を過ごせている。
(優しくて頼りがいはあるんだよな……)
一瞬、門倉の運命の番は誰なんだろうか? なんてことを考えてしまう。運命の番に出会えれば幸せなのだろうか。それとも厄介なものでしかないのか。
運命に従うもの、諦めるもの、道を逸れるもの、そして運命に逆らうもの。――結局βという部外者には理解できないままだ。
アリスは白い建物のテラスに到着する。看板には「タティールネコ」と書かれていた。昼間は食堂、その他の時間帯はカフェテリアになっている。建物は有名な建築家により設計され、美しい曲線で構成された透明な空間が自然豊かな中庭に広がっていた。
窓はガラス一面に張られ、外の庭園からは季節の草花が鮮やかに咲きほこり、学園の生徒や教師の目を和ませている。いまはシクラメン、クリスマスローズなどが蕾をつけていた。
勉強もできるようにと館内は一日中解放され、白のテーブルと椅子が整然と並べられている。きょろきょろとアリスは左右を見渡し、紫苑の小さな影が見えて思わず声をかける。
「紫苑ー!」
ぶんぶんと手を振ってアリスは笑いかけるが、振り返った紫苑の表情は硬い。ぎこちなく口許を上げて微笑んでいる。小走りで近づいて、向かい側に腰掛ける。すでに紫苑は一杯千円のミルティーを飲んでいた。
「風邪、大丈夫? お見舞い行けなくてごめんね」
大きな瞳をうるうると潤ませ、うさぎのような眼で紫苑は心配そうに覗き込む。
顔色は悪いが、透き通る肌は変わらず、久しぶりの会話を前にしてアリスは緊張してしまい声が上擦る。
「ぜ、全然! か、門倉も来てくれたし、もう大丈夫だよ。で、話したいことってなに?」
「……あ、あのさ、け、健とは本当に別れたの?」
紫苑の長い睫毛が伏せられ、微かに震えているような気がした。
チワワみたいだな、となんとなく思ってしまう。こんなに可愛い紫苑を水樹は手籠めにしてしまったんだなと、どこか客観的に紫苑を見てしまう自分を感じた。
「うん。門倉とは別れたよ」
「アリス、どうして? 僕びっくりしたんだけど」
わなわなと林檎のような唇が動き、かすかに不安げな緊張が伝わる。
「どうしてって、価値観の不一致だよ。門倉と俺が合わなかったてこと」
嘘だ。本当は水樹が好きで、別れた。
そう言うと、番である紫苑を困らせてしまうのがわかってアリスは言えなかった。
「価値観? 健はアリスの為に色々してくれたよ? そんな、すぐに見捨てちゃっていいの?」
「……そりゃ、感謝はしてるけど、俺にはもったいない。門倉にはもっと良い人がいると思ったんだ。自分勝手だけど、そう決めた」
「そんな……そんなのって……」
「紫苑には水樹がいるじゃん。番ったんだろ?」
紫苑は俯いた。露わになった紫苑の白い頸にチョーカーからはみ出た痕に視線が移って、つい確認しまう。確かに赤くはなっているが、若干歯形は消えかけて見える。
(――確かに、歯形が消えてる)
紫苑はアリスに顔をよせて、ひと呼吸おいて真剣な眼差しをむけて言った。
「――アリス、あのね、僕は水樹くんとは番ってないよ」
「え?」
「――番ってない。全部嘘だよ。水樹君はアリスを思って大量の抑制剤を打って必死に耐えてた。それなのに、健と付き合うって聞いて怒ったんだ。そりゃ怒って当然だと思う。水樹くん、可哀想だった。それに……」
「それに?」
「……水樹くん、薬のせいで嗅覚と味覚を失ってると思う。だから、治療の為にも海外に移住する予定になってる。……それで、その、僕もそれについて行こうと思ってるんだ」
「……うそ。まって、なにそれ」
じわりと握った手から汗が滲みでる。
(嗅覚と味覚を失っている?)
その言葉に全身から血の気が引きそうになる。色んな感情が収拾つかない。どんどんと混乱してしまう。
「……うそじゃない。だから、アリスの気持ちを聞きたい。水樹君のこと、まだ好き? 健と別れたのは好きだからだよね?」
紫苑は真剣な表情でアリスの顔を覗き込む。
「……俺は……」
好きだ。水樹が好き。好き。好き。全部好き。
喉が急にからからになっていく。言いたい。言ってもいいのだろうか。言いかけようとしたとき、紫苑の小さな顔が大きな影に遮られた。
「おい、紫苑、行くぞ。おまえを探してたんだ。こい」
「あ……」
水樹だった。
頭上から重い響きのある声が落ちる。水樹が紫苑の腕を掴んでいるのが見え、アリスを見ようとせずに一瞥してすぐに視線を外した。
「……あの、ぼくはまだ……」
「煩い。話なら俺が聞く。こんな奴と話すな。行くぞ」
水樹はじろりとアリスを睨みつけた。その瞳は怒りに燃えるようで鋭かった。険悪な表情で顔を顰めたが、頬はなんとなくこけて痩せたように見える。
「水樹、紫苑が痛がっている。それに後で話したい……」
水樹は薄く笑って、紫苑の小さな身体を引き上げて胸元に寄せた。色んな言葉がアリスの頭の中に浮かぶ。
(水樹、なんかやせた……)
「……俺はない。教室以外で紫苑と接触するのはやめろ」
「いやだ、水樹、おまえと話したい」
せめて何か一つでも伝えたかったが、言葉が泡となって消えてしまう。アリスはまごつきながらも怯える紫苑と視線が重なる。逆らえずにいる様子にかつての自分が重ねて映る。
(俺もそんな感じだっただろうか……?)
「安心しろ。もうおまえには関わらない。紫苑、行くぞ」
「えっと、あ……」
「や、やめろよ! 紫苑が嫌がっているだろ! 離せよ!」
立ち上がって水樹の腕を掴む。びくともしない腕力に驚きながらもアリスは力を込めて抱き寄せた紫苑を水樹の腕から引き剥がそうとした。
(くそっ! なんでいつも俺はこうなんだろう)
刃向かって、可愛く甘えられない。いつも水樹を怒らせてしまう。
「離せアリス! もう俺はおまえには関わりたくないんだ!」
「離さない!」
「離せ!」
暫く二人でもみ合っていると、アリスは振り上げた腕で突き飛ばされた。よろめいた拍子に身体が白いテーブルに打ちつけられる。背中に鋭い痛みが走り、アリスは顔を歪めた。
「分かったよ! でも紫苑を手荒く扱うな! 俺の大事な友達なんだよ! もっと大切に扱え!」
「おまえに指図される筋合いはない。俺達に関わるな」
「……ッ! だからおまえは!」
噛みつきそうな言葉に詰まる。自分は何を言おうとしたんだろう。アリスはわなわなとへたり込んだ。背後からちくちくと痛みが全身に走り、力がでない。
「おまえはなんだ? 言ってみろよ」
威圧感と畏怖。水樹は射竦めるような瞳で、強靭な巨体を凄ませてアリスを見下す。アリスが何も言えずにいると、無言で背中を向けて紫苑を引き摺るようにその場から立ち去ろうとした。
(怖い。怖い。でも……)
「だから、おまえは愛されないんだよ! αはΩを幸せにするのが義務なんだろ! αに生まれたならΩの紫苑を幸せにしろよ! クソ水樹!」
いつのまにか、最低な言葉を吐いてしまっていた。アリスは水樹の背中を睨む。
「……くそっ! 余計なお世話だ!」
「……アリス」
水樹は拳で目の前のテーブルを叩いた。乾いた音が響いて、その場から紫苑を連れていなくなる。アリスの目尻から涙が溢れ、とめどなく流れ落ちてぱたぱたと白い床が灰色に濡れる。
(失敗した。また水樹を怒らせた。せっかく会えたのに、どうして肝心なことを言えないんだ、おれ。あんなこと言って、最低だ、馬鹿だ)
誰もいない場所で嗚咽を堪える。謝りたいと思っていたのに火に油を注いで怒らせた。カフェテリアの軽快な音楽が響いて聞こえて、どんどんと悲しみが増していく。
気づくと、長い脚が見えた。視線を上げると、西園寺が心配そうに見下ろしている。
「大丈夫?」
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