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第42話 カシミヤ猫の誘惑

「そんな悲しい顔しなくてもいいのに、本当にキミも馬鹿だね」  西園寺に保健室へ連れて行かれ、アリスは打ちつけた背中を手当されていた。嫌らしいことを強要されるのかと思って目に警戒の色を強めたが、そのつもりはないらしい。ツンとした独特の匂いがすると、呆気なく湿布を貼り終えた。  保健室のベッドはカーテンで仕切られていたが、誰もいないようにみえる。物音ひとつしない静けさに先ほどの光景が鮮明にアリスの目に浮かんできた。 「どうせ俺は馬鹿だよ……」  アリスは肩を落としてしょんぼりと言った。  水樹の怒声と、紫苑の細い声が耳の中でまだ響いて残る。 「あーあ、悲観的にならないでよ。こっちまで悲しくなるじゃん」 「水樹に完全に嫌われた」 「やだなぁ〜。もっと鳥瞰(ちょうかん)的な視点に立たなきゃ駄目だよ。どうせ、あの二人、次のヒートが来たら死んじゃうんだから」  西園寺はニコニコしながら、とんでもないことを言う。  死という言葉に、思わず背後にいた西園寺を振り返って睨んだ。笑って言う言葉でない。アリスは胸がざわついて怒りがわく。 「死ぬって、どう言う事だよ!」 「ほらほら、かっかしないで。背中、もっと痛むよ?」  アリスは勢いで立ち上がると背中から鋭い痛みが走り、西園寺がさげずむように笑う。 「いいから、教えろよ! 死ぬってどういうことなんだよ!」 「まぁまぁ、落ち着いてよ。あの二人、結局は薬に頼ってるんだよ。水樹なんて嗅覚と味覚がヤバいんでしょ? そんな状態でまた抑制剤に頼るとどうなる? 二人とも番う気もないのに一緒にいるっていうことは、結局はさ、分かっていると思うよ。逃げ道がないんだよ、きっとね」  西園寺の同情に満ちた言葉で、全身から力が抜けた。珍しく言い方に悲哀がこもっていた。 (死を選ぶ? 水樹が? 紫苑と?)  わなわなと震えて、背中の痛みも忘れて何ともいえない悲しみが湧き上がる。アリスはへたへたと丸椅子にまた座り込んでしまった。 「…………嘘だろ? じゃあ、あの二人は次の発情(ヒート)で死んじゃう……?」 「うん、そうなんじゃない?」 「西園寺、そんな……」  しれっと西園寺はアリスに笑顔で言い放つ。悪気がない言葉のせいか、夢の中を揺れているような変な感覚に襲われる。紫苑の海外に移住するという言葉。それは二人とも消えていなくなるということなのだろうか。 (だめ、だめだ。そんなの、絶対だめだ)    アリスは首を横に振って、その考えをすぐに否定するように掻き消す。 「あらら、同情しちゃった? 優しいんだね、アリスくん」 「……そんなの、止めなきゃ、水樹と紫苑を助けなきゃ……」 「へえ、あんなつっかえされても? 水樹、相当怒ってたよ?」 「ひどいこと言ったけど、俺は水樹のこと、守りたい」    もちろん、大事な友達である紫苑も守りたい。水樹も、紫苑もどっちも生きて欲しい。  たとえそれが、αでもΩでもなくて、βである自分が思っても。 「あら、アリスくん、案外いい子だね」 「西園寺……」  アリスは西園寺を恐る恐る問いかけるように見上げる。西園寺はそんなアリスをうれしそうに目を細めて見下ろす。本当に救う方法なんてあるのだろうか? このがんじがらめになった二人の運命を解くことができるのだろうか……。アリスは頭の中が混乱しそうになった。  そして思いのほか厳しいアリスの目つきに、西園寺は観念したように溜息をついた。 「きみも大変だね……。αとΩの宿命を背負っている気がして同情するよ……」 「そんなのどうでもいい。とにかく、なんとか二人を救う方法を教えて欲しい」 「ふーん、なんでもする?」 「する。なんでもするから、教えて欲しい」 「ん〜じゃあ、交換条件出そうか?」  西園寺はぐっと顔を近づけて、面白そうにニヤニヤとアリスに視線を絡めてくる。 「わ、わかった」 「至ってシンプルだけどね?」  アリスは言われるままに頷くと、西園寺は柔和な笑みを顔に浮かべた。 「まずは仲直りしてね、紫苑くん?」  西園寺が振り返るとカーテンで仕切られていたベッドから、紫苑がおずおずと顔を出した。  身体を休めていたのだろうか、まだ顔色は悪い。紫苑はふらつきながらアリスに近づいて頭を下げた。 「……アリス、ごめん。僕……」 「紫苑、俺も……」 「はいはい、しみったれた仲直りは早くしてね。あと、紫苑くんはあとで僕と話そうね? 水樹は案外チョロいから別にいっか。あ、交換条件はあとで話すからよろしく」    西園寺はにこにこと笑ってはしゃいだ。

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