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第43話 屁理屈と陳弁

「くそ! こんな不味いもの寄越しやがって!」  ガシャリと銀のスプーンが白のスープ皿にぶつかり、専属のコックが一晩寝かせて作ったコンソメスープが跳ねた。じわじわと失っていく嗅覚と味覚のせいなのか、口の中に広がる不快感に水樹は顔をしかめて舌打ちをした。  抑制剤の打ちすぎで自分の身体の異変に気づいたのは一週間ほどまえだ。そばにいる紫苑から匂いが薄れるように感じたのがそもそもの始まりだった。ただでさえ、平常時に錠剤を飲んでいたので当たり前といえば当たり前だった。    (あいつ、アリスに言いやがったな……!)  水樹は久しぶりに登校し、テラスで休もうとした矢先に紫苑とアリスを見つけた。紫苑には余計なことを言うなと釘をさしていた。なによりアリスに自分の弱みを知られたくなかった。αである限り自分は完璧で、誰にも弱点などいうものを晒したくない。バースなど関係ないと言いながら、水樹は自分が一番αというバースに固執していたことに気づかされた。  (こんな不完全な自分を受け入れる奴などいない) 『――だから、おまえは誰にも愛されないんだ!』  アリスの言葉が頭の中で響く。  なにをいまさらという思いが募る。所詮、アリスも自分を愛してなかった。今ごろ門倉と一緒に過ごしているのだろう。水樹はその様子がまざまざと想像できてしまい、いらだたしげに舌打ちを漏らした。  すると、横から勢いよく食堂の扉が開く。水樹が顔を向けると、出てきた使用人がおずおずと周囲を伺うように水樹を探して頭を深々と下げた。 「坊ちゃま、西園寺様がおみえです」 「呼んでいない。つっかえせ」 「でも……」  使用人はたじろぎながら、一歩二歩と後退した。  そして、使用人の背後から西園寺が鼻歌を歌いながらにゅっと顔をだした。西園寺は軽い足取りで目の前の椅子に長い脚を組んで、向かいの椅子に図々しく腰掛ける。 「酷いなぁ、せっかく僕が来たんだから通してくれたっていいんじゃない?」 「おまえなんて呼んでいない。西園寺、何の用だ?」 「別に~! 遊びに来たんだよ。あれ? 君の婚約者様は?」 「先に戻って寝てる。体調が悪いんだ」  紫苑はまともに寝ておらず、水樹より先に屋敷に戻ったようだった。痩せて顔色も悪く、病人のような紫苑はどう接すればいいのか水樹には分からなかった。心配というより、紫苑を見ると同情という気持ちが色濃く残り、巻き込まれた被害者としか見えないのだ。 「アリスくん、門倉と別れたみたいだよ?」  その言葉にぴくっと水樹の凛々しい眉が動いてしまう。 「だからなんだ。俺にはもう関係ない」 「ふーん、理由を聞かないんだね。門倉からね、水樹に伝えておいてくれって言付けも貰っちゃったんだよね〜! ねぇねぇ、聞きたい?」  西園寺の回りくどい言葉に水樹は苛立ちを隠せない。じわじわと怒りが体の中に広がって、怒りにまかせて睨みつける。 「別に必要ない」 「そうなの? アリスくんが水樹を好きだって泣きながら門倉を振ったんだよ。あ、ごめんしゃべっちゃった。もしかして、聞きたくなかった?」 「別にどうでもいい。もう遅い」  水樹は手前にあったペリエのグラスを手に取った。口に含むと弾けて消える泡を喉に流し込む。苦味、甘味、辛味全てがぼんやりとしたものに感じ、何を食べても飲んでも鈍い感覚に嫌気がさしてしまう。 「そうかな? 性急すぎるんだよ。早速、休学届けなんて出すしさぁ。どうせ、適当に理由をつけて退学して、親の目を誤魔化そうとかするんでしょ? 意地でも番わないの? まぁ、紫苑くんは可哀想だけど、そこまで自分を犠牲にしなくてもいいんじゃない?」 「五月蝿い。俺は番わない。いまさら縁談を破棄することなんてできないからそうするしかないんだ」 「へぇ、紫苑くんの身の上に同情しちゃった?」 「ちっ、全部調べやがったな。暇人が」  確かに執事に頼んで知った紫苑の身の上は気の毒だった。それでも、それは同情しか湧いてこず、同情からは最上の愛は生まれない。たとえ、紫苑が自分を愛しても、自分からは何も出てこないことを水樹は知っている。だが、この婚約に抗いながらも、どう対処すればよいのか水樹は分からなかった。まさに死に物狂いの抵抗を無言で続けているだけだ。 「……でね、君達を救ってあげようと思うんだ」 「は?」 「じゃないと、次の発情期でまた抑制剤を大量に打ちこむつもりでしょ? 水樹、そんなことを繰り返したら死んじゃうよ? ダメダメ、せっかく僕がいるんだから頼ってよ」    にこっと笑うが、西園寺の言っていることは疑わしい。確かに次の発情期がきても同じように薬で誤魔化すつもりだった。そうするしか手立てが思いつかない。  効果がなければ、もっと強い抑制剤を用意する予定だ。無許可でもいい、死んでもいいと水樹は闇雲に薬を手に入れようとしていた。 「お前になにができんだよ」 「え~そりゃ色々出来ますよ? それとも運命に従うの?」 「そんなものには従わない。死んだとしても俺は逆らい続けるつもりだ」  このまま親の操り人形のように生きたくない。アリスも失い、全て手に入らなくてもそれは心に決めている。 「あはは、いいね。そういう健気なとこ、僕、好きだよ。で、提案はこれなんだ」  西園寺は一枚の紙を水樹に差し出した。その内容に驚きながらも西園寺を睨めつけた。 「これ本気か……」 「僕は本気だよ。親の了承も得てる。むしろ喜んでる」 「俺の親が許さない」 「そこも大丈夫。僕は完璧主義なんでね。こういうときこそ頼ってよ、ね?」  にっと西園寺は口許を綻ばせて笑った。 ******  西園寺がにこにこと嬉しそうな足取りで帰ると、水樹は自室に戻った。  水樹の部屋の左手には寝室があり、羽根布団がこんもりと盛り上がってみえる。しんと静まり返り、部屋の中をさっと見渡す。嗅覚が低下したせいか、そばにいてもΩのフェロモンを感じなくなったのがまだ救いだった。  親同士の決めた結婚は早く子供を作れという理解できないものだ。紫苑と二人、水樹の部屋で暮らし、話すことなく過ごしている。紫苑は何度も話しかけようとするが、アリスのようにどうしても接することが出来なかった。  無邪気で短絡的で、そして阿保なアリスが好きだった。  一番バースに拘っている自分がβのアリスを好きにならずにいられない。  海村有栖(うみむら ありす)は水樹にとって、理由もなく愛さずにはいられない存在なのだ。 「……俺はアリスしか愛せない。あいつ以外を選ぶことなんてない。アリスが俺の運命なんだ」  独り言のように水樹は呟いた。  羽毛はピクリと動いただけで、何も言わない。 「――ちっ」    水樹は微かに羽布団が震えているのが分かった。傍に寄って、上掛けを掴む。 「アリス、出てこい」  水樹は蓑虫のようにくるまった毛布を一気にめくる。  そこにはアリスが涙を溜めて、水樹を見つめていた。 「うっ…! 水樹、ごめん! ごめんなさい」 「愛されないんじゃないのか?」  泣きじゃくり首を横に振るアリスを尻目に水樹は諦めたようにため息をつく。手土産なしで西園寺がやって来ることなんてまずない。   「この家に忍びこむなんて最高だな、おまえ」 「さ、西園寺が手伝ってくれるっていうから!」 「……たくっ、おまえは分かりやすい」 「ごめん」 「西園寺に借りをつくったじゃねぇか」  舌打ちをして水樹はアリスを軽く睨んだ。だが、表情はすでに甘い。 「お、お、俺、水樹のことが好きだ」  その言葉に水樹の胸の底が熱くなる。ずっと聞きたかった言葉をやっと聞けた気がした。 「へぇ、じゃあ、俺はおまえのことを愛してもいいのか?」  そう言うと、アリスは強く首を振った。その様子に自然と笑みがこぼれる。 「俺も、俺も水樹のこと愛したい。ずっと、一生かけて」  ぼろぼろとアリスの頬から涙が伝い落ちては、ベッドがぱたぱたと濡れた。  その様子に水樹はわらう。 「…………俺が降参するしかねぇな」  水樹はアリスに噛みつくように口づけをした。

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