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第45話 最終話

 それから数日経過した土曜日。  アリスと水樹は水族館を楽しんで、観覧車の下に立っていた。水樹は白のニットに黒のダウン・ジャケットを合わせて着込み、ひどく機嫌が悪い。 「チッ、なんで西園寺と門倉がいるんだよ」 「ご、ごめん、水樹。西園寺から交換条件で頼まれたんだよ……」  顔を顰める水樹をアリスは宥めながら、水樹の指先を絡めると水樹の顔が緩む。  あれからアリスと水樹は夕食を食べたり、週末は泊まったりと仲睦まじく過ごしている。    水樹の味覚と嗅覚は、急激に使用した薬を抜いてから徐々に回復を取り戻し、経過も良好だった。それでも心配するアリスはできるだけ水樹のそばにいようと懸命に支えようとした。  水樹もそんなアリスが愛しくてしょうがなく、時間があれば唇を重ね、猫も杓子も、アリスと水樹はいつも一緒にいた。  昨夜も水樹の屋敷に泊まり、一晩中愛されたアリスは昼前に飛び起きた。 「あーあ、絶対に許さないとか言って、すぐ許しちゃうんだもん。つまんないな〜! しかもアリスくんさぁ、水樹の匂いがべったりついてるよ?」 「うそ! 本当に!?」  西園寺は鼻を摘むと、アリスはくんくんと顔を寄せて腕の匂いを嗅いだ。βなので水樹の甘ったるく、そして()せるほどの高雅(こうが)な香りに包まれていることを本人は知らない。 「うわぁ、無自覚なの? ねぇ、水樹も知っててやってるよね?」 「西園寺、余計なことを言うな」 「西園寺! やっと仲直りしたのに二人に変なことを言うなよ……」    雅也が西園寺の背中を小さく叩いて、困った顔でやんわりと窘める。  西園寺が提示した交換条件は雅也を連れて来て、ダブルデートをすること。そして指定された場所がなぜか門倉と出かけた水族館だった。嫌がる雅也に頭を下げて、心配した紫苑がついてきたという次第だ。 「いたいた。西園寺くん達、ここにいたんだね」 「あ、紫苑くん、僕のことは『お兄ちゃん』て呼ばなきゃ駄目だって言ったじゃ〜ん!」 「せめて、兄さんにして下さいっ! 恥ずかしい!」  四人の後ろを追うように紫苑と門倉がやってきた。  西園寺がデレデレと顔を緩めると、紫苑はきっと眉をあげて西園寺を睨んだ。紫苑は黒のチョーカーを首に巻いており、まだ誰とも番ってはいない。 「に、兄さん!?」 「あれ? アリスくん、聞いてない?」 「知っているけどさ……」    口を半開きして様子を見ていたアリスをよそに、西園寺は笑みを浮かべた。 「いやね、僕の両親に紫苑くんのことを話したら、ぜひ引き取りたいて言ってね。下の妹がΩなんだけど、僕の家族αしかいないからそばにβかΩの子が欲しいねって話してたんだよ。妹もよく懐いてるし、僕も可愛い弟も出来て家族全員が喜んでるってわけさ」 「――はっ、白々しい」  西園寺が言うと、水樹は打ち消すように鼻で笑った。  ことの次第はこうだ。Ωの妹にβかΩをそばに置きたかった両親に西園寺は紫苑に白羽の矢を立てた。  そこで西園寺家専属の医師に偽の診断書を作らせ、紫苑に子供は難しいと報告する。水樹の親は早々に婚約破棄を言い渡し、西園寺家は紫苑を養子として角を立たずに引き取ることが出来た。  さらに西園寺は瀬谷グループが社会貢献としてアートへ投資を強化しようとする姿勢に目をつけ、西園寺家として幅広い人脈と交流関係を武器に、アーティスト発掘と媒介役を瀬谷家の多大な投資と引き換えに契約を交わした。  上手く天秤にかけた好条件は大人達を喜ばせ、西園寺は易々とやり遂げたわけである。  おかげで快く歓迎された紫苑は西園寺の弟として幸せに暮らしている。  だが、アリスはどうしても心配だった。いじめられてないか、変なことをされていないか、紫苑に毎日確認してしまうのだ。 「西園寺、紫苑に手を出すなよ! お前には雅也がいるんだからな!」 「ア、アリス……」 「あはは、僕は弟に手なんて出さないよ。雅也くんに一途だからね」  西園寺は穏やかに微笑んだ。それでも、嘘くさい軽薄な印象は拭えない。  横で紫苑が困った顔で二人の様子を見ていた。 「ほんとかよ! 」 「あっと、僕達、チケット買ってくるから三人はこのまま並んでてね。はい、水樹も門倉も行くよ~!」  西園寺は強引に水樹と門倉を連れ出して、混み合うチケット売り場へ消えていった。観覧車は長蛇の列で先頭までまだ時間がありそうだ。 「紫苑! なんかあったら、俺か雅也にすぐ言えよ! 絶対守ってやるからな!」 「アリス、心配してくれてありがとう。でも大丈夫。みんな優しいし、門倉もいるし……」 「え、紫苑は門倉と付き合ってんの?」 「ないない。ただの幼馴染に戻っただけだよ。でも心配だから傍にいてくれるって。進展はないんだけどね」 「そうなんだ……。なんか、その、ごめん……」 「いや、アリスが謝ることはないんだ。それに雅也くんにもなんだか悪くて申し訳ない気持ちでさ。雅也くんこそ、ごめん……」 「え、あ、僕? いいんだよ。別に西園寺とは付き合ってるわけじゃないし……」 「え?」 「は?」  紫苑とアリスの声が重なり、雅也が驚いた顔をした。  保健室での情事を思い出してしまい、雅也の顔をまじまじと見てしまう。 「付き合ってない!?」 「付き合ってないの!?」  アリスと紫苑は顔を寄せて、雅也と目の鼻の先まで近寄る。 「じゃあ、雅也、西園寺とセフレなの……?」 「ちがっ! 今日はアリスに頼まれてきたわけで、別になにもないよ。そ、そりゃ一回はしたけどさ……」 「だっておにい……兄さん、いつも雅也くんのことを聞いてくるよ? 付き合っていると思って僕、話しちゃった。ごめん……」  紫苑の顔が青ざめ、雅也に軽く頭を下げた。  雅也は目を伏せて、気まずそうに頭を掻く。その様子に納得がいかないのか、アリスは首を傾げてしまう。西園寺が雅也に送る視線はどう見ても友人以上に感じるからだ。 「西園寺の奴、どうしても、雅也とダブルデートしたいからって俺に頼んできたんだぜ? そんな、なにも無かったらあいつが水樹を助けるわけないじゃん」 「そうだよ、その為に僕と水樹くんを婚約破棄してくれて、ご両親に頭を下げて取り計らってくれたし……」 「それは紫苑くんだからだよ。僕はβだし、西園寺は何も言ってこない。終わったことだから、多分誰かとしてるはずさ。あの人、Ωの方が好きだって言ってし……」 「雅也……」 「そんなことより、アリスは水樹くんと仲直りしてよかったじゃん。昨日、また泊まったんでしょ?」  雅也はニコニコといつもの表情に戻り、アリスに笑いかけた。アリスはみるみる顔を赤らめ、俯いて達磨のように小さくなる。 「あ、いや、その、そうです……」 「いいなぁ、水樹くん、僕、ちょっと狙ってたんだよ?」  てへへと悪気なく笑いかける紫苑にアリスは真っ青になってしまう。 「し、紫苑……」 「冗談だよ。あんなにアリスにベタ惚れだと諦めるしかないんだから。いーなー、僕も恋したい! ね、雅也くん?」 「ぼ、僕は……」  紫苑に可愛くウィンクされて、雅也はたじろいだ。  突然、雅也の背後から西園寺がにゅっと顔を出す。 「まさか、二人して雅也くんをいじめてない? 雅也くん、僕以外に恋なんてしちゃだめだよ」 「うわわわ!」  雅也は飛び上がり、ビクビクと身体を震え上がらせた。アリスと紫苑は西園寺を睨む。 「ひどいなぁ、僕が悪者みたいじゃない」 「西園寺! 雅也はお前のこと、なんにも思ってないんだとさ! お前も雅也に執着するのやめろよな!」 「そうだよ! 雅也くんの気持ちをちゃんと考えなきゃ!」  アリスと紫苑は西園寺を責め立てたが、西園寺はのほほんと突っ立ったままだ。 「ひどいなぁ。さ、雅也くんいこ? 僕も話があって誘ったんだ。ほら、もう順番だ。じゃ、お先に……!」  西園寺は雅也の腕を引っ張り、先頭に案内されたのか、しれっと観覧車へ乗り込む。   すぐに後ろから水樹と門倉が戻ってくる。気づくと門倉の頬が少し赤い。まるで殴られたような痕にアリスははらはらと心配になった。 「か、門倉……?」 「水樹、アリスを借りるぞ」 「え、あっ……!」 「アリス!」  水樹がアリスの腕を掴もうとした瞬間、門倉がそれより先にアリスを観覧車へ引き入れて乗り込んだ。あっという間に小さな箱が地上から離れて浮き立つ。見下ろすと水樹が怒り狂った顔で睨み上げていた。  向かい合いながら腰掛け、アリスはちらりと門倉を盗み見る。門倉の頬は赤く腫れ、表情は読み取れない。 「ほっぺた、殴られた?」 「ああ、水樹の馬鹿に殴られた」 「その、なんか、ごめん。俺が勝手に門倉を巻き込んだのに……。あの、俺、な、殴ってもいいよ……?」 (全部、俺が悪いもんな……)  自分が水樹の気持ちにばかり怯えて、向き合わなかった為に門倉を巻き込んでしまった罪悪感が奥底に残っていた。  アリスは震えながら、瞼をぎゅっと閉じて頬を突き出した。殴られてもいい、門倉は怒っているんだろう、アリスはそう思って覚悟した。  その様子に門倉はふっと笑いだす。 「はは、アリス、おまえはやっぱり面白いな。礼を言いたかったんだよ。おまえには感謝してる」 「へ?」 「……アリスが水樹に真剣に向き合わなければ、紫苑もいま頃は水樹の(つがい)になってた。それが出来なければあの忌々しい兄達の元へ行っていたんだ。……まさか西園寺の弟になるとは思わなかったけど、おまえは俺が出来なかったことを全部やり遂げてくれた。ありがとう」  門倉はアリスに頭を下げた。  アリスは門倉のつむじを見て慌てた。横目で水族館や車が小さく点在しているのが見え、なぜか前よりも新鮮に感じる。 「そ、それは水樹や西園寺がいてくれたから……」 「いや、アリスのおかげだよ。水樹にも感謝はするけどな」 「そんな、本当に俺はなにも……」 「あいつが笑った顔久しぶりに見たんだ。多分、いまは幸せなんだと思う」 「門倉は紫苑のこと……」  門倉は首を横に振った。 「……わからない。いや、そういう権利は俺にはない」 「そんな……」 「でも、幼馴染として守るつもりだ。逃げずにな」 「門倉、紫苑は俺より強いから大丈夫だよ。それこそ紫苑に守られるかもよ?」  穏やかに微笑んだ門倉にアリスは物憂げな眼差しをむける。  紫苑は西園寺家に引き取られてから、物怖じしなくなった。水樹にも顔色一つ変えずに意見を述べる。おどおどとした雰囲気は消えて、溌剌として元気な蝶へとかわった。 「はは、そうかな。それは困るな」 「あ、ほら、二人とも喧嘩してる」  いつの間にか観覧車は一周を終え、来た場所へ戻った。水樹と紫苑がなにか言い合っているのがみえる。門倉とアリスは顔を見合わせてその様子を笑った。薬のせいで耐性がついたのか、二人は近寄ってもなにも感じないらしい。  瞬間、アリスの右頬に柔らかな熱が落ちる。 「水樹への仕返しだ」  門倉は笑って、開いた扉から素早く降りた。  紫苑が頬の心配をして、門倉の後をついて行く。遠目でこつんと門倉の肩を叩いていた。 (紫苑、がんばれ……!)    アリスは二人が人混みに紛れて見えなくなるまでそう思った。  大丈夫、運命は作れるから……。  俺も、水樹も、そうだ。 「おい! 油断するなって言っただろ!」 「わ! 水樹! びっくりさせるなよ! あれ? 雅也は?」 「おまえの友達(ダチ)なら顔真っ赤にして、帰ってたぞ。それより門倉の奴、もう一回殴っておけば良かったな、くそ!」 「水樹! 人を殴るな! いいか、人には口があるんだから、口で解決しろっ!」  唐突にアリスは逞しい胸板に抱き寄せられた。どうやら門倉に妬いているらしい。水樹は怒ったアリスの顎を掴み、熱いキスを落とす。  行き交う人の視線が二人に集中する。 「こういうことか?」 「ばか! ちがう!」  アリスは離れた唇を尖らせて、嬉しそうに微笑んだ。

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