5 / 20

第5話

 ナオマサはシガのマンションを出た。老人は息子の夫とその浮気相手の首を求め続けた。まだ手掛かりは掴めていなかった。バニラの香水を使っているということだけだった。家に帰るとカナンは友人を家に呼ぶよう言った。最近の外出を友人と一緒に出掛けているものと思っているらしかった。 「お前の初めてのお友達だからね。クロスタータ作ってあげるよ。甘いもの苦手かな?」  彼は気を遣っているようだった。ナオマサが義務感や使命感で傍にいると彼は思っている節がある。日頃からナオマサはそれを感じ取っていた。ナオマサからしてあの放浪穢多とはもう関わらないつもりだった。強迫観念と結託した差別意識が良心や理屈を負かしにかかる。カナンをナオマサの知らない人間にしてしまいそうだった。あの少年との(しがらみ)は彼女にとって重い。 「訊いて…みます」 「うん。いつでもおいでって」  カナンはこの近辺に最低限の交流しかないようだった。アカミネは束縛が激しい。その多くない交友関係のなかで、(はた)から聞いているとアカミネはどこで誰と何をしたのか深く訊いている。カナンもそれに疑念を抱くこともなく快く答えていた。おそらく2人に自覚などない。閉鎖的に過ごしている彼は誰か他人が、それも妹分のように接してきたナオマサの友人の来訪を心待ちにしていたようだった。 「どんな子なんですか」 「……明るい子です。優しくて、地方訛りがあるようなので少し言葉遣いは乱れていますが気の遣える良い子です」  品の良い世界しか知らないカナンに出自や言語にその界隈では難のある友人を恥じた。それが自身を気恥ずかしくさせる。 「そう。お前のお友達だからね。きっと良い子だと思っていたよ」  そして関わりの浅いハムスターにも同意を求めた。ポプリは近付けられた鼻先へ落ち着きなく背伸びする。 「今日はあの人、早く帰ってくるんです。だからそろそろ買い出しに行かないと。お前も一緒にくる?」 「では、荷物を持ちます」  カナンの優しい香りがふわりと漂った。同様の印象を受ける微笑がその柔らかな顔に浮かんだ。  友人との再会はショッピングストリートでだった。スーパーマーケットである程度のものを買い終えたが、カナンは二夫(ふうふ)のこだわりのコーヒー専門店へ入っていった。ナオマサは喫茶店のオープンテラスや洒落たフードコートのようになっている複合施設の休憩広場(レストエリア)で荷物を見ながら待つ。生活感のあるこの時間が彼女は好きだった。行き交う人々の話し声や食材の詰まった袋に各家庭を馳せ、季節や時間帯によって変わる風の感じや、近くのレストランから運ばれてくる匂いに浸るのは癒しといえた。そんななかで、金髪の少年はリードの外れた飼い犬のようにぽつんと現れた。ナオマサの視界の中心で立ち止まる。小さな口はストローを咥えている。最近の流行りのドリンクではなく、今頃になると少数派までになってしまった近くの有名ファストフード店のロゴマークのドリンクを持っていた。マスタードカラーのボーダーにデニム生地のサロペット、そして深々とウールガーゼのグレーのキャスケットを被っている。足はよく見えなかったが濃紺か黒のキャンバス生地にラバーソールのスニーカーを履いていた。ファッションセンスもやはり流行りのものではなく、垢抜けていなかった。それでもそういうファッションを売りにしている店のモデルのようなスタイルの良さがある。ただ服装や紙コップを持つ手など総合して17の年よりも幼くみえた。腕に金属の輪はない。 「イノイ姉さん!」  見ていられなくなるほど彼は危うげに人混みの中で方向転換して駆け出した。ナオマサは目にしただけでは一瞬誰だか分からなかった。声変わりした形跡のある声を聞いてやっと理解する。ナオマサの友人は女性向けに売られているワンピースを着ていたが決して少女と見紛うような容貌ではなく、中性的な外見でもない。 「君か」  キャスケットのつばを持ち上げることもせずチャンダナは顔を上に向けてナオマサを見た。探しているバニラの香りが鼻に届き、彼女は眉を顰めた。紛らわしいことに、おそらくドリンクのアイスバニラシェイクミックスだ。 「買い出し?」  頷いた。薄手のマスタードと白抜きのボーダーのカットソーの袖から金輪の下で日に焼けなかった肌が見えた。 「そうなんダ。今は?休憩中?」 「家族を待っている」 「…家族?………ああ、一緒に暮らしてる人いるって話してたもんナ」  飯店BBQの時に家の話をした。物心ついた頃から親も同胞(きょうだい)もなく、養父の(ゆかり)である二夫のもとに身を寄せていると。そしてついでに馳走になった借りを返さねばならないことを思い出す。 「君は?この前と雰囲気が違うな」 「うん!分かっタ?今度からちゃんと、こーゆー服装(かっこ)しヨって思ったノ!そしたら、姉ちゃんにもう迷惑かけないからサ!」 「好きな服を着ればいい。今度わたしといる時は」  言ってしまってから「今度は無い」と彼女は自分自身に念を押した。 「似合ってないカナ?」 「いいや。似合っている」 「よかっタ!あ~……知り合いの、うん、知り合いっていうか、そ、友達にネ、買ってもらったんダ」  彼は翻りながら自分の服を確かめる。またあのバニラの匂いがした。アカミネが身に纏って帰ってくる香気だった。しかし瞬く間に空気に溶けていってしまう。この街にありふれたものだった。訝るだけきりがない。 「ちゃんとこーゆー服装(かっこ)したら、も、言われナイもんネ。ごめんネ、もっと早く気付いてたらサ、イノイ姉さんにイヤな思いさせなくて済んだのニ」  何かが大きな、たとえばオフィスビルの鏡張りの窓が砕けてできた大きなガラス片に胸を打たれるような息苦しさがナオマサを襲う。 「良かったら遊びに来ないか?馳走になった」  内心彼女は深い溜息を吐いていた。自分に対してのものだった。 「いいノ?」 「家の人も、喜ぶと思う」  口は勝手に動いた。しかしそこに伴うのは世辞ではなかった。カナンは本心からナオマサの友人の来訪を期待し、ナオマサのほうでも本心から彼が喜ぶと思っている。複雑という前にまず、混乱に似た訳の分からなさに彼女は陥る。 「嬉しい!楽しみにしてるカラ!」  少年は花が開くように笑った。意外にも歯並びのよい口が小さく三角形を作る。それを見るとどうでも良くなった。安堵か否か、ナオマサの口元も緩んだ。見られたくなかった彼女の手がキャスケットのつばを下に引く。 「わぁ」 「空いている日を教えてくれ。迎えに行くよ」  話しているうちにカナンがやって来た。コーヒー豆の入った紙袋を抱えている。慌てた様子で、顔は強張っていた。しかしナオマサが振り向くと目を見開いた。 「あっ!その子が例の、イノイのお友達ですか?」 「はい」 「びっくりした。ナンパされてるのかと思っちゃいましたよ」  焦りのあまり息を切らしながらカナンは言った。彼の目はチャンダナに注がれる。 「イノイ姉さんのお(うち)の人デスか?」  チャンダナは人懐こく、にこにことしていた。ナオマサは実体のない苦しさを覚えた。この()に及んでまだカナンにこの友人のことを事細かに紹介できないでいる。放浪穢多は特筆事項であるが、かといって自ら大々的に言う必要性もない。金の腕輪も奇抜な異性装のワンピースもない。 「そうですよ。カナン-火喃-です。よろしく。―まさか男の子だったなんて」  カナンもまた普段の柔和な態度で、それからナオマサに意味深長な笑みを向けた。 「おで、チャンダナでス。こちらこそよろしくおねがいしマスです」 「チャンダナくんか。たまにはうちに遊びに来たらいいですよ。クロスタータでもアクアパッツァでも作って待っていますからね」 「はいデス!おで、アクアパッツァ大好きダカラ、楽しみデス!」  爽快な顔からナオマサは目を逸らした。弧を描いた目元に社会通念に毒された内部を晒してしまったら、彼はどう思うのだろう。そこまで考えて彼女の中にあったのは罪悪感や自省だけでなく、自罰と隣接した残酷な好奇心も含まれていた。それから二言三言話してチャンダナと別れた。ナオマサは口を噤んだままカナンの言葉を待っていた。 「いい子でしたね。男の子だったのは意外でしたけれど」 「はい」 「可愛いですよね、ああいう素直で快活そうな子って」  今日は車を使わずに、複合施設前のショッピングストリートから出てもヒルズまで歩いた。ドライバーを呼ぶ手間を惜しんだ。荷物は少ない。大体は二夫のデートも兼ねてアカミネの休みの日に会員制のパレット販売店で大量に買い溜めている。それで近くの複合施設で足りなくなった物を買って、少し欲を張る。この経済とはまた別のゆとりがある暮らしをナオマサは好んでいた。カナンと買い出しをしながら帰る道や、少しずつ変わっていく風の質感、空の模様を感じながら。しかしこの生活は貧しければ味わえない。明日の食い扶持も分からなければ、気付く暇はない。  今日はいくらか疲労した。肉体的なものではなく、突然の開放感に戸惑っているような。緩やかな坂は進むたび空が広くなる。前を歩くカナンの声は冷たい風に削られ卑屈な色を帯びていた。 「旦那様も素敵です」  本心であろうとも発言者の違いで何ひとつ慰めにもならない言葉をかけた。彼は振り返り卑下に満ち満ちて笑む。 「そういうつもりじゃなかったんですよ」 「旦那様がそういうおつもりでなくても、わたしは旦那様は素敵だと思います」  彼の自信の微塵にもならないことをナオマサは知っていた。片夫に営みの相手にされない夫は日を重ねるにつれ擦り切れている。営みのない優しさならば婚外でも振り撒けるのだとカナンは啜り泣きながら零したことがある。互いの素肌の温もりを2人だけのものにするために結婚したのだと叫んでいるのも見た。 「ありがとう、イノイ。気を遣わせたよね、ごめんなさい」 「いいえ。気を遣ったつもりはございません」  すべて本音で、しかし相手には本心として届いていない。カナンが泣きついて慰めを乞い、彼女に気休めを求めた時から、本心はすべてその場をやり過ごすだけの糊塗と化した。 「わたしが的外れなことを言っただけです」  日頃から、カナンは自身の性格を反省していることを知っていた。感情的で、嫉妬深く、能天気。それが彼の中での自身の性格らしかった。だがナオマサからしてみれば、彼は随分と感情を抑え、嫉妬深いどころか不規則に仕事に行ってしまい帰って来ないこともある夫に対しておおらかなくらいだった。能天気なのは忙しく突発的な提案をする夫の前で努めて気丈に振る舞い、相手の顔を立てようとしているだけだ。 「ううん。ちょっとだけ疲れちゃったみたい。混んでましたからね、さっきのお店。さ、帰りましょう」  カナンは話題を打ち切り、夫の前ではなくナオマサの前だというのにやはり気丈に振る舞う。活力に溢れたあの少年に会ってからどうも様子がおかしかった。  夜更けになってナオマサはまだベッドに就いていないアカミネから飲みに誘われた。カナンの苦手な缶アルコールを用意するように言った。どこでも買えるような安いもので度数も強い。アカミネが(わざ)わざコンビニエンスストアや市場に寄る姿はあまり想像がつかなかった。 「彼に何かあったのか」  先にキッチンチェアに座っているアカミネはナッツを摘まみながら寝室を向いた。 「いいえ。これということは何も」  グラスに注ぐのを止められる。アカミネは缶をそのまま口にした。そしてナオマサもそのまま口にした。 「態度が変だった。何があったのかと思ってな。お前から見て、彼にいつもと違うところはなかったのか」 「まったく身に覚えがありません。態度が変とおっしゃいますと?」 「いつもより妙に人懐こかった」  日常的に目を合わせようとしないアカミネの眼差しがキッチンテーブルを泳いだ。ハムスターが必死に滑車を回して音を立てる。 「無理をしている。何か後ろめたいことがあったのかと疑ってしまうほどに」 「気丈に振る舞っているんです。大旦那様がそのように思うのは辛抱なりません」  視線は合わない。しかしナオマサはアカミネの目を捉えたきり離さなかった。 「実際に疑っているわけじゃない。何も無かったならそれでいいが二夫なんだ。もう少し肩の力を抜いて欲しい」 「そうさせているのは大旦那様ではありませんか」 「自覚は………ある」  それ以上は踏み入らなかった。何よりアカミネはカナンの大切な人だった。互いに缶酒を流していく。 「夕方に買い物に行きました」 「聞いた。お前の友人に会ったらしいな」  夫の話でないならこの男は興味は無さそうだった。しかし形式的にでも会話を続けようとしている。 「もし何か、旦那様に異変があったのだとしたらそれからだと思います」 「何故」 「分かりません」 「近々、(うち)に招待するんだろう。彼もお前の友人に対して悪いようには言っていなかったが」  ナオマサは長いこと缶を呷る。悪酔いするような混合酒は下手な甘さが付いている。上品なものしか口にしなげなアカミネも貧民窟の盛大な祝いに時にやっと飲めるような安酒を舐めた。 「断ってしまっても構いません」  チャンダナにはまた別の方法で馳走になった礼をすればいい。 「その必要はない。彼も楽しみにしているようだからな」  下品な味わいの缶の焼酎ハイボールには合わない優雅な手付きで、少し高いナッツを摘む。小気味良い音まで品がある。ほんのりと酔いが回ってきた。アルコールに強いのかは分からなかったが今まで味わったことのない浮遊感を覚える。 「お前は誤解している」  小皿から顔を上げるとアカミネは目を合わせていた。それが胡散臭い。しかし酔いが回っている様子はなかった。 「お前は俺が彼に冷めていると思っているな」  ナオマサはナッツを齧った。返事はしなかった。 「夫にだけ営みの相手として機能できないということはざらにある。肉体的な問題だ」 「では他の人には機能するとおっしゃる?」  睨み合うような時間だった。アカミネは軽侮を含んで鼻で嗤った。 「男は機能するしないで愛情を証明するのか」  視線で繋がっているのがどうにも白々しかった。逸らすこともなく缶を傾ける。舌が慣れると甘みが消えアルコールの苦さばかりが目立った。人の飲むものとは思えない薬液と紛う味をしている。本当は消毒か何かに使うものだったのではないかと思ったが、対面にあるほぼ同じ缶には飲料を示すテキストがプリントされていた。 「旦那様は、大旦那様と向き合いたいのだと思います。二夫の営みというのは、ひとつの手段として」 「お前からみて、俺と彼は向き合っていない?」 「旦那様を目にしている限り、おそらく。足りていないかと」  アカミネは目を逸らし、意地の悪そうな笑みを浮かべた。何か誤魔化すようでもあった。 「言ってくれるな」 「出過ぎた真似をいたしました」 「いや、いい」  ナッツが噛み砕かれる。そして酒を流し込む。ナオマサも味わうようには飲まなかった。缶を空にしたアカミネは寝ると言って寝室に行ってしまった。酒臭さが残る。一等地に住まう容姿端麗な男でも安酒を飲めばアルコール臭さは平等に纏わりつく。 ◇  ナオマサは友人を迎えに行った。部屋に行くまでもなくマンションのロビーに彼はそわそわした様子で待っていた。ショッピングストリートで出会したときと比べるといきなり垢抜けた服装で、呼ばれても数秒は誰か分からなかった。ダークグレーからクールグレーまでのグラデーションが入ったオーバーサイズのスウェットシャツに黒のカーゴパンツを合わせ、白いスニーカーを履いていた。オレンジ色のサコッシュが目を引く。片手にはショッパーが握られている。 「おはヨー、イノイ姉さん」 「おはよう」  本当にあの少年かと、不躾に脳天から爪先までを何度も眺めてしまった。 「…変、かナ?」 「いいや。よく似合っている。前とは趣味が変わった感じがしたから驚いた」  にこりと笑うとやはりチャンダナだった。それまでは緩やかな表情をしていても市井のよくいる反抗期の抜けない小生意気な17歳男子の片鱗が窺えた。 「へへ。お友達にネ、どんな服装(かっこ)がいいかナって相談したんダ!」  窄まった袖口に重なり(たわ)む布から伸びる手首にあの金輪は嵌められていなかった。彼が動くたび薫るバニラに意識を奪われる。 「案内、よろしくネ!」  返事をする時機を逃し黙っていたナオマサを金色の双眸が覗き込む。そして小首を傾げた。本人の性格からして無意識にせよあざとさがある。まるで彼を包み込む香水は強くはなかったがナオマサの鼻はそればかりを追っていた。 「ああ」 「楽しみにしてたんダ」 「いい匂いがするな。バニラか?」  チャンダナはこくりと頷いた。そのまま俯いてしまった。 「うん。バニラとココナッツとアーモンドだったかナ?ラヴァニーユのアブソリュート・ギガンティナ・ミルクパールってやつだと思う」  ラヴァニーユはもとはファッションブランドで、今は手広く腕時計や靴、鞄なども作っている。香水は比較的安価に手に入るが、まずショップの厳かな雰囲気は一定のラインを試すようでもあった。 「お姉さん、この匂い、好き?」 「うん」  諸事情では憎んでさえいた。しかしそれを抜きにしたら好きだったかも知れない。彼女は不器用なりに無難な答え方をした。 「おで、あんまこの匂いサ、似合ってない気したカラ、お姉さんが好きって言ってくれテよかっタ。いい匂いだケドなんか子供っぽくナイ?」  襟を摘み、彼は布を扇ぐ。菓子とは異なるバニラの香気が広がる。付けている本人とは反対にナオマサはこの香りに十数歳程度上の従容(しょうよう)として卒のない大人をイメージさせた。彼は最も主張の強いバニラだけ嗅いで、腐ってもハイブランドの香水を手軽なオーデコロンだとでも思っているらしかった。 「でもあんま香水とか興味ないからこれしか持ってなくテ。おで、毎日お風呂入ってるケド、臭くないか不安でサ。それにお姉さんに、いい匂いって思われたいカラ!」 「そうか」  今日は晴れていた。マンションのエントランスを出ると彼の猫を思わせる瞳に陽射しが入り、その潤むような輝きで天気に目が向いた。温かく乾いた手が人慣れした野良猫の如くナオマサの腕に絡み、するすると手を繋いだ。 「どうした?」 「手繋鞦韆(てつらんこ)したかったカラ」  明朗に笑われる。小さいと思っていた手は手だけで感じると意外にも大きかった。指は短めで子供のような肉感がある。歩幅と速度が制限される。 「お姉さん、他人(ひと)の体温、ダメだた?」  掌から伝わったのかチャンダナは徐々に手を放した。 「何故」 「ちょっと、肩がカチカチになてタ」  小馬鹿にするように言われ、ナオマサは自分から意外にも広さのある手を取った。いつも前を歩く二夫や街中で目にする2人組になる。少年はへらへらと笑った。彼は身体に馴染むような柔軟さがある。雰囲気も反発感や質感も、触られ慣れている。  人気(ひとけ)のある通りに出ると誰も目にしていない、誰も気にしていないというのにナオマサは羞恥心に襲われた。主導権が温順(おとな)しく手を引かれていたチャンダナへ移る。 「行こ。どっち?」  彼女は俯きがちになってユキムラ宅の方角を指す。 「お友達のおうち行くのネ、おで、初めてなんダ」  ヒルズ前ストリートに出て彼は少しぎこちなくなった。 「だからサ、ちょっと緊張してるノ」 「わたしも友人を招くのは初めてだ。だから作法も分からない。そう気を遣うな」  トモダチナンダカラ。口からするりと、テレビドラマで観たことのある台詞と同じものが出た。自然と流れるようにフレーズが浮かび、吟味する間もなかった。 「うん。精一杯、楽しむネ!」  繋いだ手がぶらりと大きく揺れた。 「少し坂になる」 「ヒルズの上に住んでるんダ!すごい!」  地価だけでいうのならチャンダナの住まう区画のほうが高い。ただ開けた空間や緑との触れ合いを約束されているのはヒルズ上だった。一等地はブランド力と地価ばかりが高くタワーマンションの立地または階層次第でコンクリートの森林しか見えず、電波や陽当たりの問題があった。  緩やかな坂を抜け、マンションに着く。手を放すのを忘れ、出迎えたカナンに揶揄われてしまった。

ともだちにシェアしよう!