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第50話 疱瘡の乱⑩黄泉の国で

 本当の暗闇というものを、都会育ちの詩は見たことがなかった。  それが今、ある種の質量を持って詩の全身を包み込んでいた。  匂いや音はわかる。肺を内側から凍えさせる冷気も。  空気は冷たいのに、同時に粘つく湿気を含んでいる。  衣擦れが耳元で響いた。 「……なあ、詩……」  耳に湿った吐息が吹き込まれる。 「……お前、何か言えよ。まるで死んでるみたいだ」  聞き慣れた疱瘡の神の声。だがそれは苦しげに震えて聞こえた。 「疱瘡さん……、僕は生きてるよ」  そう答えたものの、詩も、自分が生きているのかどうか自信がない。だってこんな暗闇の中だ。  さっきから鼻についている悪臭が濃くなった。  冷たい手のひらが肌を這い回り、ゾワゾワする。  それでようやく、詩は自分が生きていることを確信した。 「ねえ、ここはどこ? なんで真っ暗なの」 「ここは黄泉の国の入り口だ……。お前の目に暗闇に映るなら、それは、お前が見たくない景色が広がっているからなのかもしれない」 「見たくない景色……?」  詩は聞き返す。 「死が、そこら辺にウヨウヨしている」 (死……?)  遺体でも転がっているんだろうか。 「俺も、死は嫌だ。せっかく捕まえてきた人間が動かなくなってしまうから……」  体の奥に鈍い痛みが走った。 「……っ、ねえ、疱瘡さん、何してるの……?」  耳元で聞く彼の吐息が、さっきよりさらに乱れている。 「……ったのか……」 「……え?」 「……お前を、犯している……」 (えええ……?)  肌をなでていたひんやりとした手が、へその真上で止まった。 「ほら、お前の中に俺がいるだろう?」 「待って……? うそ……」  そこで何かが動いて、鈍い痛みがひどくなる。  けれどもそれは肌を重ねる痛みとは、また違った何かに思えた。 (これ、なに……孤独? 悲しみ?)  どうしてか、それを感じていると胸が押しつぶされそうになる。  体ではなく心が、彼の痛みに共鳴しているのか。 「疱瘡さん、泣かないで……」  腕を伸ばして抱きしめた。  すると彼が震える息を吐き出す。 「……バカ言え。泣くはずない。俺には心がないんだから……」 「疱瘡さんの心、どこ行っちゃったの?」 「自分の魂と引き替えに、穢れの力を手に入れたって言っただろう」  そうか、それで今の彼は空虚なのか。  彼が繋げようとしているのは体でなく、空っぽな心の方かもしれなかった。 「こんなのダメだ。なくした魂、探しに行こう」  行かなきゃいけない。そう決めた時、詩を包み込んでいた闇が拓けた。 「ここ……」  二人は狭い洞穴に横たわっていた。  周囲はゴツゴツした岩に囲まれていて、急な坂道になっている。  坂道を下った先には真っ暗闇しか見えなかった。ぽっかりと穴が空いているようにも見える。  その奥から死臭が漂ってくるように感じた。 「詩、探しに行くなんて無理だ」  疱瘡の神が詩の体を抱き直した。 「俺はこのまま、お前とここで戯れていたい」 「こんな寂しいところで?」  彼は詩を見つめたまま答えなかった。 「僕は帰って、温かいところでコーヒーが飲みたいな。疱瘡さんと、それからみんなと一緒に」  彼の吐息がわずかに乱れた。 「だから、ね?」 「詩……!」  もう言うなとでもいうように、キスで唇をふさがれる。 「……んっ……ほうそ……さん……?」  押しのけるべきかどうか悩んだが、決断するより先に彼の気配が離れていった。 「……?」 「探しに行く当てなんてあるのか?」 「それは……」  初めて来た黄泉の国で、当てなんてあるわけがなかった。 「仕方ないやつだな」  疱瘡の神は相変わらずの悪臭を放ちながらも、詩の乱れた衣服を直してくれる。 「魂を取り戻したら、俺は穢れの力を失って、今度こそ少名毘古那たちに潰される」 「そんなこと僕がさせない!」  思わず言ったけれど、鼻で笑われた。 「お前にはあいつらに対抗する力なんてないだろう」 「そうかもしれないけど……」 「カッコつけんな」  疱瘡の神は呆れ顔をしながら詩を引き起こす。 「一緒に行ってやる。その代わり無事に魂を取り戻せたら、もう一回ヤらせろ」 「え……」 「……嫌なのかよ」  さすがに「いい」とは言えなかった。  友人以上の関係を受け入れるのは、それはそれで無責任だ。  それに”もう一回”も何も、今の行為がなんだったのか詩には釈然としないままだったし。  何も言えずにいると、疱瘡の神はあからさまなため息をつき、先に行ってしまう。 「あっ、疱瘡さん……?」  詩はとりあえず彼を追った。

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